街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

〜「屋台と魯迅」より 〜その1 〜

仙台駅前・青葉通り界隈

  司馬さんの書き出しは『5年前とおなじ駅前のホテルに泊まっている』からはじまり、JR仙台駅前のペデストリアンデッキ、戦災復興事業と昭和の『青葉通』の屋台、支倉常長をレリーフにした「時計」のある『旧・東一番丁』、そして、東北大学医学部の前進である「仙台医学専門学校」藤野教授と魯迅の話にふれて、次章の東北大学へ続くのであります。

  仙台という街は、1601年伊達政宗の開府から約400年が経過している街ですが、それ以前は国分(Kokubun)氏が治め、「千代(Sendai)」と言われ、伊達正宗が「仙台」と改めたところです。開府前の千代は、「宮城野」の歌枕にあるような広大な原野と湿地で、国分氏の居館と家臣団の居住地のあった古城(Furujiro)から陸奥国分寺あたりと仙台城(中世の「千躰城」)ぐらいしかまともな土地は、なかったといわれています。

 仙台城大手門から東へ大町(Oomachi)・新伝馬町(Shintenmachi)・名懸丁(Nakakecho)を経て塩竃街道への東西幹線、これと「芭蕉の辻」で直交する南北幹線は、南の河原町から南町・国分町を経て北鍛冶町へ至る後の奥州街道でありますが、この二つの街道筋には町人町がつらなり、東○番丁・北○番丁などの城下の大半は侍屋敷に占められるように発展していきました。城下の最盛期は元禄年間であり、城下の拡張は、寛永年間、次に正保〜寛文初年、次は寛文中期〜元禄期で最高に発展したのもこの時期であったといわれています。

  藩政期から続いた仙台の町並みも、明治になって日本鉄道・仙台駅の開業で変貌します。その次に劇的に変貌するのは、昭和20年仙台空襲による焼失であり、その後、戦災復興事業が進み、青葉通、広瀬通の幅員50mの道が出来上がっていったのです。私の記憶が始まった昭和30年代の仙台は、こうした戦災復興事業がようやく終わった頃なのであります。そして90年代に入るとポツポツと再開発のうわさが現実味をおびるようになり、2005年頃から急ピッチでアッチでもコッチでも再開発の嵐が吹き荒れるのでした。
(05 .MAR .2011)




@ 2006年 JR仙台駅西側広場 青葉通り方向を望む      JR仙台駅西側広場

 ビジネス街が続いている仙台駅の西側は、駅前広場を中心に50m幅の青葉通りが続いているが、「青葉通」や「広瀬通」が現在の姿になったのは戦後のことである。

 青葉通は、仙台市の戦災復興事業の柱として、1946年(昭和21年)に「広瀬通」と同じく、幅数メートルの細く短い道を幅50メートルに拡幅し、1945年(昭和20年7月)の仙台空襲で焦土と化した街をぶち抜く計画ができたが、許可なしで建てられたバラックが連なり、道路が姿を現したのは、1951年(昭和26年)といわれている。

 道の両側にケヤキが植えられたのもこの年であった。舗装がされたのは、更に3年後の1954年(昭和29年)である。それまでは、雨が降ればぬかるみ、風が吹けば土埃が舞い上がり「青葉たんぼ、広瀬砂漠」、「仙台砂漠」等と皮肉られた。

 現在は、中央分離帯が1本の通りも、かつては、2本のグリーンベルトがあり、「原町御米蔵」で紹介した「カッコー時計」が時を刻んでいた時代もあった。そして、地下鉄南北線開業、そして、今行われている地下鉄東西線工事で、ケヤキ並木も撤去されているが、2006年頃は、まだこのような姿であった。




A ペデストリアンデッキから2007年の仙台ホテル          JR仙台駅前

 2009年12月31日をもって、営業を終了した仙台ホテルである。東京オリンピックに合わせてこの9階建ての外観になったが、歴史は古く、かつては奥州街道であった国分町の旅籠「大泉屋」の支店として1887年(明治20年)日本鉄道・仙台駅開業に合わせ駅前に進出、この場所には1896年(明治29年)に移転、擬洋風建築であったが東北初の洋風ホテルとして建てられた老舗ホテルであった。

 司馬さんが、『ガラスごしに歩行者回廊の階段をながめていると・・・』と書いている階段はここであった。




B 2006年 仙台駅ペデストリアンデッキから南西方向を望む

 画像左端より、1988年開業のJRグループ「ホテルメトロポリタン仙台」、2004年4月開業の「ホテルモントレ仙台」、JCBの屋外広告のあるビルが、ヒューモスファイブ、かつての宮城ホテルが前身であった所有ビル、その隣が「仙台ホテル」である。

 仙台駅前周辺には、立地性を活かし、明治20年の東北本線開通に会わせて、国分町から移転した旅館が多く建ち並んでいた。




C 2010年 JR仙台駅西側広場 青葉通り方向を望む     仙台駅西側広場

JR仙台駅の中央改札を抜けると目に入ってくる光景も、2010年には、七十七銀行の隣がポッカリ空いてしまった。老舗「仙台ホテル」が廃業、建物は解体されているのである。

 このビルの跡は、どのようになるのだろうか?街が生きている限り、また別の建物が建って、日常の光景として街にとけ込んでいくであろうことは想像がつくが、さてどんなビルになるのだろうか。




D 2011年 JR仙台駅屋上駐車場より 青葉通り方向を望む     

 そして、仙台ホテルの跡地には、オリックス不動産所有の都市型複合施設『EDEN』が2011年4月開業を前に建設が進められている。

 オリックスによれば、かつて白い文字看板で人々に親しまれた「SENDAI HOTEL」のロゴは、その一部を用い『EDEN』として引き継がれるということである。

 しかし、2011年、3月11日の東日本大震災によって、オープンは7月22日にずれ込んだ。



E 2011年 中央改札口からペデストリアンデッキ南側


F 2011年 ペデストリアンデッキ南側から南町通を望む

 地下鉄東西線工事の真っ最中の「南町通」であるが、この道、東端はどこかと言われると、いろいろと解釈がある。というのも、駅前交差点から仙台駅西口バスプールで屈曲するためであるが、市民レベルでは、目標物を二つか三つ言って、どこそこの向かいとか言えば、意味が通じるからあまり不都合はないのである。
 
 藩政時代の寛文4年の城下絵図には、幅1間(約1.8m)ほどの道が描かれているが、当時から南町通といわれていたかは不明であるが、現在の「つつじが丘」の天満宮への道であり、城下が西へ発展していく道として重要路線であったことには間違いないようである。

 その一間ほどの道や1本筋違いの道も、明治20年の仙台駅開業、更には、1926年(大正15年)の市電開通と共に道幅が拡幅され、筋違いの道も組み込まれて現在の通りになったようである。そして、仙台の街路樹が初めて植えられたのも南町通りなのである。




G 2011年 ペデストリアンデッキより 南側を望む

仙台ホテルの跡地には、オリックス不動産所有の都市型複合施設『EDEN』が2011年4月開業を前に建設が進められている。
 オリックスによれば、かつて白い文字看板で人々に親しまれた「SENDAI HOTEL」のロゴは、その一部を用い『EDEN』として引き継がれるということである。




H 仙台駅前エンドーチェーン E BeanS(イービーンズ)

 昭和38年開店した、仙台初めての大規模スーパーがこの「旧エンドー駅前店」であった。
 開店当時、「コカコーラ無料引換券」が先着でもらえて、館内の食堂で飲むことができた。私も親戚がもらった券で初めてコカコーラを飲んだのもここであった。
 いまでは当たり前になったカゴに商品をいれてレジへ持っていくというセルフスタイルも仙台では、ここからスタートであった。また屋上遊園地では、アイドルが歌を披露したり、1階の地元放送局のサテライトスタジオではアイドルやタイアップ映画の出演者を見ようと放送前から黒山の人だかりとなってスーパーでありながら芸能活動にも力を入れていた。
 そうした中で、宮城県内・県外に多数の支店を展開していたが、その後、県外資本スーパーの進出や県内デパートのスーパー部門の進出などで競争が激化し、1991年には西友と業務提携し「SEIYO(セイヨー)」となったが、1997年西友が手を引き、仙台駅前エンドーチェーン E BeanS(イービーンズ)となって現在に至っている




I 2005年 仙台駅西側ペデストリアンデッキから北方向を望む        JR仙台駅西口

 JR仙台駅を挟んで、西口と東口に広場が展開されているが、司馬さんは、本書の中でも、当時の国鉄と宮城県・仙台市の二転三転した様子を書いている。

 しかし、それ以前にも、駅舎を巡る話はあった。仙台駅の客貨分離で、仙台駅そのものを現在の宮城野貨物駅(Kスタ宮城向かい)の場所に持っていくという構想であった。これは実現しなかったが、現在の貨物駅誕生時の話として伝わっている。
 
 テルモの広告塔のあるビルは、1960年オフィースビルとして創業した「第一ビル」であった





J 2006年 解体される「第一ビル」                        JR仙台駅北側

 2006年昼夜通して解体される「第一ビル」である。ペデストリアンデッキ上から解体の様子を、立ち止まって見る人達の姿が印象的だった。





K 2007年4月頃 「第一ビル」跡地に槌音が響く                  JR仙台駅北側

 昭和の光景が一つ消えて、新たな光景が始まる。変貌を遂げる仙台駅北側である。
 
 駅ビルとの間も工事が行われている。後方のビルは1998年(平成10年)3月竣工の地上31階の再開発ビル「仙台アエル(AER)」である。1F〜4Fまでが商業施設て、5F〜7Fが仙台市の施設、8F〜30Fがオフィースビルになっている、31Fには中華レストランと無料の展望テラスがある。

 再開発ビル・仙台アエルは、通称・エックス橋=宮城野橋、東北本線を跨ぐ跨線橋に取り付く二股の築堤を壊してできたビルで、そのため西側の>−−が消えた。




L 2011年 ペデストリアンデッキ北方向を望む                   JR仙台西口

 そして、2008年には、駅前の直線基調のビルが多い中、曲線を使った再開発ビル「仙台マークワン」ができ、B1〜9Fまでは、ファッションテナント「仙台パルコ」が入り、10F〜19Fまではオフィースが入る総合ビルとなっている。

 仙台アエルと仙台マークワンビルの完成にともない、仙台駅ビルも北に延び「S PALU」ができ、ペデストリアンデッキもさらに北側に延伸され、仙台アエル、仙台パルコ、さくら野百貨店北側へ行くのも便利になった。



M 仙台駅ビルも北側に延びて「S-PALU」が出来た            JR仙台駅北側

N 仙台駅北部も大きく様変わりした            JR仙台駅北側

O ペデストリアンデッキで「仙台パルコ」と「仙台アエル」もつながった      

P 仙台駅の東と西を結ぶ名掛丁自由通路がペデストリアンデッキでつながる


Q 「仙台駅北部名掛丁自由通路」

JR仙台駅を挟む東口・西口地区を結ぶ高架型の歩道で、2008年に竣工、総工費は約7億3,000万円。長さ約90メートル、幅員約4.5メートル。駅西口のペデストリアンデッキに直結し、駅北側に立地する「アエル」「仙台パルコ」「エスパルII」などの施設と駅東側の名掛丁とを結ぶ。

 これまで駅北側の東西移動には狭い地下通路が利用され、安全面での問題も指摘されていたが、新しい自由通路では、防犯カメラを14台設置し、仙台駅前交番と仙台駅東口交番内にモニターを置いて監視するなど、防犯対策も万全の構えだという。



R 駅ビルに近接した工事は、この部分の工事だった。         JR仙台北口


S 2011年 仙台駅北側ペデストリアンデッキから西方向を望む        

 左側に見えているのが、かつての「丸光」デパート、現在の「さくら野百貨店」である。ペデストリアンデッキにより仙台駅北側と西側への往来が自由になっている。

 仙台駅にもっとも近い百貨店として、1946年仙台空襲の焼け跡に平屋バラック建ての雑貨店「MARUMITU DEP,STORE」として営業したのがスタートであった。現在の形に近くなったのは1972年頃であった。

 1985年には、「ダックシティ丸光」、1991年には「仙台ビブレ(VIVRE)となり「丸光」の文字が消えた。2002年「さくら野百貨店」に変更、一時休業したが、2003年に再オープンし現在に至っている。業務提携、資本提携の影響を受けつつも仙台駅前のデパートとして奮闘中である。




21. 旧・丸光デパート、現在のさくら野百貨店             JR仙台駅西口

 1953年から始まった駅前の昭和の音として馴染みがあるミュージックサイレンによる「荒城の月」の演奏も丸光デパートの屋上からの音であった。主旋律と、副旋律の2和音で、丸光時代は、午前10時、正午、午後3時、午後5時の一日4回だった。1987年突然動かなくなるまで仙台の音として流し続けられた。

 屋上にあるBOOK OFFの掲げてあるスペースが、かつての展望室であったが、現在は8階のイベントスペースまでがフロアとして紹介されている。




22. 2006年 駅前通りから政岡通りを望む               JR仙台駅西口

2011年、昭和の面影を残しているのは、仙台駅北側では、この政岡通りだけかもしれない。
この小さな小路は、戦災後の青葉通が出来ると同じ頃に出来た道で、当時、有名人の名前として、歌舞伎の「奥州仙台萩」に登場する「政岡」にちなんでつけた愛称であるといわれている。

 そして、この政岡通りから、藩政時代から続く東西幹線の名掛丁へ、2本の横丁が南北に通っていた。「名掛丁センター街」と「ジャンジャン横丁」である。



23. 2011年 「政岡通」から「名掛丁センター街」入口            

24. 2011年 「政岡通」から、かつての「ジャンジャン横丁」跡          

 フェンスの店舗のところが、かつての「ジャンジャン横丁」の入り口であった。



25. 仙台城大手への直線道                       ハピナ名掛丁

伊達政宗が仙台開府にあたり初めに造った道が、仙台城大手から大橋を渡り、日銀仙台支店角の「芭蕉の辻」で直交する東西と南北の道である。このアーケード街と私の後方の通りがその東西幹線である。

 現在は、中央通り商店街として、藩政期の街区である大町、新伝馬町、名懸丁がそのまま商店街の区分となっており、全面歩行者専用道路で、それぞれアーケードが設置されている。



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