街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「神々のこと」〜岩沼界隈〜

 『私どもは、仙台南方の田園にいる。阿武隈川の河口を亘理大橋から望んだあと、川の北岸に位置する岩沼市に入った。岩沼は、江戸から仙台に入る者にとって最後の宿場だった。芭蕉もここにとまっている・・・・』司馬さんの、この章の書き出しである。

 現代の岩沼市は、仙台市の南17.6kmに位置し、東西約13km、南北10km、総面積60.72kuを有し、人口44000人(2006.3月現在)の地方都市であり、西部の山岳地域から東部の太平洋岸に至るまで、なだらかに広がった平野が展開し、南部の市界には、阿武隈川が東流し、仙台湾に流入している。

 かつては、岩沼要害の「城下町」、竹駒神社の「門前町」、古来からの奥州街道として発展してきた国道4号線と、水戸から続く「陸前浜街道」として発展してきた国道6号線が合流する「宿場町」として栄えてきたまちであり、また、東北本線と常磐線の分岐点、宮城県の空の玄関としての仙台空港があり、交通の要衝になっている。
                                            (24.May.2006)


@ 旧・奥州街道                          岩沼市 中央3丁目

 仙台藩は、家臣三万三千余人の統制と秩序維持をはかるため家臣団が編成され、四代藩主・伊達綱村の時代に家臣団の格付けが確立した。

 仙台藩の特徴は、家臣に対する、@「門閥と家格」、A「地方知行(Jikata-chigyou)」、Bその領地の重要度による「館」(いわゆる「四十八館」と呼ばれる)に特徴がある。

 上級の藩士の「門閥(Monbatu)」(一門(Ichimon)・一家(Ikke)・準一家(Jun-Ikke)・一族(Ichizoku)・宿労(Syukuro)・着座(Chakuza)・太刀上(Tachiage)・召出(Meshidashi))、中級藩士の「平士、(または大番士(Oobans-shi)とよばれる)」、下級藩士の「組士(Kumishi)・卒(Sotu=足軽)」という厳格な序列をもっていた。幕末には、組士以上は「士分」とされたが「卒」は「凡下(Bonge)」と呼ばれていた。


A 旧・奥州街道                          岩沼市 中央2丁目
  百石以上の家臣に対しての報酬は、「地方知行(Jikata-chigyou)」制により、領地を与えられ、領主として領地の支配権を持ち、小城下町を形成した。
 大身の家臣には、仙台城下に「仙台屋敷」を与え、地方の知行地には、「館」が与えられ、仙台詰めを、「定仙(Jousen)」、仙台詰めのために向かうことを「参府(Sanpu)」「上府(Jyoufu)」と呼んだ。仙台版の参勤交代ともいうべき、仙台屋敷と知行地の間を行き来していたのである。反面、下級藩士の組士には、大抵切米(金銭)や扶持(Fuchi)=一人扶持は、1年、米一石八斗)で与えられた。

 江戸中期には、諸藩が石高制(Kokudaka-sei)に移行していくが、中世的な貫高制(Kandaka-sei)を最後まで踏襲したのが仙台藩の最大の特徴であり、司馬さんは「開幕のひらき手なりえなかったのは、この体制による」としている。仙台の近代化が遅れた要因だとしているわけである。

 その家臣団がつくりだした町が、現在の宮城県の各市町村と密接に関係しているのも事実であり、中小の家臣でも、新田開発を通じて現在の宮城県の米所を作り上げ、明治維新後も、在郷屋敷をもつ家臣が仙台城下から引っ越し、地主や村の役人などになって近代史の一翼を担ってきたのも事実である。


B 旧・奥州街道                          岩沼市 中央二丁目
 その知行地(領地)に築かれたのが、「館」である。「館」は、軍事的重要性に応じて、「城」、「要害」に区別され、城は仙台城と白石城、城に準ずる「要害(Yougai)」は、水沢・涌谷・角田・亘理・岩沼である。など軍事上の要地で政宗時代には11個所があった。地方の商業交通の要地、または町場を「所(Tokoro)」、農村の給地で、屋敷。侍屋敷・足軽屋敷・山林などの拝領地を「在所」と定め、家臣団を配置したのが「四十八館」である。

 その家臣団の知行地は、一定しておらず、時代により、変動がある。仙台藩といえば、伊達騒動、いわゆる寛文事件が関係してくる。


図−1 岩沼要害                     岩沼平城御廻切絵図(仙台市博物館 蔵)

 1615年(元和元年)徳川幕府は「武家諸法度」で、一国一城と定めたが、特に、幕府に貢献した大名の子孫の城は認められた。そのため、仙台藩には、新たに造営する仙台城と中世以来の片倉小十郎の白石城の存続と二つの「城」が存在した。

 岩沼の「館」は、城より1ランク下の「要害」である。『日本城郭大辞典』によれば、岩沼駅を造るときに館跡の丘陵を切り崩したため原型を失い、また周辺は住宅地となって遺構らしきものはないと記されている。司馬さんもそう書いている。

 岩沼館は、どこなのか、岩沼駅の北西側、丘陵を山の方に行くと「鵜ヶ崎城(Ugasaki-jo)跡」と標柱が建っているところはあるが・・、藩政時代の館跡ではない。

 『封内風土記』によれば、『古跡ひとつ、鵜崎城と号する、または武隈館と称する。往古、源重之朝臣が築いた。天正以前は誰が住んでいたか不明。天正のはじめより、泉田安芸重光、石田将監、大木不休、遠藤兵部、屋代勘解由、斉藤新蔵人、阿久津新右衛門、奥山出羽、奥山隼人、奥山大學、伊藤兵部少輔、古内主然、古内肥後、田村右京太夫、古内造酒助、霊元帝、貞享4年以来、古内民部子孫相継ぐ』と記されている。

 しかし、本丸に相当する本館、二の丸に相当する二の館が「鵜崎城(Ugasaki-jo)跡」かといえばそうではない。『名取郡岩沼要害屋敷並びに館下絵図』や『岩沼平城御廻切絵図』(仙台市博物館蔵)によれば、現在の岩沼駅にあたる広大な沼の真ん中の中島に城=要害があったことがわかる。


C 排水路                                   岩沼市 中央3丁目

 1887年 (明治20年)の鉄道の開通、そして岩沼駅の開業にあわせて、岩沼館のあった丸沼は埋め立てられ、本館跡を南北に貫いて鉄道が敷設された。今でも、その丸沼の排水路が旧市街を流れ、五間堀へつながっている。


D 竹駒神社へ                                 岩沼市 中央1丁目

  竹駒神社への曲がり角に来ると、旧・奥州街道というより、旧・国道4号線という現代的な様相に変わる。

 古い街並みを捨てざるをえなかった出来事があった。1978年(昭和53年)宮城県沖地震である。古い木造家屋は傾き、瓦は落ちた家がほとんどだった。


E 竹駒神社参道へ                             岩沼市 稲荷町

  奥州街道から、西へ入ると竹駒神社の鳥居が見えてくる。鳥居前の道路は右へ曲がるクランクになっている。

 クランクを道なりに進むとへ、右側に「馬事博物館」、そして参拝者用の駐車場がある。

  竹駒神社によれば、「842年(承和9年)小倉百人一首に名前を連ねている小野篁(Onono-Takamura)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建した」と伝えているが、司馬さんは、疑問をなげかけている。 

 後冷泉天皇の時代(1045年〜1068年)に陸奥国を歴遊中の能因(Noin)が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、隣接して庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となった。

 戦国時代には衰微していたが、伊達稙宗(伊達政宗の曾祖父)が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。1807年(文化4年)には正一位の神階を受け、1874年(明治7年)、「県社」に列格、戦後は、神社本庁の「別表神社」となった。


F 竹駒神社境内へ                             岩沼市 稲荷町

  「竹駒神社」の大鳥居の先に、石鳥居が見えるが、参道は左クランクになっている。普通は、鳥居から一直線に随身門へ向かうのだが、なぜだろう。

 それは、明治維新後に成立した新政府が18688年(明治元年)3月に発した太政官布告「神仏分離令」、いわゆる明治の「廃仏毀釈」に関係してくる。
 仏教排斥を意図したものではなかったようだが「廃仏毀釈」は、神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊など、結果的に、廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を惹起してしまった。

 神仏習合の廃止、神体としての仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急速な実施のために大混乱となった。

  こうした中で、1869年(明治2年)、竹駒寺は少し離れた場所に移転した。竹駒寺があった部分を除いた部分が、現在の竹駒神社と見れば自然であり、クランク状の参道も納得がいくと考えられる。


F 竹駒神社参道                             竹駒神社境内

 朱色に塗られた大鳥居をくぐり、石鳥居をくぐり、クランクになった参道を進むと、「おキツネさん」と丸い玉がのっている「宝珠灯籠」が建っている。

 竹駒神社は、地元では「たけこまさん」と親しみをこめて呼ばれいる。神社の説明によれば、古くから日本三稲荷の一社として数えられ、「京都の伏見稲荷(大社)」「茨城の笠間稲荷」そして「竹駒稲荷」としている。
 大社である伏見稲荷は別格としても、どこを三稲荷とするかの規定はないようで、自分の崇敬する稲荷社を三稲荷としてよいとも言われている。

 竹駒神社の祭神は、ガイド板によると、衣食住の守護神である三柱の稲荷大神を祀っており、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、保食神(ウケモチノカミ、食物の神、牛馬の神として信仰される場合もある)、稚産霊(ワクムスビ、穀物の生育を司る神で、五穀・養蚕の神として信仰される)の三柱の神であり、日本書紀での表記となっている。

 ご利益は、『産業開発、五穀豊穣、商売繁盛、海上安全、家門繁栄、安産、厄除、交通安全、請願成就など生成発展、産霊の大神として全国の崇敬者から極めて篤いご信仰を仰いでおります』ということである。

          

G 参道の「おキツネさん」                            竹駒神社境内

 稲荷神社というと、祭神は、キツネの神様と勘違いしている方もいるが、キツネは、狛犬と同じく「神の使い」であり「眷属(Kenzoku)」と呼ばれている。
 
 普通、稲荷社のおキツネさん達は、口に「巻物」、「宝珠」、「鍵」をくわえており、「巻物」は、神の教え、神託を表し、「宝珠(玉)」は、宝物、「鍵」は宝物をあける鍵を表している。稀に、子ギツネをくわえているのは、小宝を表しているということである。

 左のキツネさんは、足下で子ギツネがじゃれているように見える。右のキツネさんは、横になった宝珠を前足で起こそうとしているようで、コンコンさん、コンちゃんと呼びたくなるような、人間味のあるキツネさんに見えてくる。


H 竹駒神社 随身門                               竹駒神社境内

 1812年(文化9年)の建築で、総ケヤキ材でつくられている。三間一戸の八脚楼門で、屋根は、入母屋造り、銅板葺である。

 一階部は、桁行8.527m、梁間4.840m、二階部は、、桁行7.819m梁間4.178mである。木鼻の彫刻や意匠は、江戸時代後期の秀作といわれ、神号額は、仙台藩七代藩主・伊達重村の筆によるものであり、神号額の下にある「丹心報国」の大きな額は、明治の書家・中林梧竹(Nakabayashi Gochiku 1827〜1913、佐賀県小城町生まれ)により書かれたものである。


I 竹駒神社 唐門                               竹駒神社境内

 1842年(天保13年)の建築といわれ、総けやき造り、銅板葺の唐様を主として、和様を混じえた様式で、向唐門としては、宮城県最大である。という案内板1枚のみ、これだけの建築物で、この程度のガイド板は寂しい限りである。
 
 ※「唐様」と案内板には、書いてありましたが、近年は、唐の建築と勘違いされることから「禅宗様」といわれています。


J 竹駒神社 社殿                               竹駒神社境内

 江戸後期に建造された社殿は、1990年(平成2年)放火により焼失し、現在の社殿は、1994年(平成6年)に再建されたもので、かつての社殿の1.5倍の面積をもっている。再建から12年、木材や飾り金具も少しづつ、まわりの光景に馴染んできているようだ。

 右側に小さな鳥居の半分が写っているが、拝殿の下が半地下になっており、焼失前の社殿のあった場所に通じている。 


K 小さな「二木の松」                      竹駒神社境内

 竹駒神社から、「二木(ふたき)の松」へは、どう行くのだろう。近くを歩いていた老婦人に尋ねた「大きいのと小さいのがありますが、小さいのは、芭蕉の句碑のところにあります。大きいのは・・・と道を教えていただいた」

 芭蕉句碑の建っている「二木塚」がここである。芭蕉句碑を撮影される人は、碑の正面から撮っているが、ちょっと横に廻ると、小さな「二木の松」が碑の後で育っている。朝方降った雨で、根元から分かれる部分が黒く映っているが、元気に育っている。


L 七代目「二木の松」(武隈の松)」                     岩沼市 二木

 竹駒神社の近く北北西側に、「二木の松」がたっている。歌枕で有名な「武隈の松」である。電柱・電線がじゃまになるが、西側から撮ってみた。

 今から、千余年前、陸奥国司として着任した藤原元良(善)が、植え、以後、能院、西行をはじめ多くの歌人に詠まれるなった。現在の松は7代目といわれ、1689年(元禄2年)5月4日(現在の6月20日)に芭蕉と曽良が目にした武隈の松は、1862年(文久2年)に植えられた5代目だったと言われている。

 代々植え継がれた「二木の松」に芭蕉は感銘し、「おくのほそ道」に「め覚める心地・・・、めでたき松のけしき」と書いて賞賛している。

 尚、八代目「二木の松」は、現在の場所の後方に「二木の松史跡公園」が整備されて、歴代の松と同じ2本の幹が伸びる松が育っている。


M 旧・中町検断屋敷跡                             岩沼市 中央3丁目

 旧・奥州街道沿いには、長屋門、店蔵、脇蔵、奥には、木造建築の主屋を持つ商家が残り、宿場町の雰囲気を味わうことができる。

 店構えは、新しいが、『相傳商店 文政4年(1821)創業 相原傳兵衛』の屋根看板をかかげた日本酒『名取駒』の醸造元の店舗がある。旧・中町検断を務めた旧家である。

 検断役は、仙台藩においては、1町1人が置かれ、伝馬をはじめ、宿駅関係一切の仕事を統括する重要な職務であった。また大名の宿泊する本陣、脇本陣として休憩所としての役割をもたされていた。

 現在は、住居表示が中央○丁目となっているが、かつては、北町、中町、南町、新町と表示され、新町以外は、藩政以前からの街並である。


N 旧・南町検断屋敷・長屋門の旧家                     岩沼市 中央2丁目

 二階建ての長屋門の残るY邸が、旧・本陣、南町検断屋敷である。現在、両側の長屋には、各店舗が入っている。



O 旧・大肝煎の旧家                                小野酒造店 

 藩政時代の大肝煎だった。小野酒造店である。創業,は1661年(寛文元である。

 仙台藩は、仙台城下以外は、農村部として扱い、「郡奉行(Kouri-Bugyou)」の管轄支配であった。領内を19の区域に分け、1代官区に大肝煎(Ookimoiri)を一名置いた。大肝煎の身分は、百姓であったが、苗字帯刀と絹紬着用御免の特権が与えられた。大肝煎の配下には、肝煎がおかれて、大肝煎の指示により、肝煎が年貢をとりたてた。

 石蔵の店蔵と門が残る家

石蔵と海鼠壁の意匠の家

石蔵を店蔵としている家

P 宿場町の雰囲気を残す街並み                   岩沼市 旧・奥州街道

 岩沼市は、仙台都市圏として発展し、人口も増えている。どこの地方都市でもそうだが、モータリゼーションの発達で、町の脇にバイパスが通り、バイパス沿いに新しい商業地域が形成されている。

 この街並みも、「国道4号バイパス」ができる以前は、幹線道路であったが、バイパスができると人の流れも変わった。また旧街道沿いの後方に新たな道路ができ、マンションが建ち住宅地域も形成されている。

 古来から、城下町、門前町、宿場町として発展してきた現在の街並みを保存するやの話は聞こえてこない。こうした東北の一都市で、海鼠壁を持つ店蔵、商家が存在しているだけでも珍しいことだが、文化財としての指定以前に、注目されていないのである。

 文化財は、神社・仏閣だけではない。その都市を醸成してきた暮らしそのものが文化であり、それを残し、後生に伝えることも必要なことではないだろうか。そして、この旧街道沿いの店蔵の街並みは、保存する価値が充分あるのではないだろうか。

<< 目次に戻る    TOPへ戻る>>