街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

〜「蒲生干潟」

 仙台国際貿易港、その南側に、藩政時代の繁栄と明治以降の衰退の歴史を歩んできたのが蒲生地区であった。
 かつての松の美林が続いていた長浜海岸は、仙台港のバースにより、分断され、かつての面影はない。20haあった蒲生干潟も現在は、5haに減少した。

 渡り鳥は、個体数は、減少しつつも、長旅の疲れを癒しに、蒲生干潟を目指してやってくる。しかし、この干潟も、危機的な状況に陥りつつある。生態系が微妙に変わってきているからだ。干潟の自然再生をはかるために協議会が発足した。

 なにはともあれ、干潟で、野鳥のさえずりを聞きながら、静かな時間を過ごすのも、たまには良いものである。<2005.Jun.25>


@ 貞山堀(御舟入堀)脇                   宮城野区 蒲生

 海風の影響で、松の木が道路へせり出してきている。右側が埋め立てられている貞山堀跡である。

 この道路は、かつて貞山堀の堤防の一部であり、七ヶ浜街道へつづく浜街道の性格をもっていたが、現在は、蒲生高松地区の生活道路であり、蒲生干潟へ続く道になっている。


A 現在の七北田川河口                    宮城野区 蒲生

 現在の七北田川河口である。河口は、狭いながらも、砂浜が切れて太平洋の波とぶつかりあっていた。波が、川を遡ろうとすると、河面が盛り上がる。

 七北田川は、1670年(寛文10年)までは、七ヶ浜町の湊浜を河口にしていたが、砂押川から、単独河川として切り離す「河道付替」が行われ、蒲生に河口ができた。


B 旧・七北田川河道と干潟                    宮城野区 蒲生

 蒲生海岸は、漂砂や潮流の影響で、七北田川の押送力が弱められ、河口の閉塞もおきた。1912年(大正元年)の河口は、現在よりも1Km北で、海に出ている。河口周辺は、広大な低湿地で、湿性植物群がみられた。

 1952年(昭和27年)頃は、現在の河口より2キロ北、仙台港の港口付近から海に注いでいた。

 1961年(昭和36年)に、旧河口を締めきり、現在の新河口の掘削工事が竣工し,河口が直線的な現在の位置になり、旧河道が袋状の潟湖として残ることとなった。潟入口に石積導流堤ができた。

 こうして1950年(昭和20年)前後から、現在の干潟の形成が始まった。海岸線には、松林が広がり、現在の港口付近は、海水浴場として賑わっていた。


C 潟湖(ラグーン)                         宮城野区 蒲生

 1967年(昭和42年)仙台新港の建設により、北部が埋め立てられ、旧河口が、締めきられたことにより、干潟が減少し、現在の姿になってきた(工事前は、20haの干潟であった)


D 導流堤                             宮城野区 蒲生干潟

 潟の入口に石積導流堤が、最初につくられたのが、1961年(昭和36年)であり、1989年(平成元年)と1997年(平成9年)に水門の新設改修工事が行われている。

 左側は、七北田川の旧・河道であり、通称「内湾」と呼ばれている。右側は、現・七北田川の河道となっている。導流堤脇を歩いてみると、粘土が高く、靴底にべったり張り付いてくる泥である。

 潟湖と七北田川の水交換は、導流堤の3箇所の開口部でおこなわれ、潟湖の塩分濃度の希釈が行われている。ちなみに塩分濃度が高くなるとヨシ原は死滅する。


E 観測機器                           宮城野区 蒲生干潟

 干潟の調査のために、さまざまな無人観測機器が設置されている。近年、調査結果がまとまり、仙台新港の南防波堤からの反射波や漂砂の影響が深刻化していることが判明した。

 かつて、干潟に生息している貝類は、淡水性のものが、ほとんどだったが、近年は、アサリが多く見られるようになってきている。


F 蒲生干潟                           宮城野区 蒲生

  干満の差、天候によって、干潟の表情は変化する。干潮時には、5haの干潟が現れる。
 
 干潟には、春から夏に、チドリ・シギ類が東南アジアから渡ってくる。冬は、シベリアからコクガンが渡ってくる。そのため渡り鳥の観測地として特別保護地に指定されている。上の写真には、非常に見にくいが、岸辺にシギが写っていた。下は、シロサギ。80mmの中望遠では、この程度。これより小さな鳥は、300mm以上の望遠で撮したいところです。

G 大正〜昭和10年頃の河口                      蒲生干潟

  昭和10年頃の河口は、この場所あたりから、海にそそいでいた。


H 導流堤から見た旧・七北田川河道           宮城野区 蒲生干潟



I 砂丘 (護岸堤より撮影)                    蒲生干潟

 潟湖と海岸線の間には、砂丘が形成されており、コアジサシの営巣地として有名であったが、近年、4WD車による砂丘内走行により、ヒナが巣ごと、つぶされたり、営巣は見られなくなった。そのため、地元TV局が積極的に報道し、現在は、車両進入禁止の措置がとられている。


J 養魚場と日和山                         蒲生干潟

 蒲生干潟の入り口にある日和山である。標高6.05m、国土地理院の2万5千分の1の地形図に「日和山」の名前と共に、登録されてから、日本で一番低い「山」となった。
 もちろん自然に出来た「山」ではなく、明治期に村人が人工的につくった「山」なのである。
 日和山と呼ばれるところは、全国で80ヶ所ぐらいある。ここも、出漁の日和をみたり、舟を監視したり、舟からの目印にされていたといわれている。
 1996年に、大阪の天保山(三角点が標高4.53m)が載ってから、日本で二番目に低い山となった。
 登り口の階段隣にあった「日本一低い山」の看板は、現在は、「元祖・日本一低い山」となっている。「日本一低い山」の話は、今日的にも続いているようだが、渡り鳥には無関係な話のようである。


K 養魚場                               蒲生海岸

 1909年(明治42年)野谷地に2町歩の鯉・鰻の養魚場が開設され、養魚会社も設立された。大正期には、更に大規模な養魚場となったが、会社解散後は、個人経営となり、最盛期は年間200トンの鯉を出荷していた。 

L 養魚場跡                             蒲生干潟

 養魚場の広大な池は、年に1回水を落として、入れ替えるということだ。排水は干潟に流れるが、養魚場の池は、淡水であり、干潟の塩分濃度を下げる。

 塩分濃度が下がると、ヨシ原の保護にもなる。近年、養魚場のひとつが廃業して、池は埋め立てられている。近年の塩分濃度の上昇の関係が少なからずあるらしい。
 
 汽水域のバランスがとれれば干潟の保護がされる。干潟が保護されると野鳥も住みやすい。自然との共生がとれているのである。
 左側にクランドを均すときに使うトンボのようなものが見えるが、トンボではなく、池のゴミを集める道具である。


M  旧導流堤                             蒲生海岸
 蒲生干潟は、自然と人間との共生をはかる大きな課題をもっている。

 その一つは、地域住民が、困っている問題である。鳥の糞害である。洗濯物が糞だらけになって困る。営巣中は、夜明けと共に、サギ類の声がうるさい。という声もある。

 「自然よりも、地域開発だ」「海岸を一部埋め立てて老人ホームでも伊豆沼にある『サンクチュアリ』施設でも建てた方がいい」という声もあるのも事実である。

 夏鳥と冬鳥の越冬場所が違うことから、あっちは、いいけど、こっちじゃ困るといった。特定の鳥類の保護のためになっても変な話である。

 犬を放して散歩をする人もいるし、人間が巣に近づくのも、野鳥たちからみれば大迷惑なのである。営巣中の撮影などはとんでもない行為であり、カラスに巣があることをわからせてしまう。

 フォトコンでも、営巣中の写真は審査の対象外にしているということですが、コンテストのために営巣写真を撮る、慎みたい行為である。

 どのように自然と共存していくか課題があるのも蒲生地区で抱えている問題なのである。そのことは、突き詰めれば、我々ひとり一人が自然とどう向き合うかではないだろうか。

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