街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「塩と鉄」より塩竈港・海岸通り

 司馬さんは、「塩と鉄」の章で、『しおがまをめざしている。「塩竈」と表記する。竈の字は、ややこしい・・・・カマドと上にのっているの釜とはべつなものだが、訓(よ)みがおなじだから、地名や神社の名のしおがまは、ときに塩釜と書かれたりする。いいかげんなものである』と書き始め、『文句が出たときの用心として言っておきたいが、本来、かなで「しほがま」と表記するのがもっとも古格ではあるまいか。奥州のしほがまの場合、はじめに、しほがまという大和言葉があって、のちに漢字があてられたにすぎない。竈という字劃(じかく)のわずらわしい文字をさけて釜を当ててもよさそうにおもえる』と書いている。

 たしかに、司馬さんのおっしゃる通りである。塩釜市の公用文書は、「塩竈」であり、戸籍や住民票には、「竈」の字が使われている。しかし日常的には、駅名や郵便も「塩釜」で通用するし、がんじがらめには、なっていない。「釜」でも良いことになっているのも事実である。
 しおがま神社の場合は、神社側として「塩」の字も「釜」の字も使わずに、「鹽竈神社」として使っている。『いいかげんなものて゜ある』と司馬さんは言っているが、こだわりを持って使っているということで良いのではないかと思うのは、やはり私が宮城県にすんでいるからなのかもしれない。
(31.DEC.2007)加筆(06.SEP.2011)


A 春、千賀の浦を望む                          〜志波彦神社〜


 塩釜は、古来から港と共に発展してきた街である。
江戸期の仙台領の港は、付け替えられた北上川河口港の石巻、東廻り航路の阿武隈川河口の荒浜、そして外港として仙台湾内の寒風沢があった。

 現在の塩竈市は、仙台市から北東へ16qに位置し、奥州一の宮・塩釜神社の門前町、水産の町として繁栄と衰微を繰り返しながら発展してきている。2007年の人口は、59,357 人、市の面積は、17.85 ku 人口密度3,325.3人 /kuで県内で第一位となっている。また松島湾に浮かぶ浦戸諸島(寒風沢島(Sabusawa-jima)、野々島(Nono-shima)、桂島( Katura-shima、朴島(Hou-jima))も塩釜市である。



 里浜貝塚(東松島市)出土の製塩土器        〜重文・東北歴史博物館所蔵〜


 リアス式海岸の特徴を持つ松島湾沿岸部は、縄文遺跡が点在し、縄文晩期〜弥生前期の層から、海水を煮詰めて塩をつくった肉厚の薄い「製塩土器」や「製塩炉」が発掘されている。

 海草を使って海水を煮詰める「藻塩焼き」もおこなわれていたとも考えられ、東北地方には存在しない黒曜石の矢じり等も発掘されていることから、古来より製塩の地であり、塩との交易も行われてきたと考えられている。

 このように、古来から入り江が天然の湊として、松島湾内沿岸部は、海と密接な関係を持ちつつ、現在に至っている。芭蕉が訪れた当時の塩竈は、 更に私が立っているこの地よりも入江が、深く切れ込み、塩釜神社の門前に最深部があった。そのことは、江戸期の屏風絵等で知ることが出来る。



B 「 鹽竈松島図屏風」                   福岡市美術館蔵(黒田資料)より引用

 江戸時代初期の屏風絵に描かれた塩竈の湊の様子である。
中央上には鹽竈神社が描かれ、入江の山に法蓮寺(現在の勝画楼がその一部)が見える。
 町屋からは、細い入江(千尋淵)の対岸にある鹽竈神社前へ橋(お断はし)が架けられ、渡れるようになっている。この町屋が現在の「本町(Moto-machi)」となっている。
 町屋の左下には、四角の塀の中に丸い4つの丸が描かれている。これが現在の「お釜神社」の御神釜である。
 
 町屋の前は湊として整備されている。この頃すでに千尋淵の埋め立てが行われ湊としての機能を有していたのであるが、近代的な港とはほど遠く、塩釜が湊として機能していくのは、四代藩主・伊達綱村の時代になってからで、1686年(貞享3年)に発せられた「貞享の特例」といわれる「商人荷物五十集船並びに御国他国材木船の分一円塩釜へ着岸致し候様」と湊への物資の集中を命じ舟運が賑わった。



B 「塩竈港開港恩人 伊達綱村 菩提寺」          塩竃市 旭町 東園寺

  塩竃の湊が栄える土台をつくったのが、伊達綱村の「貞享の特令」であったといわれている。
 村民へ、毎年数度の市の開設許可、村民に対する租税諸役の免除、毎年二百五十両を村民に等分に分かち与える―などを内容とするもので、村民はこの特令を「お恵み」と称し、綱村公の命日には村民の代表が、菩提寺である大年寺(※綱村が建立以後幕末まで伊達家4代以降の菩提寺・・明治になって、墓地のみとなる)に詣で香華を捧げるのが幕末までの慣例だったといわれている。
 現在に至っても、塩竃市東園寺には、伊達綱村の位牌を安置して、塩竈開港の公徳をたたえている。
 この特令によって塩釜の人口がふえ、現在の旧家と称せられる家もこの前後に塩釜に来往した家が多いと言われている



C JR仙石線 本塩釜駅                            塩竃市海岸通15


 1926年(大正15年)宮城電気鉄道の本塩釜駅として開業したが、1981年(昭和56年)高架複線化に伴い、現在の「壱番館」のある場所から、塩釜線塩釜港駅のあった現在地に新設移転した。
  2007年、左側に、イオンへ通じるアクアケート口ができ、正面の神社参道口、向かって右側の駅ビル・エスポート口があった。
 2011年、イオン塩釜SCの影響を受け、駅ビル「エスポート」は休業となった。また3月11日の津波被害では、駅舎1階部分が被害を被った。


JR仙石線本塩釜駅 南側には、まだかつてのヤード跡の面影が残る

C JR仙石線本塩釜駅 南東方向                           塩竃市海岸通


 明治期に東北本線の布設工事をすすめていた「日本鉄道株式会社」が、南築堤の東に約500mの護岸を築き、その背後に約10000uの埋め立てを行ない、工事資材を荷揚げする場所とした。そしてここから岩切に向けて資材運搬用の鉄道を布設したが、翌20年12月にはこの仮設鉄道が営業用の線路に改修され、仙台と塩釜、関東方面と塩釜の間が鉄道によって結ばれることになる。
 埋め立てられた場所の一帯が、このあたりで、南側画像の民家の後ろ側が「海岸通り」である。

 廃線後のヤード跡もスーパーやDIY店ができ面影はなくなっている。



D 2005年の旧・観光桟橋                                 塩竃市海岸通

 正面にやや左側に、司馬さんが見たであろう大型スーパーが見えているのが、2005年頃までである。現在は、この旧桟橋の向かいあたりに移転している。

 「マリンゲート塩釜」が出来る前の、昭和の観光桟橋である。この岸壁から市営汽船や、観光船がでていた。左端に公園のような感じでフェンスが回っているが、岸壁はもう少し奥の方に延びていた。

 現在は、御座船(Gozabune)が係留されているが、藩政時代に描かれた鳳凰と龍鳳を型どった船で、鹽竈神社の神輿と志波彦神社の神輿を載せて、松島湾内を巡幸する「しおがま港祭り」のためだけに使われる塩竃市の所有船である。



C 2007年の塩釜港・港奥部を望む                              塩竃市港町1

 
 司馬さんは 『塩釜の港は、浅い。すでに江戸時代からいずれは陸になるだろうと、いわれていた。げんにいまは陸になり、スーパーなどが建っている。塩釜港は、そのスーパーのちょっとさきに築港されている』と書いている。
 この本が書かれた時は、1990年であるが、今日まで塩竈港は、明治・大正・昭和と埋め立てや浚渫が行われ変化し続けている。私が立っている所は、平成8年竣工した観光船や市営定期船の桟橋のある「マリンゲート塩釜」(塩釜港旅客ターミナル)の展望デッキ上で、港奥部を見ているが、ここも明治期の埋め立て地である。。

 正面の丘陵が、鹽竈神社のある「一森山」。平地が少ないので丘陵地にビッシリ家が建っている・・人口密度県内第一位の理由である。
 
 正面左側に見えている大きなスベリ台のように見えるのが、2007年5月に誕生したイオンタウン塩釜SCの駐車場と建物である。かつての塩釜港駅のヤード跡である。


浮き桟橋

C 2007年の塩釜港・港口部を望む                              塩竃市港町1

  「マリンゲート塩竈」の展望デッキから、湾口方向を見る。
松島遊覧船や市営定期船の停泊している桟橋が、浮き桟橋で、潮位の影響を受けずに船の乗船口にそのまま乗船することができる。2011年3月11日の津波で、この浮き桟橋がみるみる上がった映像を記憶している方も多いではないかと思う。

 その先の岸壁が、西埠頭、貨物用の岸壁である。海上保安庁や海上自衛隊のイベントがあるのも、この埠頭である。

 そしてこのマリンゲート塩竈の場所は、昭和4年に竣工された「塩竈町魚市場」跡である。昭和41年、現在の対岸に新漁港が新浜地区に移り、「塩釜水産物中卸市場」ができるまでの水産業を支え続けたのである。

 画像、左上の対岸の平べったく見えているのが現在の魚市場である。



C 2007年のマリンゲート塩釜                                塩竃市港町1

  マリンゲート塩釜は、松島・及び離島間の旅客ターミナルビルとして、また地域振興を目的として、平成8年に竣工した船をイメージした意匠である。
 また津波避難所の役目も持っている。2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波では、落書き跡のある防潮提を越して、1階部分は水没したが、津波避難所の役目を果たしている。



C かつての塩釜港駅ヤード                                    塩竃市港町1

 かつて賑わった塩釜駅も、宮城電鉄(現仙石線)が開通し、旅客が、「本塩釜駅」を利用するようになると、塩釜港駅は、貨物の比重が大きくなり駅舎の位置や名称も、塩釜埠頭駅に変わったりしていった。

 更に、輸送手段が鉄道から、モータリゼーションの普及で、輸送形態が変化していく中で、塩釜の鉄道輸送は、旅客のみの仙石線だけになり、貨物は全廃、軌道跡だけが一部に残り現在に至っている。

 中央に見えるのがイオンタウン塩釜SCで、マリンゲート塩釜と同じく東日本大震災の津波避難の役目を果たしている


マリンゲート塩釜から西埠頭へ かつての引き込み線跡には植栽のある歩道に変わっている

塩釜貞山運河に架かる橋、かつての「貞山堀運河橋りょう」で、鉄道用可動橋の場所である

「貞山堀運河橋りょう」のレリーフ板が取り付けてあった。

塩釜貞山運河沿いに歩いて、中の島地区へ行ってみる


S 2007年の「中の島」                           塩竃市港町2


  大正4年の埋め立てによってできた中の島も、現在は陸地化しており、島という面影はないが、緑地公園になっており、ここに海の名残の水路があったということがかろうじて判る程度である。


マリンゲート塩釜まで戻って、海岸通りをゆくヤード跡の後ろの通りになる   塩竃市海岸通

手書きのセール品名が下がっている衣料品店                 塩竃市海岸通

昭和50年代は、交通量が多く、車で通るが一番嫌な交差点であった         塩竃市海岸通
交通量も減ったが、開いている店舗の登り旗が風に揺れていた。     塩竃市海岸通

ファサードに屋号が刻まれて往年の歴史を感じる               塩竃市海岸通



2007年の「明治の舟溜まり跡」の中小ビル群                     塩竃市海岸通

 舟溜まり跡といえば、埋め立てられても、地盤が悪いだろうから、道路か公園になっているんだろうという先入観で見てしまうが、実は、正面の中小ビルが建っているこの一区画全てが「舟溜まり」跡なのである。

 塩竈の街で、一番先にビルが建ったところであり、昭和の時代は、一番華やかであった商店街であった。正面の中小ビルが建っているこの一区画全てが「舟溜まり」跡なのである。塩竈の街で、一番先にビルが建ったところであり、アーケードが回っている。昭和の時代は、一番華やかであった商店街であった。

  しかし、今日、シャッターを締めている店が多いのも現実であるが、ドラッグストアや、寿司店など人が絶えず出入りしている店もあるし、昔から続いている店があるのも現実の姿である。

海岸通りといえば、シャッター通りと言われるようになっている       塩竃市海岸通

「しらはた」「すし哲」といえば塩釜で一番多く取材を受けた兄弟が経営する寿司店だった  塩竃市海岸通

路地の間にあった鮮魚市場、スーパーよりも値段は高めだが切り分けてくれる       塩竃市海岸通




M 仙石線 旧・本塩釜駅跡「壱番館」                          塩竃市本町1

 昭和の舟溜まりは、かなり大きい。この細長くウナギの寝床みたいな建物が、2005年にオープンした仙石線、旧・本塩釜駅の跡地に建っている「壱番館」である。

 1階部は店舗、2階以上には市民交流センター、図書館などが設置されている複合型施施設となっているのが、塩竃市の多目的ビル「壱番館」である。

 このビルから左側、全てが昭和初期の舟溜まりである。明治の舟溜まりも昭和初期の舟溜まりに飲み込まれ、私の立っている後方、北浜からの水路までが昭和の舟溜まりである。今では、仙石線の旧ルートまでが道路に飲み込まれ、街の中にとけ込んでいる



O チリ地震津波被害             宮城県津波防災シンポジウム パンフレットより引用

  昭和の舟溜で思い出すのがチリ地震津波被害であった。
 1960年(昭和35年)5月24日未明のチリ地震津波が三陸沿岸を襲ったあの津波の被害写真である。

 塩竈湾を前ぶれも無く2.7mの大津波が直撃し、北浜・海岸通一帯には漁船や観光船が打ち上げられ、死者2名、負傷者76名、家屋流出1戸、全壊33戸、床上浸水835戸を出したのをはじめ、浅海漁業・農商工業・土木港湾等に甚大な被害が発生し、損害は、11億円に及んだ。

 当時、仙石線の本塩釜駅は、単線で地上を走っており、海岸線から離れているものの、ヘドロ化した舟溜まりの名残りへ打ち上げられたのである。

 しかし、津波被害は、また繰り返された。被害も塩竃市だけで死者50名、損害額は、昭和のチリ地震津波とは比較にならない程甚大であった。



松尾芭蕉 出帆の湊付近                              塩竃市宮町2


 藩政時代は、塩釜から松島までは陸路ではなく、海路であった。松尾芭蕉も塩釜から舟で松島へ向かっている。
 当時の湊は、右側の壱番館の向かい側であったと言われている。その千尋淵も現在は道路になっている。



2007年の北浜地区                          塩竃市北浜4

  中小の造船所が並ぶ北浜地区、陸地からそのまま海面へ続いている。この辺りも、高潮対策と再開発で移転する造船所もあるようだ。
 満潮と災害が重なったときの被害を考えると、今日までこの場所が残っているのが不思議なくらいである。

  しかし、2011年3月11日 それが現実に起きてしまったのである。



千尋淵の名残                                       塩竃市北浜1

 その千尋淵の名残が、塩釜港の港奥部の北浜にある水路である。国道45線の海岸通りとマリンゲートへ行く交差点の位置にある水路である。

 仙石線の高架が続いているが、橋脚下に、路盤跡が見える。旧・塩竈魚市場支線の橋脚跡である。



旧・塩竈魚市場支線跡と現・仙石線高架橋                           塩竃市北浜4

  昭和40年、岸壁にあった魚市場は閉場され、新たに埋め立てられた新浜町に新魚市場が開場された。塩竈線は、北浜地区の海岸線に沿って魚市場まで延びている。このルートが、現在の仙石線の高架ルートになっている。


r水路に沿ってゆく                            塩竃市北浜

r水路は、西町方面とそのまま宮町へ別れたり曲がったりしていく          塩竃市北浜


F 北浜からの水路終端                          塩竃市宮町2 

 大正元年の地図にある「宮町」界隈である。千尋淵の名残の水路は、護岸が補強されているが、当時の姿と変わっていない。
 大正期には、この水路の突き当たりから右へ曲がって更に延びているが現在では、右方向は、暗渠になっている。
 この水路の突き当たりを横切る道も、当時からの道である。正面の大きな商家は、大山米穀店で、創業は明治30年である。



G 高橋家住宅主屋(国登録文化財)                          塩竃市宮町2 

 水路終端の道を右に曲がると、こぢんまりしつつも重厚な石造り・一部木造2階建ての建物がある。大正11年竣工の旧・煙草専売局(後の旧・高橋ベニヤ板店)である。



H  暗渠の道・時の流れ                          塩竃市宮町2 

 歩道の下が、水路の暗渠部である。新旧の建物が道に沿って並んでいる。



I 大山米穀店                          塩竃市宮町2 

 振り返って見ると、大山米穀店は、石造りの建物であることがわかる。



J 木造の温もり                          塩竃市宮町2 

 更に進むと、木造一部モルタルの濱田屋の建物がある割烹だろうか旅館だろうか?店は閉まっているが、2階は、なかなか風情のある建物である。



 K 町屋が並ぶ道                                    塩竃市宮町2 

 水路を過ぎると、道幅が狭くなる。この道幅は当時とあまりかわっていない。建物は、比較的新しくなっているが、まだまだ昭和の匂いが漂っている。交差線の右角が、銘菓「志ほがま」の丹六園である。



 L 銘菓「志ほがま」丹六園                          塩竃市宮町2 

 県道・北浜乙線という広い道に出る。壱番館の前の道路にでる。
藩政時代の湊である。昭和まではこの道にも水路があったが、暗渠化されてかなり太い道に生まれ変わっている。

 ちょっぴり塩味のきいた軟落雁に青シソの粉末を散らした「志ほがま」(しおがま)を1720年(享保5年)から作り続けている「丹六園」である。
 司馬さんが、本書の中で、タクシーを降りたというのが、この店舗の前である。訪れてた時は、改装中で、びっしり並んだ茶器やセトモノも見られなかったが、お茶も扱っている老舗である。
 奥の建物が、太田味噌醤油醸造元で、店舗そして工場と並んでいる。工場は昭和2年の竣工である。



 24 大正蔵                                    佐浦醸造


 丹六園から、鹽竈神社へ向かうかつての入江沿いの県道・北浜乙線に戻る。
  浦霞の製品倉庫として大正時代初期に建てられた「塩竈石」の「岩蔵」を見ることができる。
 この蔵の材料となった岩石は、明治のころから塩竈市内の山から切り出されはじめた「塩竈石」が使われており、市内に今も残っている蔵や店舗に使われている。
 その岩石も、地形が変わるくらいになると、現在の東松島市産の野蒜石を用いるようになったといわれている。「塩竈石」も「野蒜石」も凝灰岩質の石である。



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