街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻〜

「東北大学」より「片平丁界隈」 その1〜

 司馬さんは、『私は、この旅で仙台の江戸期の地図を持ってきた。別に懐古趣味があってのことではなく、どの街に居ても、その原形と現状の二枚をかさねあわせて感じてみたいと思っている』と書き始めている。

 司馬さんは、『仙台におけるいまの都市づくりの核は、仙台駅前広場のようであるらしいが・・・・・・原形としての仙台は、やはり青葉城が中心である。川としては広瀬川によりそっている。ちょうど京都が御所を中心としつつ、鴨川に拠り、かつ東山によっているのと同じである・・・京都を歩くときに、東西南北がわからなくなれば東山をみればいい・・・』として、青葉山はどちらでしょうと街中で訪ねてみたということだが、結論的には、青葉山は、『京都の東山のように三十六峰が一列縦隊にならんでいないために、東西南北を見る上では役に立たない。青葉山はその背後の広大な山地の東端にあって・・広瀬川がふちどるようにして蛇行し、ときに意外な場所でこの川にぶつかる。それによって自分の位置がわかるわけではないが、心理的な安らぎを得る』としている。

 広瀬川が大きく蛇行し、青葉山の断崖が見え、変化にとんでいる東北大学のある片平丁や米ヶ袋界隈の風景は、都市化の波で変わりつつも、まだ『心理的な安らぎ』は今も残しているのは確かである。                           (30.May.2006)



図−1  東北大学 片平キャンパス周辺地図                  青葉区 片平丁

 現在の東北大学には、今回紹介する本部・金属材料研究む所等がある「片平(Katahira)」キャンパスと、「川内(Kawauchi)」、「青葉山」、「雨宮」(Amamiya)、「星陵(Seiryou)」と学部ごとに市内に分散している。そのひとつ片平キャンパスがあるのが、片平丁なのである。

 仙台開府当時の片平丁は、南は、西友のある六軒丁、北は、支倉北一番丁の突き当たりまでの長い町であった。広瀬川に面する道に、伊達政宗は、松と桜を交互に植えて並木道とした。キャンパス内に残る老松もこの名残とも言われている。

 仙台開府当時の片平丁は、伊達政宗が道幅を広ったことから、大広丁(Oohiro-cyo)とも呼ばれ、藩政時代には、伊達兵部宗勝や田村右京宗良らの大身の大名屋敷があったことから「大名小路」ともいわれた。
 
 1664年(寛文4年)の仙台城下絵図を見ると、約2キロの間に、間口50間の重臣達の屋敷が30軒ほど並んでいる。家臣団は、「家格」と「地方知行」によって統率維持され、片平丁の重臣達の知行の合計は、26万石であった。秋田の佐竹氏や、盛岡の南武氏でも20万石であったから、片平丁には側近中の側近の重臣を正宗は、住まわせたのであった。

図−2 寛文4年「仙台御城下絵図」         宮城県図書館蔵 原本356cm×376cm
 仙台城下絵図は、仙台開府頃の「正保2−3年」から「寛文4年」、「寛文9年」「元禄4・5年」「天明6-寛政元年」などが現存し、原本は仙台市博物館をはじめ官民機関で公開しているが、復刻版を入手することができた。そのうち、侍屋敷の居住者名が記載されている「寛文4年」版を参考資料として活用した。なお藩政時代の片平丁をヤマブキ色に着色した。

 寛文4年は、1660年(万治3年)三代藩主・伊達綱宗の逼塞隠居から4年後に描かれた絵図であり、1671年(寛文11年)3月27日の寛文事件、いわゆる伊達騒動を描いた山本周五郎作の小説「樅の木は残った」の中でも馴染みの重臣の名前が絵図上に記載されている。

 寛永9年の絵図では、伊達騒動に関わった重臣の屋敷が空白となっているところもあり興味がつきない。逆に幕末までの280年間続いている重臣の屋敷も5軒ほどあり、明治維新で、北海道へ開拓の道を選んだ、亘理伊達氏や、白石伊達氏もその例である。


@ 東北学院大学 土樋キャンパス 正門・本館               青葉区 南六軒町

 南六軒町に面して、東北学院大学 土樋キャンパスがあるが、藩政時代は、国老・柴田外記朝意の屋敷跡である。
 1671年(寛文11年)3月 江戸・坂井雅楽頭邸での、原田甲斐の刃傷により、伊達安芸が絶命、原田甲斐も、柴田外記と蜂谷左衛門により、打ちとられ、更に混乱により、かけつけた坂井邸の家来により、柴田、蜂谷も深手を追って翌日死亡した寛文事件の関係者の一人である。

 正面が大正14竣工した本館で、RC造2階、半地下1階の石張り城砦風の外観で設計者は、J.H.モーガンである。


A シップル館(旧デフォレスト館)東北学院大学構内         青葉区 南六軒

 明治19年完成の疑似洋風建築である。正面は、改造されているが、裏側・側面は、疑似洋風建築の特徴を今に伝えている。


B 旧・仙台高等工業(SKK)建築学科教室                青葉区 南六軒丁

 東北学院大学土樋キャンパスの向かいが、現在の東北大学片平キャンパスである。

 寛文四年の絵図によれば、SKKのあった南エリアには、大条監物、金津大門など中身の10軒の屋敷があった。

 正面が「仙台高等工業」SKKの建築学科教室で、竣工当時のSKKの正門は、現在より左にあって幅も広いものだったことが、当時の写真に写っている。建物のアーチ部分には、いまもSKKの文字と萩をモチーフにした校章がついており、アーチ越しに、当時は、広いグランドが広がってた。


C 藩政時代から続く道                        青葉区 片平丁

 西向きの南六軒町から、北へ向かう片平丁に続くカーブ、ここも藩政時代のままである。

 前方に見える横断歩道から、左側、西へ降りる急な坂道がある。「鹿子清水(Kanoko-shimizu)」という通りである


D 「鹿子清水」入口                          青葉区 片平丁

 仙台三清水と言われているのが青葉区・立町の「柳清水」、青葉区・八幡町の「山上清水」、そして青葉区・米ヶ袋の「鹿子清水」である。

 清水の名前が、通りの名前になったのものである。片平丁に面して、マンションが連なっているが、坂をおりてしばらく進むと閑静な住宅地に変わる

E 縛り地蔵                                 青葉区 米ヶ袋

 片平丁の鹿子清水入口 とは、だいぶ様子が変わるが、坂を下っていくと、正面に空き地が見えてくる。小さな児童公園のようになっているが、縛り地蔵が建っているところに突き当たる。

F 仙台藩・刑場跡                                青葉区 米ヶ袋
 仙台藩のかつての士分以上の切腹・斬首の刑場である。1666年(寛文6年)仙台藩の牢が、花壇から片平丁の現在の片平コミニテイセンターの地に移ると、刑場も評定河原から米ケ袋のこの場所に移された。士分以下の刑場は、七北田に移された。縛り地蔵尊は、刑場跡に建てられているのである。


G 縛り地蔵尊                                青葉区 米ヶ袋

  このお地蔵様、伊達騒動の時の忠臣だった伊東七十郎をを打ち首にした時の首切り役人(お小人衆)だった大橋万右衛門が、藩命とはいえ忠臣だった伊東七十郎の首を刎ねたことを悔い処刑の翌日、仏門に入りその後供養のために縛り地蔵を建立したと言い伝えられいる。

 また、一説には広瀬川大橋下の水牢で、処刑され、試し切りに寸断されたキリスト教伝道師カルバリヨの遺体が流れ着いたのを供養したという説もある。

 地蔵さんを縄で縛って願をかけると成就するとして縄でしばられている。
 空襲で破壊されたため、お堂と共に戦後再建されたということである。


H 広瀬川と刑場跡                                青葉区 米ヶ袋

 縛り地蔵の後側に小屋が建っているが、その後側が一段高くなって木々が生い茂って、フェンスで囲まれている所が見えるが、その場所が実際の切腹・斬首の場所であると思われる。


I 「矢込みの瀬」                                青葉区 米ヶ袋

 「縛り地蔵」の南側に広瀬川が流れている。「矢込の瀬」と呼ばれている浅瀬である。

 「通し矢」は、鎌倉時代の1251年(建長3年)に建てられた京都東山の蓮華王院本堂=「三十三間堂」で行われているが、仙台でも、四代藩主・綱村の時代にかけて流行ったということである。

 仙台にあった「三十三間堂」は、京都のような建物ではなく、長さだけは「三十三間堂」と同じであったが、廊下に片ひさしのかかったもので、絵図には「堂形(Dogata)」記載されている。

 弓組足軽から選抜し、「通し矢」の数を、きそった。的から外れた矢は、広瀬川に落ちるようにし、落ちた矢は、浅瀬にヤナ場を設けて回収したといわれ、「矢込みの瀬」と呼ばれている。

 また、前述のキリスト教伝道師カルバリヨの寸断された遺体が流れ着いたのも、この瀬で、信者の手により密かに埋葬されたと伝えられている。


J 旧・鷹匠屋敷 跡                           青葉区 米ヶ袋上丁

 鹿子清水の通りを戻って、段丘を片平丁に沿って「米ヶ袋上丁」に入る。米ヶ袋上丁と中坂通りの交差線に立っている。正面が、鹿子清水から続いている道である。左に曲がれば、片平丁へ、右に向かえば、現在の宮城県立工業高校へ向かう「中坂」通りである。

 鷹狩りのタカのエサは、生きた小鳥であり、小鳥を捕まえる役目の武士が、餌指たちであった。捕まえてきた小鳥を、飼っておく「鳥部屋」が、現在の県立工業高の場所にあったということである。


K 米ヶ袋中坂通り                           青葉区 米ヶ袋上丁

 中坂通りを、片平丁に向かって進む。なだらかな坂になっている。このあたりも鷹匠屋敷跡である。電柱に「阿部次郎記念館(大正期を代表する哲学者・美学者・評論家で日本文化研究者)」の文字が見えるが、記念館は、縛り地蔵尊の近くにある。


L 旧制・二高正門                           青葉区 片平丁

 中坂通りを、片平丁に向かって進むと、片平キャンパスに赤レンガの門が見える。旧制二高の正門である。チェーンがはってあるが、左へまわるとキャンパス構内へ入れる。元々は、武家屋敷跡なので、正門、南門、北門があるが、徒歩ならば、それ以外の場所からもキャンパス内を通り抜けることができるのである。


M 旧・東北帝国大学 正門                           青葉区 片平丁

 旧制二高の正門から、北に向かって歩くと、片平丁通りに沿った現在の東北大学の正門前となる。藩政時代は、伊達弾正の屋敷跡である。キャンパス内には、当然ここからも入れるが、正門からの道が、かつての「弾正横丁」とよばれていたが、旧・東北帝大が出来て廃道となった道であり、弾正横丁は、金属材料研究所前の通りに新たにつくられた。

 正門は、1925年(大正14年)竣工で、門柱は当時のままであるが、鉄製の扉は、戦時中に供出され、戦後に取りつけられたものである。

 私の後方はというと、伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿の方向になり、「正門は瑞鳳殿を向いている」とよく紹介されている。間違っても、『魯迅の下宿がある』などと書いては事実と反するのである。


N 旧・東北帝大正門前と鍛冶屋前丁                       青葉区 片平丁

 旧・東北帝大正門前が、左側の車両進入防止柵の部分であり、右手の横断歩道が鍛冶屋前丁の入口である。

 片平丁通りを隔てて、間口50間の屋敷とは、対照的に、通りの西側には、間口7間、奥行25間、片平丁の街路と直角に短冊割の屋敷構えがあった。現在は、マンションが立ち並んで、餌指たちの屋敷が並んでいたということは跡形もない。

 餌指たちの知行は、二切(Futakire)=小判一両の半分金二分、三人扶持(ぶち)だった。これが先祖代々から世襲で、知行が増えることはあり得なかったと言われている。

 鷹匠は「近習鉄砲組」に取り立てられたが、餌指には何の沙汰も無く、伊達綱村に直訴した結果、小鳥を狙うために平常風傳流と称する短槍を稽古していたことから、槍同心に編成替えとなったが、首謀者は犠牲となって死罪となった。当時の片平丁はこのように格式と貧富の差が甚だしい町であった。


O 旧・鍛冶屋前丁を望む                           青葉区 米ヶ袋

 片平丁通りの西側に、東北大学の正門先から、伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿へ向かう広瀬川に架かる御霊屋橋へと続く通りが、「鍛冶屋前丁」である。

 このあたりから、、「鹿子清水(Kanokoshimizu)」入り口までの段丘が低地になっている。このあたりの片平丁通り西側に沿って、細長く、餌指衆(Esashi-syuu)と呼ばれた仙台藩最下級家臣団たちが住んでいた。


P 仙台藩・御鍛冶屋 跡                      青葉区 鍛冶屋前丁

 左側の官営のアパートが並んでいる広大な一画が、仙台藩直営の鍛冶工場があった場所であり、鍛冶職人が集団で住んでいた地域である。

 そして、鍛冶工場の裏側には「籠」と書かれた、仙台藩の牢獄があったところである。

 この交差店を右に曲がれば、米ヶ袋上丁の通りである。


Q 小川記念園と新たな「弾正横丁」                青葉区 片平丁

 第4代東北帝大総長、小川正孝教授(1865-1930)の功績をたたえて
東北大学発祥の地の一画に造られた「三角公園」で、1932年(昭和7年)9月11日に除幕式を迎えた。

 小川教授は、1911年(明治44年)東北帝大理科大学(現・理学部)・化学第一講座の初代教授として着任したが、在任中は、1908年に、日本人として初めて、43番目の新元素を発見し、「ニッポニウム」と名付けたが、その後の追試で確認されず、1943年、セグレにより43番目の新元素は「テクネチウム」となったが、近年、 ニッポニウムは、元素番号73の「レニウム」と同等であることが証明された。

 小川記念園から、右に曲がると金属材料研究所、本田記念館の前を通り現在の東北大学・北門前に通じる、「弾正横丁」である。


R 野面積みの石垣                         青葉区 片平丁通り

 この片平丁通りの東側(小川記念園から片平丁小学校あたりまで)の野面積みの石垣は、侍屋敷(石川伊達家)の名残りとして現在も残っている。

 キャンパスのある片平丁(katahira-cyo)は、西側を蛇行しながら流れる広瀬川に沿った段丘上にあり、片平の地名は、片側が屋敷町になっているから、あるいは、片側が古語の崖(ヒラ)になっているからと「ヒラ」の意味を巡り諸説があるが、通りの西側は、急な坂道となって広瀬川へ向かい、東側は東北大構内そして一番町と街並みが広がっている。


S 仙台藩・牢への道                            青葉区 片平丁

 弾正横丁の片平丁通りを挟んだ向かい側に、一段低くなった平らな場所がある。現在は「片平コミニティセンター」が建っているが、東北大の旧・農研があった場所で、大正期には、旧制二高のグランドだった場所である。

 そのコミニティセンターへ降りていく小さな坂道が、かつての寛文6年から幕末まで、この地にあった仙台藩牢への出入り口であった道である。

 両側には、竹が植えられて、「伊達政宗も愛した道であり、竹の子を持ち去らないで・・」と町内会の小さな看板が立っている。確かに竹の子を掘ったら竹は育たないが、牢への道を政宗が愛したかどうかは疑問である。


21. 仙台藩・牢跡                            青葉区 片平丁

 仙台藩牢は、江戸小伝馬町の牢屋と同じであったように、侍の囚人を収容する建物を「揚屋(Agari-ya)」といい、東の大牢、西の大牢、女老、無宿者を収容する六間牢、百姓を収容する前牢、兇暴な囚人を収容する三尺牢があり、片平丁側には櫓が建ち、構内四箇所に見張り番所があったと言われている

 寛文事件で、伊達兵部を暗殺しようとした伊藤七十郎が寛文8年4月28日の斬罪の日まで収監されていたのもこの場所であった。


22. 仙台藩・牢跡から御霊屋橋を望む             青葉区 片平丁コミニティセンター

 米ヶ袋地区より、段丘の高さがあることがわかる。川辺は、断崖、棚貫とからたちを植えつけ、他は板塀を巡らしたものである。といわれている牢獄跡からの眺めというには、もったいなくも静かに広瀬川が流れている。

 現在は、広い公園となっており、若い母親達が子供達をつれて、この日も散歩に来ていた。


23. 市中引き回しの道                    青葉区 片平丁コミニティセンター

 「引き回しの上、獄門」時代劇で登場する判決である。獄門とは、死刑のうえ「さらし首」にすることである。

 「引き回し」の順路は、牢から出され、裸馬に乗せられ、ポールの先の道を進んで片平丁にでる。北目町−染師町−田町−猿引丁−土樋−荒町−南鍛冶町−御茶畑−連坊−八塚−孝勝寺−名掛丁−元寺小路−東四番丁−新伝馬町−大町−肴町−立町−本材木町−国分町−二日町−北一番丁−北八番丁−大巌寺−北山−七北田仕置場に至った。

 刑の執行は、藩主の命日や神事の日は避けられ、月にして三回、一日3〜4人で、多い日は20人くらいあったと記録されている。特に飢饉の年は多くかったということである。


25. 旧・下宿屋「佐藤屋」                     片平小学校向かい

 司馬さんは『魯迅の下宿も、湾曲する広瀬川に近い。さらには東北大学の本部構内の西辺(正門がある)と道をへだててむかいあっている』と書いている。
 
 これは、司馬さんらしくない大きな間違いである。本部構内の正門向かいは御霊屋橋へ向かう「鍛冶屋前丁」の通りがあるだけで、この『魯迅の下宿屋』はない。

 この旧・下宿屋があるのは、旧・生物学教室の向かいであり、片平小学校の斜め向かいなのである。柳町通りの突き当たりにあたる。片平小学校を間違えるはずがないのである。

 なぜ間違えたか?藩政時代の絵図と現在の地図を2枚持って、訪れたならば、わかるはずである。

 
 この章を書くに当たり、昭和54年に出版された「廣瀬川の歴史と傳説」という三原良吉氏が地元で発行された書籍も参考としたが、当時は680円、現在は、古書店で2500円くらいである。一度、司馬さんの「街道をゆく」の本と一緒に読まれることをお薦めしたい。


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