街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻

塩竈・地形図資料編

 私の塩竈の紹介で、地図上から大正元年から現在までの概要をこちらに「資料編」として、別掲載をしました。
というのも、その時代で、港の埋め立て、街の発展の様子は、地図上から読みとれるのですが、写真についは、現在の塩竃であり、港だけでも、一つのページに現在と過去をひとまとめにするのは、困難であります。
 よって、現在の塩竈については、本編をご覧頂き、参考として、主に地図上から読みとって頂ければ幸いとと思います。
(06.SEP.2011)


地図-1 大正元年測量の塩竈   (1915年(大正4年)国土地理院刊行)
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
 いまでこそ、入江が埋め立てられ、1万トン岸壁がつくられ、中規模ながらも石油基地や水産団地が出来ているが、明治から大正期は、リアス式海岸の特徴が海岸線に残っていた。しかし、よく見れば、入江の埋め立てが進んでいることが読みとれる。



③ 「 鹽竈松島図屏風」                   福岡市美術館蔵(黒田資料)より引用
 江戸時代初期の屏風絵に描かれた塩竈の湊の様子である。
中央上には鹽竈神社がえがかれ、入江の山に法蓮寺(現在の勝画楼がその一部である)が見える。
 町屋からは、細い入江(千尋淵)の対岸にある鹽竈神社前へ橋(お断はし)が架けられ、渡れるようになっているが、神の渡る橋と言うことで


。この町屋が現在の「本町(Moto-machi)」となっている。
 町屋の左下には、四角の塀の中に丸い4つの丸が描かれている。これが現在の「お釜神社」の御神釜である。

 町屋の前は湊として整備されている。この頃すでに千尋淵の埋め立てが行われ湊としての機能を有していたのであるが、近代的な港とはほど遠く、塩釜が湊として機能していくのは、四代藩主・伊達綱村の時代になってからで、1686年(貞享3年)に発せられた「貞享の特例」といわれる「商人荷物五十集船並びに御国他国材木船の分一円塩釜へ着岸致し候様」と湊への物資の集中を命じ舟運が賑わった。



地図-2 大正元年測量の塩竈   (1915年(大正4年)国土地理院刊行 58-15-3-1)・・一部拡大・着色・記入

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
 明治維新後は、保護政策も撤廃され、五十集船の入港も途絶え、湊もドロが堆積して衰微していく。1882年(明治15年)、村民の寄付6000円(当時の塩釜村周辺4か村の税額の5年分と言われている)によって旧・海岸通及び旧・千賀の浦岸壁の埋め立て築造工事と旧船溜りの浚渫工事が着工し1885年(明治18年)舟溜まり南築堤364mと塩竈港駅付近の17000㎡の埋め立てが完成する。これが近代的港湾の第一歩となっていく。

 地図の中央部に見える「鹽竈町」の「鹽」の字の部分が、明治18年竣工した舟溜まりである。



地図-3 昭和8年測量の塩竈   (1936年(昭和11年)国土地理院刊行 58-15-3-3)・・一部拡大・着色

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
 1925年(大正14年)、現在の仙石線の前身である「宮城電気鉄道」が登場し、1928年(昭和3年)に、仙台-石巻間が、全線開業する。

 明治に敷設された東北本線は、現在の利府線のルート上にあり、戦時輸送増強のため1944年(昭和19年)、陸前山王駅から分岐する「東北海岸線」が登場するまでは、この地図には出てこない。

 港は、大正4年、県営で「第一期築港整備」が行われ、大正6年からは、内務省直轄事業として昭和7年まで継続事業が行われる。舟溜まりが大きく浚渫され、港内も埋め立てが進んでいく。現在の北浜一帯、中の島、港町が誕生し、現在の歓楽街・尾島町も形成されている。

 昭和4年には、岸壁の一部に「塩竈町魚市場」が開場する。現在のマリンゲート塩竈のところである。



地図-4 昭和21年測量の塩竈   (1936年(昭和22年)国土地理院刊行 58-15-3-4)・・一部拡大・着色

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
  舟溜まりは、かなり浅くなって、陸地化しているのが、昭和20年代から30年代の特徴である。

 また貞山堀は、綱尻浦周辺を埋め立てて、牛生から綱尻浦へのルートで塩竈港に開削されているのが読みとれる。中の島の南東には潟湖が残っている。

 港の北側の北浜地区には、東北造船と籬島(まがきじま)間の入江は埋め立て準備がされており、現在の新浜町で塩竈市魚市場が出来る場所となる。

 東北本線は、現在のルートと同じ、「東北海岸線」が描かれている。利府から品井沼のルートが当時「山線」と呼ばれていた。



地図-3 昭和43年測量の塩竈   (1969年(昭和44年)国土地理院刊行58-15-3-7)・・一部拡大・着色

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
  舟溜まりは、埋め立てられ現在の姿に近くなってきている。東北本線は、東北海岸線のルートが東北本線となり、以前の山線は廃止され、利府駅は利府線の終端駅となった。

 昭和25年の港湾法制定に伴い同26年重要港湾に指定され、同30年2月に承認を受けた港湾整備計画に基づき、同44年までに、主に貞山ふ頭の岸壁、桟橋、上屋等の整備が進んだ。 

 また、東宮地区においても港湾施設と臨海企業団地の整備が進められるとともに、西ふ頭の桟橋が完成する。

 昭和40年、岸壁にあった魚市場は閉場され、新たに埋め立てられた新浜町に新魚市場が開場された。塩竈線は、北浜地区の海岸線に沿って魚市場まで延びている。



地図-4 昭和57年測量の塩竈   (1983年(昭和58年)国土地理院刊行58-15-3-11)・・一部拡大・着色

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
  塩竈線の廃止後、まだ線路跡が残っている。

仙石線の本塩釜-東塩釜間は、塩竈線の魚市場への支線跡を利用され高架になって東塩釜駅へと変わっている。

 港から北浜を通る水路は、45号線に沿った形で分岐し、本町から西町へ道路に並行して水路が残っているのもこの当時の塩竈の光景であった。



地図-5 現在の塩竈   (2002年(平成14年)国土地理院刊行)

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
   塩釜港は平成元年には観光船用浮桟橋が完成し松島との港湾間の連携が図られており、現在、主要係留施設としては、公共ふ頭が20バース(-4.5~ -8.5m)、専用ふ頭が13バース(-4.5~ -7.5m)となっている。
 港は、浅海域にある狭隘な港という地理的要因に加え、施設が老朽化してきており、港湾の再開発により、賑わい空間の創出を図ることとして、その先導的施設として、塩釜港旅客ターミナル「マリンゲート塩釜」が平成8年7月にオープンした。

 老朽化が進み平成11年より使用停止となっている貞山2号岸壁について,平成12年から改修工事を進め平成18年中の完成予定になっている。

 ※私は、「塩釜港」という表記を行っているが、正式には「仙台塩釜港塩釜港区」が正式名称であるが俗称として表記した。



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