街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「多賀城と北畠顕家」

 司馬さんの「街道をゆく、仙台・石巻」の書き出しは、『富士と政宗』の章からである。『幸い、大阪から仙台へ直航するYS11の便(全日空)があって、奥州が近くなっている』で始まる。

 司馬さんは、機内から見た富士山の美しさに驚き、そして、奥州人が大挙して、いつ富士を見たかという考察からはじまっていく。「14世紀の南北朝時代の公卿の北畠顕家にひきいられた奥州侍達であった」と書いている。

 私は、この章をどう描くか、すぐには、構想が生まれなかったのである。なぜなら、私の中で、10世紀中頃まで存続した陸奥国府多賀城(国府多賀城)と北畠顕家が多賀城で活躍した時代のギャップが350年もあるからなのである。


@ 多賀城政庁跡 入口                    〜多賀城市 市川〜


 多賀城市・市川地区、小高い丘に向かっていくと、板碑群と、玉石の縁石が並んでいる階段が見えてくる。

 今から遠く、神亀(Jinki)元年(724年)大野朝臣東人(Oono−Ason-Azumahito)によって創建された陸奥国府多賀城の中心的な官衙・政庁跡の入口が見えてくるのである。

 多賀城跡及び付属寺院である多賀城廃寺の発掘調査は、1961年(昭和36年)から、はじめられ、現在(2004年10月)も城内で第76次発掘調査が行われている。


A 外郭南門跡と南北大路                     〜多賀城政庁跡〜

 多賀城跡は、市川・浮島の丘陵上にあり、標高52mから4mの丘陵から低湿地をまたぐようなかたちで築かれている。
 
 全体の形はいびつな四角形で、規模は南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mで、面積的には八町四方位である。

 周囲には幅3m、高さ5mほどの築地が廻り、南辺中央に南門、東辺北寄りに東門、西辺南寄りに西門がそれぞれ位置し、南門から北に300mほど入ると、築地塀に囲まれた約100m四方の政庁跡がある。

 この南北大路はT期、2期が、幅13m、V期からは23m幅で拡幅されており、内郭の政庁跡へ一直線に結ばれている。


B 多賀城政庁跡  石段                    〜多賀城政庁跡〜

  外郭の南門からは、途中に民家が建っており、民家の敷地を迂回して、この石段の前に出る。

 この玉石で土留めされている階段は、発掘調査後、推定復元整備されたものであり、当時のままの姿ではないが、一部ではあるが、埋め戻されて傾斜のみになっている部分もある。

 さて、司馬さんが「街道をゆく 仙台・石巻」の中で描いた「北畠顕家」と多賀城の関連は、どうなのか、北畠顕家を人名辞典風に要約すると、次のようになるのである。

 「北畠顕家(KitabatakeAkiie)1318年〜1338年、南北朝時代に生きた公卿であり、後醍醐天皇の「建武中興」という時代に逆行した復古革命の政権のもとで「陸奥を鎮めよ」と命を受け、陸奥守になった。その後、多賀城でおおくの事をまなび、建武中興に対して後醍醐天皇へ諫奉状を書いている」ということである。

 そして、司馬さんは、更につづける。
「中央の命を受け、1335年の奥州の兵をひきつれて、第一次西上では、足利尊氏が負け九州へ逃亡した。そして奥州に戻るが、奥州地元が尊氏方の勢いがつよく、多賀城にいることすら危険になり現在の伊達郡霊山に移った」と、霊山での北畠顕家の記述を太平記から引用しているのである。

 司馬さんは、明確に「北畠顕家」が「多賀城にいた」としているのである。
 歴史小説なら、それでもいいのかもしれないが、はたして、どうなのだろうか?疑問が湧いてくるのである


C 埋め戻されて傾斜のみになっている部分      〜多賀城政庁跡〜

 推定復元の縁石の玉石は、下部がコンクリートで固定され、上部を土で覆っているが、雨水により、土が流されてきている。
 この傾斜部分の60cm地下に、創建当時の石段が埋まっているのである。

 多賀城跡は、現在までの発掘調査により、T期からW期まで改修されているが、要約すると次のようになる。

○第T期、神亀元年の創建から天平宝字まで(724年〜762年)
○第U期、天平宝字の修造から伊治公砦麻呂(Koreharino-kimi-azamaro)の焼討まで(762年〜780年)
○ 第V期、伊治公砦麻呂の焼討から陸奥国大地震まで(780年〜869  年)
○ 第W期、陸奥国大地震(869年)から10世紀中頃まで

と、奈良時代から平安時代まで続いた。その間、3回の大改修があり、奈良時代(T期・2期)には、軍事担当の鎮守府もおかれたところである。 


D 政庁第U期建造物模型                   〜多賀城政庁跡〜

 U期政庁内の建物の配置は、発掘調査の結果から、第T期の掘建式建物を撤去し、礎石式にし、建物・築地塀も瓦葺にされている。

 南門の位置は変わらずに、東西に翼廊を配し、正殿前に石敷広場をつくり、脇殿は、東辺・西辺築地の中央に移され建造されている。

 正殿の北側に後殿を配し、北辺築地中央に北殿がつくられているのが特徴でW期にわたる政庁の変遷では、一番豪華なつくりとなっている。

 しかし、このU期の政庁も、伊治公砦麻呂の焼き討ちにより焼失していることが、柱穴の中に残された焼けた木片、改修後の築地塀で使われた土砂の中に焼けた大量の木片等から明らかになっている。


E 政庁南門跡から、正殿方向                 〜多賀城政庁跡〜

 多賀城の変遷は、第W期が(第1小期から第3小期にわけられる)最後である。貞観11年(869年)の陸奥国大地震から、遅くとも10世紀中葉頃まで存続したのち、律令制度の衰退と共に、廃絶したと考えられている。
 
 そのことは、十和田火山帯による噴火の火山灰が多賀城にも降っており、その地層上には、1度だけ造営された跡があるだけである。

 文献上では、『続日本後紀』の839年(承和6年)の史料と、『日本三代実録』の869年(貞観11年)の記事として、陸奥国に大地震が発生し、津波が多賀城城下に押し寄せ大きな被害をもたらしたことが記されている。これ以降、多賀城に関することは文献上に登場することはない。


F 西翼廊跡と西辺築地(コンクリートによる復元)      〜多賀城政庁跡〜

 南門柱跡の礎石と、西翼廊の礎石に沿って、「石組排水溝」がある。石組排水溝は、現在のU字溝と同じに底と両脇を石で組み合わせて溝としたものであり、発掘当時の姿である(両脇のみコンクリートで補強)。

 では、多賀城が廃絶した後、10世紀中葉ころから11世紀の陸奥国の国府は、どこに移ったのかということになる。『陸奥話記』や『今昔物語集』にも「陸奥国府」「国府」という言葉が登場するが、残念ながら、現段階では、それが何処なのかわかっていないのである。

 多賀国府は、政庁から別の官衙へ移ったのかもしれないし、また岩切城へ移ったのではないかという説がある。

 いずれ律令制度の衰退と共に、城柵は姿を消していくことになるが、「陸奥国府」が「多賀国府」と呼ばれ、陸奥国の中心的な位置にあったことがわかっている。
 鎌倉時代に、源頼朝が立ち寄った。南北朝時代には、「国府」争奪の戦があったとも言われているが、場所の特定には至っていない。


F 石敷広場の古代の石          〜多賀城政庁石敷広場跡〜

 第U期の特徴でもある正殿前に広がる「石敷広場」である。
発掘調査による、古代の遺構に触れることの出来るのが、「石組排水溝」と、この「石敷広場」に敷かれている石の一部である。

 「石敷広場」の発掘当時は、正殿に向かって、約右半分に角のとれた石が残って発掘されたが、残念なことに左側の約半分は、なくなっていたのである。

 現在は、昭和の復元整備で、新たな石が敷き詰められているが、角が尖って歩き辛いので、昭和になって入れられた石であることがわかる。古代の石の確実な見つけ方は、桜の木の根本から右側にある石である。発掘当時、この桜の木は、手つかずになっていたからである。

 写真的には、昭和の角の尖った石の方が、いかにも石敷広場としての見てくれが良いが、史実的には、土が目地のように入って見える角の取れた石が古代の石なのである。



G 正殿基壇(レプリカ)と礎石                〜多賀城政庁跡〜

 立派な正殿跡である。発掘調査以前から、柵をめぐらせて保護されていた場所でもある。

 玉石の階段があり土を突き固めた基壇が本当の姿であるが、埋め戻しではなく、現在は、石造りレプリカの基壇となっている。礎石も子供心に地表には1コのみ出ていたと話してくれた人もおり、推定復元のようである。

 コンクリート製の築地塀は、皇太子殿下の行幸にあわせて、コンクリートで推定復元整備されたということである。


H  後村上天皇御座之地 の碑        〜多賀城政庁跡〜

唯一、多賀城跡で、北畠顕家との関連があるとすれば、この政庁跡の後殿の後ろに建っている「後村上天皇御座之地」碑である。

 「昭和10年4月13日 子爵 齋藤 實 敬書」と裏に彫られている。齋藤 實(Saito Makoto)は水沢市出身で、2・26事件で内大臣として暗殺をされた一人である。昭和10年は、暗殺される1年前に書いたということになる。

 碑文にある「後村上天皇」は、後醍醐天皇の第7皇子で、義良親王時代に陸奥守北畠顕家と共に1333年に多賀国府に向かい。1335年顕家と共に足利尊氏討伐のため西上し、1336年尊氏が破れて1337年に多賀国府に戻るが、足利勢優勢のために、多賀国府を出たということである。

 北畠顕家が陸奥守であったことから、「陸奥国府」が「多賀国府」と呼ばれていたことで、「多賀国府」=多賀城という式になったのではないかと思われる。


I 古木                〜多賀城政庁跡石敷広場〜

 正殿前の石敷広場のソメイヨシノである。江戸末期から明治期にオオシマザクラとエドヒガンの交配種として創られたサクラであり、当然、奈良時代には存在していない。根から発条していく様は、時代の移り変わりのように思える。

 多賀城が何故できたのか、縄文・弥生時代より生活を営んでいた民が東北地方にも住んでいた。特に、現、鳴瀬町、里浜貝塚では、土器に海水を入れて煮るという簡単な製塩が行われ、東北地方には産出されない黒曜石で出来た石器が見つかっており交易が行われていたと考えられる。

 そして、古来よりこの土地に住んでいる民は、水運により北上川流域を中心に、独自の文化を発展させながら生活をしてきたのである。大和政権から見れば「蝦夷(Emishi)」と呼ばれた古代東北の人々である。
 律令国家を目指す大和政権は、異文化を持つ「蝦夷」を植民地化する拠点に城柵を設けて従属させようとする。それが「陸奥国」への出先機関である城柵の造営である。
 これが724年、大野朝臣東人(Oonoasonazumahito)が創建した多賀城のはじまりなのである。


J 復元築地塀と石組排水溝               〜多賀城東辺築地〜

蝦夷」と云われる民は、自分たちの古来からの土地に建てられる大和政権の「城柵」造営と、律令国家の植民地政策により、さまざまな対応を突きつけられてくる。

 これまで培ってきた社会を捨て、律令国家の政策に同調して生き延びるか、あくまでも拒否して自己防衛するか選択を迫られてくるのである。しかし、呼び名を「俘囚(Fusyu)」「夷俘」「田夷」「山 夷」と呼び分けられても「蝦夷」は、律令国家の従属物でしかなかったのである。

 抵抗する「蝦夷」に対して、更なる「城柵」の急な造営と武力の増強、増税がもたらされ、造営に関わる民からも反抗勢力が生まれ、蝦夷の攻撃先が「城柵」へと向けられ、ついに780年、律令制度と共に生きる選択をし、官位を授けられた「蝦夷」であった「伊治公呰麻呂(Koreharinokimiazamaro)の乱」で多賀城は炎上するのである。
 それを契機に城柵のある各地で、自分たちの土地を取り戻そうとする「蝦夷」と大和政権の武力衝突が起き、阿弖流為(Aterui)と鎮守府将軍・坂上田村麻呂(Sakanouenotamuramaro)の38年にも及ぶ戦につながっていくのである。


K 多賀城廃寺講堂跡                     〜多賀城市高崎〜

 北畠顕家と多賀城の関係に話を戻す。
多賀城廃寺跡の説明板に『多賀城は延暦21年(802年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営に移されてから後も陸奥国府として、また11世紀の前九年、後三年の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治5年(1189年)源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良(Noriyoshi)親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめている・・・昭和40年3月、文化庁、宮城県、多賀城市 昭和60年8月書替 多賀城市教育委員会』となっている。
 
 ここを訪れた、北畠顕家ファンの女性が、「顕家は、多賀城にいたんだ」と胸をなで下ろす場所である。 


L 多賀城廃寺金堂跡                     〜多賀城市高崎〜

  説明文にある「前九年の役」(1051年〜1062年)とは、安倍頼時の陸奥守藤原登任に対する反乱に、はじまり、後の陸奥守兼鎮守府将軍源頼義・義家父子により安倍氏一族の討伐の戦である。
 
 その後、安倍氏の旧領であった出羽・陸奥地方の最大の地方豪族となったのが清原氏で、一族の内紛により「後三年の役」(1083〜1087年)が起き、源義家が介入し、藤原清衡が安部氏・清原氏の旧領を継承し、平泉に地方政権が誕生するのである。

 北畠顕家の登場は、南北朝時代であり、まだまだ先の話である。
私は、多賀城廃寺の説明板にある「多賀城」を「多賀国府」と書替え、「多賀国府の場所については特定されていない」と加筆すべきではないかと思うのである。
 北畠顕家ゆかりの地として、遠くから訪ねてくる方に、公的機関が、誤解を与えてはいけないような気がするのは、私だけだろうか。


M 埋め戻されている外郭南辺築地塀跡         〜多賀城市 市川〜
 
 調査後埋め戻されている築地塀跡である。脇の説明板に発掘当時の写真が掲載されている。
 恐らく、ここを訪れる人は、埋め戻さないで、そのまま見せてくれればいいのにと、思っているはずである。
 私も、始めて立ち寄ったときは、そう思った一人である。しかし、保存を考えれば、埋め戻すのが最良の方法であると思うのである。
 風化、あるいは、人為的な破壊から、どう守るのかである。一度壊れたものは戻せないのである。
 レプリカは、不要である。現存しているなら、壊れないうちに修復すればいいのである。壊れてからレプリカを作るなどというのは、愚の骨頂であると思うのである。
 石巻の旧毛利邸が今、傷みが激しくなっている。壊れないうちに修復を強く、望むものである。

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