司馬さんは、「奥州の古風」の章で、『まだ塩釜(竈)にいる。丘の上の社殿のいくつかを見ながら、桃山風が、時の流れの沈降速度のなかで、いいぐあいにかたまっているという感じがした』と書きはじめ、仏教建築から神社建築へ至る推論を展開し、『奥州の伝統の古さは塩竈に残っているといえなくもない』と結んでいる。
実のところ。私は、司馬さんが触れている「塩と鉄」「陸奥一宮」「奥州の古風」の三編について、まとめ上げるのに、さほど難しいとは思ってはいなかったのであります。しかし、進めていくうちに、発展と衰退をくりかえす街の様子に翻弄され、また司馬さん得意の完全な紀行ではなく、時には小説的な位置の説明に、戸惑い、書き初めてから数年が経ってしまいました。
ここは、どの章にいれるべきか・・等と考えるより、道路に沿って行けば、なんらすんなりとまとまっていく・・それが、私の街道をゆくのスタンスに立ち返ったのであります。
明治からの港の埋め立てられ昭和期に発展し衰退の激しい「海岸通り」、塩釜の観光スポット「鹽竈神社」、古くからある「本町」「宮町」「西町」の現在の姿を、多賀城から塩釜への街道に沿ってご紹介をしていくことにします。
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(06.SEP.2011) |
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@ 多賀城からの道 〜多賀城市・市川〜
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司馬さんは『塩と鉄』の項で、『塩釜は、多賀城遺跡の東北にあって、ごく近い。ゆくほどに海に近くなってゆく。海とは、松島湾のことである。松島湾がその南西端においてさらに鋭く湾入している。それが塩釜湾(千賀の浦)である』と書いている。
陸奥国府多賀城跡からの道は、多賀城市・市川−多賀城市・浮島−塩竃市・玉川−塩釜市・赤坂を経て塩竃市・西町へ入る旧・塩竈街道がある。車で走れば、ここから10分くらいである。かつての陸奥国府と塩竈は本当に近いのである。
写真右側に見える小さな鞘堂の中に石碑が見えるが、これがあの、「京を去ること一千五百里・・」で始まる「壷の碑」である。
そして、ちょうど私が立っているところが、陸奥国府多賀城の南北大路上であり、この道の左側には、多賀城政庁跡となる。丘陵の低い谷間を、かつての大路を横切って旧・塩竈街道が塩竈へ延びている。
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JR東北本線 塩釜駅 〜塩竃市・東玉川〜
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A 赤坂新道 〜塩竃市・東玉川〜
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多賀城市・浮島を通り、塩竃市に入ると、道路左側にJR東北本線・塩釜駅が見えてくる。その小さなロータリー広場の北側から、交番の間に細い道が続いている。
この道が、明治維新後の県の事業で進められた赤坂新道であり、この道を造るための堀削土砂が1885年(明治15年)に竣工となった舟溜まり南築堤と旧塩竈港駅付近の埋め立てに使われた。
これが塩釜港の近代的港湾の第一歩となっていくが、この道路建設に伴う掘削土砂を運ぶため宮城集治監に在監中の囚人達の出役もあてられたといわれている。宮城集治監は、西南戦争の敗者を収容するのが最初の目的で造られたのであった。
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B 塩竃市赤坂付近 〜塩竃市・赤坂〜
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赤坂新道に並行する形で現在の県道がある。正面の跨道橋は赤坂新道から右側の現在の泉ヶ丘へ通じる道である。
泉ヶ丘には、宮城県塩釜高等学校の東及び西キャンパスがあるが、2010年(平成22年)以前は、男女別学で、それぞれ宮城県塩釜高等学校、宮城県塩釜女子高等学校と呼ばれ、現在の東キャンパスが旧塩釜女子校の校舎、西キャンパスが塩釜高校の校舎であった。
旧塩釜高校の校庭隅には、藩政時代にあった塩釜神社の鳥居跡が残っていたが現在は残っていない。そして、その当時の地名は「融ヶ丘」と呼ばれ、源融が住んでいたという説もある。
跨道橋を越えると急な下り込みの道となる。このことは塩釜の地形の特徴である。かつての入り江へ降りていくからである。 |
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F 都市計画道路 県道・北浜沢乙線 塩竃市 西町
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赤坂を下り、交差点を右に曲がると、鹽竈神社「表坂」下の道が、県道・北浜沢乙線である。このあたりから左側が西町となる。
千尋淵といわれた入江の埋め立ては、奈良時代からともいわれ七曲坂周辺は、室町時代に埋め立てられ、江戸期には、「祓川」と呼んだ水路を残して全て埋め立てられた。その水路も、近世では、更に海を埋め立てられ、明治から昭和に入ると北浜から続く水路として残っていたが、昭和の終わりには、完全に暗渠となって広い道になって続いている。
門前町といえば、山門や随身門に向かって両側に町屋が広がっているのが普通だが、塩竈の場合は、入江があったために、入江に沿って町屋が形成されていった。門前町というより、やはり、湊があって町屋があって、そこに神社があって・・という感じなのである。
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D 塩竈曲水 塩竃市 西町
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現在、この北浜沢乙線の改修工事が続いている。景観整備として「道そのものが博物館」というとらえ方である。
歩道の脇を小さな小さな水路が流れている。祓川をイメージしたそうである。そして、御影石の歌碑がこの道路の両側に建っている。現在は44基が建っているが、100基の歌碑を建て「塩竈百人一首」という計画である。
クネクネと曲がったこの小さな水路を「塩竈曲水」と呼んでいる。歌碑には、歌枕の地である鹽竈を詠んだ詩がきざまれている。夜には、この歌碑が暗闇に幻想的に浮かび上がるというのだが、果たして何人が立ち止まってくれるのだろうか。
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E 荻原醸造店 塩竃市 西町3
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創業120年、鹽竈神社の御用商人として続く、味噌醤油の醸造店の老舗である。味の伝統を守り、建物は、景観に配慮しつつ、昔の面影を留めている。新たな取り組みである。
店前の大きなタルが目を引く。「もろみ」から絞ったままの「きあげ醤油」が有名である。
しかし、醸造店を始める以前は、宿屋であったことが店に残る史料からわかり、古くから塩竃を見つめていた老舗でもある。
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F 阿部勘酒造店 塩竃市 西町3
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鹽竈神社の神酒御用酒屋として1716年(享保元年)仙台藩伊達家の命により創業、清酒「於茂多加男山」「四季の松島」「於茂多加」「阿部勘」「一宮」の5銘柄を造る醸造店である。昭和50年火災により全焼、更に平成8年に道路拡張に伴い蔵・店舗を一新した。「阿部勘」は県外向けの銘柄で「於茂多加」は県内外向けの銘柄となっている。
設備の近代化を先駆けて導入し、小さい蔵のメリットを生かし無理をしないで、量を売ることは求めないというのがポリシーだそうなで、全製品の平均精米歩合は51%と高度精米の吟醸酒主体の蔵である。
建物は、新しいが杉玉=酒琳(さかばやし)が店舗の目印である。
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G 塩竈海道 塩竃市 西町
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道の両側には新しい家屋が並んでいる。電線も地下に埋設されてスッキリしている。「塩竈曲水」がないところは、カラータイルで表現をしている。照明は石柱に取り付けられている。
はたして、この道から歴史的景観を想像することが出来るだろうか。道だけをムリヤリ・・と思うのは私だけだろうか?それでも歩道は歩きやすいし、吸い殻も落ちていないきれいな歩道である。
このまま西進すれば、赤坂を経て、JR東北本線の塩釜駅にでるが、この県道と町屋の裏にも道が有りそうなので廻ってみることにする。 |
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H 残された水路跡 塩竃市 西町
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丘陵地の脇を沿うように細い道が続いている。右側の丘陵地の上には、塩釜高校や第一小学校がある泉ヶ岡で、以前は、融ケ岡と呼ばれた時代もあったといわれている。
京都府右京区にある塩釜町・・・源融(Minamoto-no-touru)の住まいだったといわれる六条河原院に塩竈を模した庭園をつくり海水を汲んで楽しんだという話が残っている。「源氏物語」の主人公の光源氏の実存モデルという説もあるし、死後は、「今昔物語」では霊となって怪奇的に登場するのである。「三大実録」によれば源融が864年(貞観6年)陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」によれば、任地に行くことを免除された「遥任」であったとされている。
橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰り、その土産を見るため、二条の大路に集まっていたという話よりも、塩竈を見ていない融が、塩竈の情景を造ったり、融ゆかりの地名が塩竈や多賀城に残っているのは謎深いものがある。
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I 小橋を渡れば 塩竃市 西町
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左の「すし処魚作」と右の「西町郵便局」の間が、駐車場となっていて、荻原醸造店」が見える。
車社会は、一見便利のようだが、徒歩なら手前の小橋を渡れば、通り抜けできる。街中の道で、遠いなぁと感じる道は、徒歩なら、こんな感じなのである。やはりブラリ街撮りは、徒歩に限るのである。
私の立っている後方の丘陵地が、かつては鳥居原ともよばれた、県立塩釜高校のあるあたりである。
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J 石造りの倉庫 塩竃市 西町
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塩竈の街には、石造りの店舗や蔵が残っている。塩竈は寿司店も多いが、こうした現在も使われている「岩蔵」が多い。
「石蔵」「岩蔵」どう違うのだろうか?石の産地の蔵は「岩蔵」という決めがあるそうな。塩竈は、塩竈石の産地であるから「石蔵」というそうである。 |
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K 水路が顔を出す 塩竃市 西町
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水路跡を残しつつ続く、暗渠の脇を本町方向へ歩いていくと、水路が顔を出した。流れは、ほとんどなく、淀んで、うっすら汐の香りがしそうな、そんなドブ川が顔を出した感じである。
このあたりから、鹽竈神社下へ続いていく道と、本町の街並みへ続く道と分かれていくが、ちょうどY字を横にしたような−⊂形になっていく。
かつての入り江が現在の道になっているためで、江戸期の絵図にあった町屋の並びが本町側で、塩竃神社のある方が宮町、そして海岸通りは、近代の埋め立てでできた街並みになる。この水路は、入り江の名残りといっても良いのかもしれない。
本町方向へ進んでみることにする。古い街並みながら、近年は、NPOの活動によって、少しづつ活気が戻り、海岸通りよりも閉めている店舗は少ないのである。 |
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時が静かに流れる街並み 塩釜市本町
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昭和の街並みが続いていく 塩釜市本町
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L 衛生堂薬局 塩竃市本町
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『街は、生きている・・生きているから変わっていくのである』という言葉は、私にこの「街道をゆく」というテーマを与えてくれたdaddy氏の言葉である。
この衛生堂薬局、昭和初期の建物である。そして、その隣もまた昭和の香りの建物がつづいていく。まわりが変わり、残る建物、新しくなる建物も、それが街並みなのである。 |
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時が静かに流れる街並み 塩釜市本町
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M 松亀園茶舗 塩竃市本町
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「松亀園茶舗」である。創業は昭和10年ということであるが、建物は、江戸末期で3階建ての建物である。向かいには、「御釜神社」がある。
昭和初期の衛生堂薬局の建物、そして江戸末期の建物、違和感なく続いているのも本町界隈の魅力なのである。 |
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N 松亀園茶舗の交差点 塩竃市本町
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「松亀園茶舗」の交差点である。北方向には、塩竃市役所の宮町分室が見える。鹽竈神社の参道のひとつ「裏坂」の入口でもある。
司馬さんは、お釜神社を、『銘菓「しほがの」店の前で、車をとめた・・神社の入口が商店街にわずかに開口しているため指されても見えない』と書いているが、「志ほがま」の丹六園の店の前からは、商店街にわずかに開口・・という表現はでてこないのである。全く見えないのである。
『商店街にわずかに開口している』のがわかるのは、宮町分室前か、この本町に入ってからなのである。紀行文ではなく歴史小説的と書いたのは、こういうことである。 |
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O 御釜神社 塩竃市・本町
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司馬さんが、「塩と鉄」の章で取材の様子を書いているのが、この御釜神社のことである。鹽竈神社の末社になっているが、塩釜の名前からいけば、こちらが本家筋とも思ってしまう。正面の小祠が本殿である。
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P 御釜神社 本殿 御釜神社境内
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司馬さんは『境内の奥に向かって右手に、一軒の独立家屋があり、ひょっとすると神官屋敷かもしれないと思った・・・中年の陽気な奥さんがとびだしてきた・・・』と書いている。
私も、司馬さんと話した『陽気な奥さん』と何回か言葉を交わしている。「司馬さんとお話ししたこともあるんですよ」そして「ここにはもう30年つとめています」とのことであった。
屏風絵に描かれたカマのことや、藻塩焼き神事の撮影などいろいろ教えて頂いた。「陽気な奥さん」は「チャキチャキのおばさん」に変わっていた。 |
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Q 御神釜 御釜神社境内
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「お釜を拝観したいんですが」私が言うと「写真はダメですよ」と強く言われた。実は、何年か前に訪れたときは、「写真を撮っても良いですよ」と言われていたのだったが・・・。
「はい、それは、わかっております」と私がいうと、「少し待ってください」と屋敷から鍵を持ってきて、参拝の作法通りこの木戸を開けてくれた。
中には、4つの鉄製のカマがあった。カマは深くはない。カマというより巨大な分厚いスキヤキ鍋のようだ。3つのカマには、取っ手状のものがついており、1つだけ付いていない。作られた年代が違っているということだった。入っている海水の色が違うのは、落ち葉が落ちて色が変わっているとのこと。質問には快く答えていただけた。
「この神社のご神体がこのカマなのですか」と訪ねると「ご神体ではないのですが・・」と言う答えが返ってきた。
要約すれば、このカマの写真を撮った人がネット上で公開をしたが、鹽竈神社から「許可はどう与えたのか」「等厳しく問われた。それ以来、写真はお断りしているということだった。
この話を聞いて、私は、目の前のカマを見ている自分はどんな目でみているのだろうか。神のカマか、はたまた美術史料に登場するカマか、製塩という産業遺物として見ているのだろうかと・・考えてしまったのである。
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R 藻塩焼き神事の竈 御釜神社境内
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境内には、毎年7月6日、藻塩焼き神事が執り行われる竈がある。
カマは据え付けられていない。なぜなら、錆びると塩に赤いさび色が付くからという。以前は、神事が終わると自分で片づけていたが、歳をとって大変なので、鹽竈神社へお願いしているということである。
あの4つのカマも藻塩焼き神事のカマも、お「釜」というよりは、巨大なスキヤキ「鍋」を想像してもらえれば良いかと思う。
尚、藻塩焼き神事は撮影可能であるが、近年、左側の石垣の上から撮影しようとする人もいるらしく、それだけはことわっているということであった。
藻塩焼き神事は、別の機会にご紹介したい。
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S 佐浦醸造 塩竃市本町
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塩竈の造り酒屋のひとつ「(株)佐浦」が清酒「浦霞(Urakasumi)」の醸造元の商号である。
創業は、享保9年で、「享保蔵」「大正蔵」と:建造時期で呼ばれている蔵も現役で使われている。
黒い木造店舗そして、隣の醸造蔵、店舗前がT字路になっている。45号線の旭町交差点から入って、市役所前を抜けて本町に入れば、この店舗が眼前に迫ってくる。
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21. 旭町から本町への道 塩竃市港町1
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本町から旭町へ向かっていく。振り返ればこの道も古くから残っている道である。仙石線の路盤は消えているが、右側の道が旧ルートである。現在では更に、その上に複線高架で仙石線が走っている。
左側が本町(Motomachi)である。元禄の頃からの古い町で道幅は変わっているがルートは殆ど変わっていない。左側の道を進んで左折すれば、先ほどまで歩いていた江戸末期から続く街並みなのである。 |
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本町から旭町方面への道 塩竃市港町1
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22. 本町から旭町方面への道 塩竃市港町1
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更にもう少し進むと、昭和30年代の旭町付近の光景を思い出させる光景に出会った。
橋側歩道もない、まるで「天空の城ラピュタ」の線路上を走るかのような仙石線が走って、線路下には、バラックの飲み屋が並び、脇の線路が塩竈線である。昭和の懐かしい光景である。
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23. 大漁旗ツリー 塩竃市 本町
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撮影したのはクリスマスの頃、ライトアップやクリスマスツリーで街が賑わう頃、ここ本町では、港町らしくNPOによって大漁旗のツリーが飾られ、夜にはライトアップされる。塩竃らしい取り組みであると思う。
司馬さんは、「留守氏」という名字にふれ『この奇妙な名字は、奈良・平安朝の多賀城の制度から出たものである。多賀城には、陸奥一国の国司の庁がおかれていたが、都からくる国司が、遙任のときもあり、ふだんの行政は留守職という現地完了が宰領していた。世をへて留守氏が独立の武士になり、このあたり一帯を領していたが、伊達政宗の世になって、留守氏はその下風に立ち、一門に列せられた』とし、
「明治維新までは留守氏」というのが、おもしろい。留守氏は、実体はともかく、苗字だけでいえば、奈良・平安朝このかたの多賀城の職分なのである。なにやら、奥州の伝統の古さは、塩釜にのこっているといえなくもない』と、塩釜をまとめている。
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