街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「貞山堀(木曳堀)」

 まわりは、広大な田園である。沃土というほかない。
 空港で地図を広げた。私どもが仙台市から十数キロ南にいることを知った。この平野の最南端は、阿武隈川(Abukuma-gawa)がうるおしている。まず川を見たいと思った。
 「阿武隈川の河口の荒浜まで行ってください」
と、タクシーにたのんだ。仙台市から南に遠ざかることになるが、仙台市に入る前に、沃野の酸素をたっぷりと血のなかに入れておきたかったのである。
 南下道路は、丈ひくい幼な松の原を貫通している。左手は海だが、防潮堤がさえぎっていた。
 やがて、阿武隈川に架かる橋の上に出、車を降りた。橋は河口に近く、対岸に荒浜の集落が望見できた。
                                         (04.May.2004)




@ 阿武隈川 納屋地区を望む                    亘理町・荒浜


 私は、岩沼市と名取市をまたいでいる仙台空港から、亘理郡亘理町荒浜へ続く、亘理大橋へ向かった。司馬さんの見た阿武隈川に行きたかったからである。
 
 司馬さんは、『やがて阿武隈川に架かる橋の上に出、車をおりた』と書いている。現在は、交通量が多く、橋の上で車を止めることは不可能である。また、橋のたもとの空きスペースにも進入止めがあり、車を止めることすら困難であった。

 私は、そのまま亘理大橋を渡りきり、河口におりた。荒浜の町を背にして、「貞山堀」と阿武隈川の合流する納屋地区(岩沼市)を見ている。水門が見えるところが合流点である。

 右側が太平洋へ続いている。「貞山堀」は、水深が浅いため、平底の船で米や物資を運搬し、荒浜の港から、外洋航行可能な高瀬船に積み替えられたと思う。

 向こうに見える水門から広い意味での「貞山堀」であるが、狭い意味だと、岩沼市納屋地区から名取市閖上(Yuriage)の名取川河口までの「木曳堀」と言われたところである。



A 阿武隈川                            岩沼市・納屋地区


 司馬さんは、仙台藩の経済をこう書いている。
 『じつをいうと、この大藩の経済活動は単純すぎ、徹底的に米に立脚しつづけたのである。
 むりもないことで、仙台平野という肥沃な穀倉地帯のおかげで、腹は十分養えるのである。
 しかも政宗以来、営々と新田を開拓しつづけ、実高は百万石を超えるといわれた。さらに江戸に近いという有利さがあり、仙台藩は余剰米を江戸送りして売った。
 江戸送りの米は、江戸中期には三十万石前後になった。巨大な米穀商ともいうべき藩だった』と仙台藩を分析している。

 余剰米を出せるほどの新田開発と「貞山堀」が関係するかといえばそれほどでもない「貞山堀」は、海水が混じる汽水域で農業用水には不向きであるからだ。
 しかし貞山堀から水田へという水の流れではなく、政宗は、水田開発をするために、五間堀などの用水路も掘削して農業用水を水田へ導き、貞山堀へと排水をしたのである。貞山堀は、排水路という役割もあったのである。

 もう一つの重要な役割を、司馬さんが書いている。
『政宗のころ、仙台米を水上輸送するために掘った運河なのである。 当初は、内川とか堀川、あるいは御船引堀などといわれた。政宗以後も掘りつづけられ、これによって仙台平野の諸川はヨコ糸としてつながれ、南はこの荒浜付近から北はとぎれつつも北上川河口の石巻付近まで至っている。
 そのあたりは明治になってつくられたもので、北上運河という。全長47キロというなんとも長大な遺跡'なのである』
 
 近代になって出来たこの水門が、貞山堀の入り口なのである



B貞山堀 納屋地区 突堤                     岩沼市・納屋地区


 貞山堀と阿武隈川の合流点である。手前側は、新たに白っぽい石積で整備されて突堤はない。対岸には、突堤があり、黒っぽい岩石である。気になって調べてみた。どうやら稲井石(仙台石)と呼ばれる砂質粘板岩である。

 対岸の突堤は、まだ未整備のようだ。政宗の時代・・まぁ、そこまで、さかのぼらなくても水門が出来る前は、どうなっていたのだろうか。

 おそらく低い堤防と松林だけだったのではないかと思う。近代になってコンクリートの護岸がつくられているが、現在の水門の反対側・・貞山堀はどうなっているのだろうか



C 貞山堀                                岩沼市・納屋地区

 荒浜を司馬さんはこう紹介している『荒浜は、江戸期、仙台米を江戸へ積み出す港として、北の石巻とともに栄えた港である。ただし、遠望するだけにとどめた。運河があることを知ったからである』
 司馬さんは、亘理大橋の上から見ている。司馬さんが見たときは、この水門があったかどうかは、わからない。
 
 現在、岩沼市納屋地区の貞山堀の阿武隈川側は、水門になっているが、その水門の裏側は、どうなっているか。
 
 堤防になっているのかと思ったら、葦原の中をゆったりと貞山堀の流れがある。
 
 水門と阿武隈川のコンクリートの護岸堤防がなかったら・・ゆったりと阿武隈川につながる流れがあったのだろうと思う。

 明治期まで、掘削され、改修工事も幾度もあった中で、藩政当時の納屋地区の姿に一番近い風景なのではないかと思う。


 そして、この流れは、岩沼市を流れ、名取市を流れて名取川の河口の閖上(Yuriage)へと続く。

 私は、車で移動しているが、この納屋地区から貞山堀の堤防沿いに仙台亘理自転車道が整備されている。



D貞山堀と仙台空港                               名取市・下増田 


 司馬さんは『私どものYS11は、まだ空港についていない。午後4時すぎ、いったん海へ出、ふたたび長い汀線を眺めつつ、陸地に入り、空港に着陸した』と書いている。

 司馬さんが、一番最初に見た貞山堀は、このあたりのかもしれない。

 貞山堀から見た、3000メートルB滑走路から離陸しようとするアシアナ航空の国際便である。

 伊達政宗が支倉常長を慶長使節として送り出すときは、石巻の「月の浦」から帆船サンファン・バウチスタ号に乗せて出帆させた。国際線が飛び立つ今日でも、貞山堀の流れは変わっていない。



E貞山堀と仙台空港誘導灯                       名取市・下増田


 「貞山堀」という名前は、地図で確認してもらうとわかるが、阿武隈川河口から、石巻の旧北上川河口までの46.4Kmまでの広い意味での運河群の俗称である。

 広い意味で「貞山堀」と、書いたが、広い意味では「貞山運河群」と書いた方が良いのかもしれない「北北上運河(Kita-Kitakami-Unga)」「南北上運河(Minami-kitakami-Unga)」「東名運河(Tona-Unga)」「貞山運河(Teizan-Unga)「貞山堀」」とがつながっている。
 
 狭い意味での「貞山堀」は、阿武隈川の納屋地区から、岩沼市、名取市、仙台市、七ヶ浜町をまたいで、塩釜市湾(千賀の浦)牛生(giyu)地区まで、太平洋岸に沿っての全長33.38km区間である。

 この「貞山堀」、もっと小さく見ると「塩釜湾(千賀の浦)牛生〜七北田川河口・蒲生までの御舟入堀」「七北田川河口・蒲生〜名取川河口・閖上までの新堀」「名取川河口・閖上〜阿武隈川河口・納屋までの木曳掘」であり、この3つの運河が「貞山堀」である。流石、日本一の運河である。奥が深い。

 阿武隈川河口から、北上川河口まで、1558年(万治元年)伊達政宗が堀削に着手してから1884年(明治17年)まで、掘るにほったり46.4Kmなのである。

 司馬さんは、『「貞山」とは、政宗の死後の諡名である。貞山堀という呼称は江戸期からあったわけではなく、明治初期の土木家が、江戸期日本に似つかわしならぬこの大業に驚き、運河の名を貞山堀と名づけたときにはじまる。政宗がどういう人物であったかを知るには、まず貞山堀を見なければならない』と書いている。
 
 『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』というのが伊達政宗の戒名である。彼は、仙台市霊屋下の「瑞鳳殿」で眠っている。戦災で焼失後、昭和49年に、墓室の学術発掘調査が行われ、ほぼ完全な遺骨から、身長159.4cm、血液型B、後頭部が張り出し前額部がふくらんだ長頭型、容貌は面長で鼻筋の通った貴族に見られる顔面形質であると分析されている。

 写真は、貞山堀の中に建つ誘導灯である。ここから頭上をかすめて滑走路に航空機が降り立つ、撮影スポットにもなっているところである。



F貞山堀とイグネ(屋敷林)                       名取市・下野郷    


 水田地帯に点在する屋敷全体をすっぽり包み込みような緑のこんもりとした森林を仙台市周辺でよく見かける。“杜の都・仙台”を象徴する貴重な原風景でもある。
 
 私が、中学生の頃には、伊達政宗の居城があった青葉山から、仙台の街を見ると森が点在して見えた。現在では、ビルが立ち並び水平線もよく見えないが、昔は、杜の都なんだなぁと実感できた。
 
 こんもりした緑の森は、何だろう。それは、農家等の屋敷の周りに、防風・防雪・遮蔽のほか、用材、食用、燃料など生活に密着した材料を得る目的で、主にスギ、ケヤキなどであるが、圧倒的にスギが多く植えられている屋敷林なのである。
 
 このような屋敷林が『イグネ』(居久根)と呼ばれている。「久根」は土地の境の意味で、「家」あるいは「居(屋敷、宅地)」の境界につくられた樹木群が「イグネ」の起源だそうだ。
 
 政宗時代から、平野に水田開発が行われ、集落も水田地帯へ出来てくる。吹きさらしの平野に、強い季節風から家屋を護るために仕立てられたのがイグネである。
 
 昔、中学の恩師が言っていたのを思い出した。「藩政時代、石高や年貢を決めるため検地が行われたが、天守台(仙台城には天守閣がなく少し高くなっているところがある)から、検地をするとき、政宗は、頭が良いので屋敷林の後ろにも水田を作らせていたが、検地をする役人は森に見えるため、石高を過小評価したため、伊達は62万石になったのだ」と聞かされた。本当のようでウソのような話で、私にとっての真偽は今でもナゾである。



G貞山堀                                   名取市・閖上


 司馬さんは、亘理大橋から、岩沼市の竹駒神社に向かっている。

 しかし、私は、更に、県道塩釜亘理線を北上して、名取市閖上に向かった。閖上は名取川河口に栄える漁港である。


 小曳堀といわれている区域は、比較的開けていて、寂しげな感じはあまりしない。

 仙台のご当地ソングに「青葉城恋唄」がある、その詩に仙台市内を流れる♪「広瀬川〜流れる岸辺〜」と広瀬川が登場するが、広瀬川は、名取川に合流して、川幅を増して、この閖上を河口として太平洋にそそいでいる。



H貞山堀 閖上水門                          名取市 閖上


 いよいよ、貞山堀も「小曳堀」と呼ばれる区域を終える。この閖上水門のゲートには、お魚さんの絵が、ペイントされていて結構目立つ。



I貞山堀 名取川河口                        名取市・閖上


 「貞山堀」も阿武隈川納屋地区から名取川閖上までの「木曳堀」区域を終えて、ここ名取川閖上から七北田川蒲生までの明治期に開削された「新堀」といわれる区間に入る。

 海岸線は、松林だけでなく、他の雑木も生い茂っている。時の流れが自然の中に生きているところであり、自然林保護の立場から車両進入禁止の措置がとられている区間も多いのも「新堀」の特徴かもしれない。


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