司馬さんは、「陸奥一宮(むついちのみや)」の章で、『塩釜(竈が公用されている)神社は、山上にある。山頂の隆起を削って、本殿その他の殿舎がたてられているのである。それへのぼるたふめに、ふもとの町から一直線に石段がきずかれている』と書きはじめ、仙台藩の財政政策建て直しを図った大阪の『山片蟠桃(やまがたばんとう)』に触れている。
2007年の塩竃市の売りは「寿司の街・マグロの街・鹽竈神社」である。私流でいえば、「連綿と時の流れの中で生きづく街」とでも言った方が良い感じもする。この章では、鹽竈神社とその参拝道界隈についてご紹介をしていきます。
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( 03.JAN..2008) |
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@ 本町経由で行く 塩竃市・本町
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鹽竈神社への道は、車で行く場合と、徒歩で行く場合は違った道となる。国道45号線の仙台方面から塩竃市へ入る場合は、塩竈市役所の前を通って、本町へ入る道がある。
正面が「浦霞」の佐浦醸造の店舗前に出る。この道一方通行で左へ曲がり本町を通って途中から西町へ入るようになるが、この本町古い街並みで私は好きだ。街並みを素通りするのはもったいない。
連綿と生き続ける街は徒歩で歩くのが一番良いのである。
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A 鹽竈神社駐車場へ宮町経由の道 塩竃市・宮町
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無責任な言い方になるが、いずれどこを通っても、鹽竈神社への駐車場へはこの北浜からの水路の終端、正面の道を上ることになる。一森山の裏側から入る道もあるが、それではつまらない。
この水路の脇も一方通行である。駐車場へ行く坂道の左には、石造りの大山米穀店がある。右へちょっとまがれば旧専売局の建物もある。車では、ここも素通りしなければならない。
と書くと、塩釜へは車では行かない方が良いのか?と聞こえそうだが、車で行ったら公営駐車場か鹽竈神社の駐車場へ車を置いて歩くのが良いということである。
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B 鹽竈神社 「表坂」 塩竃市・宮町
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鹽竈神社への参拝道は、司馬さんが書いているこの「表坂」である。参道は、他にもう二つある。ひとつが「裏坂」、そして古参道として残る「七曲坂」で計三つの参拝道がある。
この「表坂」、「男坂」とも言われているが、仙台藩主の参拝道として造営された。もちろん今では誰でもこの急な石段を上ることができるが、♪行きは良いよい。帰りは怖い〜。下りは、ころげおちるような錯覚を覚える。
このあたりからだと石段を登りきったところに随身門が見えるが、石段にたつと、石の壁にしか見えない。15度の傾斜で、途中から35度の傾斜に変わるからである。
この急な202段の石段を16人の氏子(輿丁(yotei)が約1トンの御輿を担いで降りる。それが「帆手祭」「花祭」「みなと祭」である。(みなと祭だけは、鹽竈神社と志波彦神社からも御輿が出る)
この表坂の石鳥居は、寛文3年に建てられたもので、国指定有形文化財である。
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C 鹽竈神社 「表坂」 塩竃市・宮町
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左側の石灯籠の前に、新しい碑が建っている。カラーの1枚のレリーフがあった。ジュールブリュネ作 「無題」、1868年に描かれものだという。
幕末のフランス人士官で、榎本武揚らと共に行動を共にした人物である。原画は30×20Cmのスケッチであるが、当時の表坂界隈を知るには貴重な史料である。NHK大河ドラマが地元を掘り起こしに一役買ったということだろうか。
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D 国指定 有形文化財 鹽竈神社・随身門 塩竃市・一森山
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傾斜15度の石段を上って、最後の35度の石段を上っていくと、随身門が迫ってくる。鹽竈神社への最短直登コースである。
随身門(二階楼門)は、三間一戸、朱塗りの八脚門である。
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E 山片蟠桃奉納の「長命灯籠」 塩竃市・一森山
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随身門を入って、すぐ左側、手水舎の脇に立っている大きな花崗岩製の「長命灯籠」がある。この石灯籠があることは、以前から知っていたが、比較的新しい灯籠と思っていた。
しかも、この灯籠が、司馬さんの「街道をゆく」の中に出てくる大阪出身の商人であり経済学者であり、後の仙台藩の財政再建に尽力をつくした山片蟠桃(Yamagata
Bantou)が奉納した石灯籠だと知ったのは、この本を読んでしばらく後のことであった。
山片蟠桃が奉納した灯籠は、どこにあるんだろう・・そんな思いで、探していた時、観光ボランティアのおじさんがいたので訪ねると、はじめは、さて・・という感じだったが、大阪出身の商家の出で、仙台藩の財政再建に・・というと、それなら拝殿前の手水舎の脇にあるのがそれだと思います・・と教えて頂いたのであった。
小さなガイド板があった。「やまがたばんとう・・・」。この大きな石灯籠がそうだったのであります。
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F 櫻古木 塩竃市・一森山
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鹽竈神社は、信仰の対象だけではなく、司馬さんが『丘の上の社殿のいくつかを見ながら、桃山風が、時の流れの沈降速度のなかで、いいぐあいにかたまっているという感じがした』と書かれているように桃山建築群を身近に感じることのできる場所である。
また、植物分布上も南北境界上になっており117科目、344属、500種に及ぶ植物が繁茂している場所でもある。
そして、春になれば、境内は、サクラの名所に様変わりする。天然記念物の塩竈桜20数本をはじめ、一重や八重咲きのシダレザクラなど600本あまりが春を彩る。現在は樹齢40年ほどのものが多いが、サクラだけを見にくる人も多いのである。
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G 天然記念物「塩釜櫻」 塩竃市・一森山
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鹽竈神社境内の「塩釜桜」は、昭和15年に国の天然記念物に指定されたが、枯渇。一度は、天然記念物の指定解除となったが、製紙用材の森林造成の技術として、日本製紙が開発した挿し木と培地も工夫して後継木を育てることに成功、昭和62年に天然記念物に指定されるという経過をたどってい。(現在境内には塩釜桜が50本くらいあるが天然記念物には20数本のみ指定されている)大阪造幣局にある「塩竈桜」もこの方法によったものである。
35枚から50枚の縦皺があり、先端が2ないし5の微凹の鋸歯状の八重の花びらの中に、2から3枚の緑の小さな葉っぱ(めしべが変化したもの)が見えている。花軸は短く、球状に見える。これが塩釜桜の特徴である。開花期はソメイヨシノより1週間位遅れて咲くようで、2007年は5月3日頃が見頃だった。 |
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H 国指定有形文化財 中門(唐門) 塩竃市一森山
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随身門を入ると、この中門(唐門)にいたる。中門は四脚門で切妻造、銅板葺で彩色を施してある。
古来奥州一宮として知られている名社で、現在の社殿は4代藩主伊達綱村が元禄8年(1695)に着工し、5代藩主伊達吉村の宝永元年(1704)に落成した。「元禄の御造営」時の姿である。
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I 国指定有形文化財 本宮拝殿 塩竃市一森山
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史料としてはっきりしている伊達政宗による慶長、伊達綱宗〜綱村による寛文、伊達綱村〜伊達吉宗による元禄と大規模な造営をしたことからも大神主としての伊達家仙台藩主の信仰を集めていたと言える。
中門を入ると、左宮・右宮共通の一つの拝殿が目に入る。この奥に、更に左宮本殿と右宮本殿があり、廻廊で結ばれている。この右側に別宮があり本殿、拝殿、渡殿からなっている。
本宮(左宮・右宮)の拝殿は桁行7間・梁間4問で、向拝をつけ、柱は角柱で総漆塗り、屋根は、入母屋造銅板葺である。
本殿は三者同型で、素木造、三間社流造、屋根は檜皮葺である。
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J 文化灯籠 鹽竈神社境内
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本宮拝殿前に、青銅金象眼入りのおおきな灯籠が立っている。
仙台藩、9代藩主・伊達周宗(Chikamure)によって、文化年間に寄進された「文化灯籠」である。
仙台藩主も、5代藩主あたりまでの話は、良く聞くが、9代藩主の話になると、マイナーな存在になってくる。
周宗は、1796年(寛政8年)生まれてすぐに藩主となって、翌1797年(寛政9年)には、北上川やその流域の河川の大洪水で庶民は生活に堪え切れず、田畑を捨てて他所へ逃れる者が多く出るようになり、仙台藩最大の「仙北十郡大百姓一揆」が起こるが、これは周宗の責任ではなく家臣団の責任である。
そして1809年(文化6年)14歳で早世、嗣子もいるわけもなく、当時、17歳未満は世子をたてることができず、亡くなったことを隠して、3年後に、周宗の弟である斉宗(Narimune)を世子として立てた後、1812年(文化9年))死去したとして幕府へ届け、仙台藩は改易を免れたという話がある。
幼い藩主の権力誇示か、死後の隠蔽工作かは、歴史のロマンでもある。
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K 「文治の灯籠」 鹽竈神社境内
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本宮拝殿前に、雨ざらしになっている一対の赤さびた灯籠がある。
1187年(文治3年)奥州藤原氏の3代目秀衡の三男「和泉三郎忠衡」が秀衡の命により、源義経への忠誠を誓い、この灯籠を寄進したといわれている「文治の灯籠」である。そして寄進から2年後、兄泰衡に23歳で殺されるのである。
奥の細道の中で、芭蕉は、この燈籠のいわれを『神殿に古き宝燈あり。鉄(カネ)の扉の面(オモテ)に「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤(オモカゲ)今目の前に浮かびて、そぞろに珍し・・・』と書いている。
この燈籠、は天(笠の部分)と台座は200年くらい前に朽ちて取り替えられたとされているが、胴の部分は800年前建立当時のままといわれている。 |
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L 国指定有形文化財 別宮拝殿 塩竃市一森山
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別宮の拝殿である。桁行5間・梁間3問、入母屋造で、柱はすべて円柱である。(向拝を支えている柱は角柱)
寛文時代の貴船社であった本殿を改造して転用したもので。そのため、本宮の桁行・梁間とは異なっているのである。規模壮大で、整然とした配置であり元禄時代の貴重な建築群である。 |
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裏坂を上って、東神門を入って、右側に見える別宮本殿 |
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M 本宮・拝殿脇から見た本殿 塩竃市一森山
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左に見える本宮・拝殿から、奥の左宮本殿と右宮本殿の屋根が少しだけ見える。
拝殿は、角柱に朱漆塗で、本殿は、素木造で質素な造りとなっている。
一般的には、拝殿よりも本殿が荘厳に造られるが、鹽竈神社の場合は、本殿は別当にあたる法蓮寺の僧侶が拝殿で読経をあげ、神職が本殿で祝詞を奏する時代が明治まで続いており、僧侶の立ち入れる場所と神職の奉仕する場所を明確に区分する為にされたともいわれている。
本宮本殿は、仙台城に向いて南向きに建っており、左宮には、「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」右宮には「経津主神(ふつぬしのかみ)」で共に武人の神であり祀っている。主祭神・「塩土老翁神」(しおつちのおじのかみ)を祀る別宮は海を背負って建っている。別宮は、特別なという意味ということである。
古くは、陸奥国府多賀城の鬼門筋にあたり、国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして位置づけられ、武家社会になると奥州藤原氏、後には伊達家に保護されてきた神社である。
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参道の両側は、塩竈神社の参道とは、かなりかけはなれた光景で、右側にはRC製の建物が建っている。塩竈市役所宮町分室(産業環境部・建設部)の建物である。歴史的景観にはほど遠い光景であるが、左の空き地は、婦人用和漢薬「サフラン湯」を製造販売していた「遊佐一貫堂」の跡地であった。
江戸期の庶民のための参拝道とし造られた「裏坂」、別名、「女坂」の入口である。芭蕉が「おくの細道」で「出初塩竈のかまを見る。宿治平衛。法蓮寺門前」と書いている。治平衛「宿」があった場所が特定はされていないが、このあたりになる。
裏坂にある石鳥居は、1908年(明治41年)仙台・大町の屈指の呉服商(現・大内屋)、大内源太右衛門によって寄進されたもので、石巻の石工の作で、縦・横、共に1本の稲井石を加工して造られている。
大内源太右衛門、どこかで聞いた名前と思ったら、仙台市宮城野区の原町本通りにある「大源横丁」という道を造ったのもこの人なのであった。
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O 旧・西沢物産店 塩竃市 宮町
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裏坂は、正面の石段を上がって突き当たりを、左に曲がると、緩やかな稲井石を敷き詰めた坂道になっていく。
石段の角に、大正期に建てられた参拝客相手のみやげもの店、旧・西沢物産店である。 |
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石段突き当たりを右に行けば、勝画楼へ行く道である。自然石に彫られた歌碑が見えるが、1853年(嘉永6年)に彫られたもので「妙なるや 浪の華みる 法蓮寺」という歌で、このあたりまで海が迫っていたことが読みとれる。 |
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Q 江戸期当時の法蓮寺全景 塩竃市 宮町 現地説明板より
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現在の勝画楼のある高台一帯は、江戸期の鹽竈神社の別当寺、法蓮寺の寺域であった。かつては方丈、書院、護摩堂、等が並んでいたが、明治の廃仏毀釈により、廃絶した。
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こんな急な石段を上り続けるのか?と思うが、急なところは、この場所だけである。あとは緩やかな傾斜地にある。
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勝画楼 西側 正面 |
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勝画楼 南側側面 |
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勝画楼 東側側面 |
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下の道から見上げた勝画楼 東側側面 |
S 勝画楼 塩竃市宮町
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現在の勝画楼は、鹽竈神社に管理されているが。かつては別当寺であった法蓮寺の書院であり、藩主の鹽竈神社参拝の休憩所として使われた懸け造りの建物である。名前の由来は、ここからの千賀の浦の眺めは、絵に勝ることから勝画楼と付いたとされている。
明治期には、天皇の行在所となり、戦後しばらくは、割烹として使われていたが現在は、かなり荒れている。
特に、斜面に面している懸け造りの様子がはっきりしている東側は、建物の割には細い3寸角の柱で支えてあり、ところどころ柱と土台に隙間があって、不安定になっている。 |
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21. 仙台藩 未完製 灯明台跡 塩竃市宮町
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勝画楼 南側側面に廻ると、綺麗に切り出した石垣で組んだ八角形の基壇がある。石には、制作にたずさわった石工の名前が彫られている。後方には、荒れ果てている勝画楼である。
この八角形の基壇は、慶応元年頃に仙台の商人によって企画された仙台藩の灯明台(今でいう灯台)の基礎部分である。湊の入口の高台であるという場所から、ここに建てられようとしたが、基礎のみで未完成で終わっている。完成していれば日本最古の灯台になるはずであった。
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22. 裏坂に戻る 塩竃市宮町
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裏坂から入口を見てみる。石鳥居と稲井石の参道の雰囲気が伝わるだろうか。
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23. 裏坂をゆく 塩竃市一森山
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数段の石段を上って、稲井石のゆるい石畳の坂道を歩き、また石段を上ってゆるい石畳と、だらのぼりの坂をゆく、かつては、両側に法蓮寺の12の塔頭(脇院)が並んでいたというが、今では、その面影もない。
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24. 旧・亀井邸 門 塩竃市一森山
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裏坂に、大正13年、仙台の総合商社カメイ(株)の初代社長・亀井文平氏が建てた「和洋併置式住宅」である「海商の館」・亀井邸が保存されている。
平成16年、老朽化による解体の話がでたが、解体を惜しむ市民団体の保存・活用策が検討され、プロジェクトが立ち上がり、修繕工事がおこなわれ、現在では、様々なイベントが行われている。公開日はこの門が開いているが、水・木曜日は休館日である。「NPOみなとしおがま」が塩竃市の委託を受けて現在管理している。(※詳細UPはしばらくお待ちください)
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25.えびや茶屋 塩竃市一森山
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裏坂もどんどん上っていくと石段がなくなるころには志波彦神社が見える鹽竈神社博物館前に出る。少し汗ばんだ身体には、この茶屋が先に目に飛び込んでくるかもしれないが。
数年前までは、裏坂途中にも茶屋があり、「えびや茶屋」と「おさんこ茶屋」の二店が交互に場所を変わっていたが、おさんこ茶屋は、本町の店のみで営業しており、現在は、えびや茶屋だけになっている。
手前の七輪にヤカンでお茶をわかしてあるが、以前は、おおきな鍋に甘酒がかけてあり子供の頃には茶碗一杯ナンボで売っていたが、現在は、ワンカップ容器で売られてちょっと寂しい気がした。
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26. 甑炉(Koshiki-ro) 鹽竈神社博物館前
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博物館前・・というより「えびや茶屋」の脇に、「こしきろ」が展示されている。
司馬さんの「街道をゆく」の挿絵にも使われているのがこれで、仙台藩の鋳銭場のあった石巻で使われていたものである。
鋳銭場・・今だと造幣局にあたるが、貨幣を造るために原石を溶かして地金を造る炉である。
三段に分かれていて、これだけ原形を保っているのも珍しいとされているが、屋根で覆われているだけで・・・見てる人は、錆びだらけの昔のかまどかな?程度・・もちろん脇には、貨幣の出来るまで・・なんていうのが図解されている。
仙台藩の鋳銭は、質が悪くて有名である。古銭マニアの方もきれいな仙台藩の鋳銭は持っていないはずで、司馬さんは、この塩釜から貨幣がおこっていったのでは・・・と述べているが、仙台藩の鋳銭について書けば、幕府から許可がなかなか下りずに比較的後期になって、はじまったもので塩釜には鋳銭場はつくられなかったのである。
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27. 神馬舎・神龍社 鹽竈神社境内
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司馬さんが『境内に馬小屋がある。神馬の小屋だが、コケラぶきのヒンのいい屋根をもったいい建物である。開口部が正面に二個所あり、いずれも鉄金具を打った古風な観音びらきの扉で、馬小屋ながら鎌倉期の小身の武士の屋敷を思わせ、さらには陸奥の剛毅さが、建物の風格として感じさせられる』と書いている。
神馬の日中帯の飼育場所がこの神場舎である。夜間は、別の厩舎で休んで、朝は、馬場で運動後、またこの場所で参拝者を迎えるのが神馬の日課である。
神龍社は、歴代の神馬の御霊が祀られている。
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28. 鹽竈神社 社務所 塩竃市・一森山
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司馬さんが、「和風建築ながら、洋風の応接間がある。窓のむこうは、あかるい庭園である、視界の下に、塩釜の市街地がひろがっている」と書いている磯谷宮司と対談した社務所である。
鹽竈神社境内には、社殿・本殿等の他に、「志波彦神社鹽竈神社神職養成所」も建っている。
この建物一般的に「社務所」と呼ばれているが、左側が事務所、右側が貴賓館になっており、社務所や講堂はこの建物の後側に連なっている。
祈祷申し込み、お札・お守り等は、拝殿前の「授与所」であり、ここではないのである。
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29. 塩竈市指定文化財・志波彦神社 塩竃市一森山
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鹽竈神社の隣に鎮座するのが志波彦神社である。その歴史は・・
東山道より多賀城に至る交通の要所、宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月5日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日、鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上された。
大正11年当時に、政府に造営の陳情をしたが、翌年の震災復興にて効を奏せず、昭和9年に造営を着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿です。社殿地には当時は鹽竈神社の2階建て社務所が建っていたが、現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社が建立された。
鹽竈神社とは趣を別にし、本殿・回廊・幣殿・拝殿何れも朱黒の極彩色漆塗り、本殿は、三間社檜皮葺き流造、拝殿は銅版葺き入母屋造であり、全額国費を以て造られた最後の神社とも言われている。
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30. 御文庫 鹽竈神社境内
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車両祈祷場所の隣に、古い建物がある。鹽竈神社境内の中で、現存している建物で最も古く、法蓮寺の鐘楼(室町時代)を移築したと言われているものである。
司馬さんは、山片蟠桃についてこう述べている『蟠桃は、神道は人間のまごころだという。かれによれば、鬼神は存在しないが、われわれが服装をととのえ、精神の折目をただし、うやうやしくへりくだって神や霊をまつるときには、神や心霊は現前に在ますがごとくにある。つまりは神は人間のまごころのあらわれであり、確かめでもある、という意味のことをいうのである』と書いている。 |
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31. しるべ石 塩竃市宮町
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もうひとつの参拝道は、塩竈神社創建時からの参拝古道といわれている「七曲坂」で、入口に「しるべ石」が建っている。
塩竈神社の前の道、北浜乙線は、このあたりから本町(もとまち)からの通りと合流する。
古代・中世頃は、入江の最奥部で古くは江尻と呼ばれ、1700年(元禄13年)頃から1735年頃(享保20年)頃に、七曲り坂から表坂あたりまでの千尋渕が埋め立てられて形成されたのがこのあたりである。
東 なゝまが里水戸(七曲り水戸(みと))、南 御だい乃はし(おだいの橋)、北 なゝまがり坂(七曲り坂)、西御古しかけ石(おこしかけ石)と彫られている。
東側面には、「塩竈昆布所 越後屋喜三郎」、西側面には、「享保十六年龍舎辛亥(かのと・い)十月穀旦」と彫られている。
塩竈の昆布などの海産物問屋の越後屋が、1731年、10月吉日にこのしるべ石を建てたということである。
水戸は、湊=港をあらわしており、くねくねと蛇行した入江がこのあたりまで続いていたことがわかり、そして対岸の町屋方面に渡るために「おだいの橋」が架けられていたこともわかるのである。 |
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32. 七曲坂 塩竃市一森山
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「表坂」、「裏坂」、そして「七曲坂」の3つの参拝道の中で、最も静かな参拝道が七曲坂である。未舗装の道であるが、徒歩ならば、表坂の石段よりは少々時間はかかるが、楽な参道である。聞こえるのは鳥の声だけである。
七曲坂は、鹽竈神社の古参道であるが、塩竈神社の創建は、はっきりとしてはいないが、奈良時代と推定されている。奈良時代の塩竈への街道は、国府多賀城−香津(現在の第一小学校付近)に至る東街道を経て、丘陵地にある鳥居原(現在の塩釜高校の校庭付近)から江尻へ下り、入江になっていた千尋淵を舟で渡り、しるべ石のある七曲坂へというルートであった。
近年まで、丘陵地の旧・塩釜高校校庭の隅に鳥居の台座部分が残っていたのは、こうした理由があったからであった。
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33. 七曲坂から境内へ 鹽竈神社境内
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七曲坂を上りきると、志波彦神社の手前に出る。坂の名前だけ聞くと、くねくねと急な坂が続き大変そうであるが、実際はそうではない。あれっ、こんなに近いの?である。
司馬さんは、山片蟠桃についてこう述べている『蟠桃は、神道は人間のまごころだという。かれによれば、鬼神は存在しないが、われわれが服装をととのえ、精神の折目をただし、うやうやしくへりくだって神や霊をまつるときには、神や心霊は現前に在ますがごとくにある。つまりは神は人間のまごころのあらわれであり、確かめでもある、という意味のことをいうのである』と書いている。
神社仏閣について、建築構造や建造年代については、ある程度、史料も存在する。しかし、それだけではないのである。司馬さんは、山片蟠桃の『無鬼論』を引用したが、「否、そうではない」という人もいるのが、現実の話ではないかと私は思う。私は、宗教を否定するわけでも、これぞ真のなどという考えは、もっていないが、不遜であると思われる表記があれば、ご容赦願いたい。 |
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