塩竃市牛生で、貞山堀は、塩釜湾(千賀の浦)に出た。そして、野蒜築港挫折以来、東北の築港工事は見放されていたが、明治43年になって、塩竃築港の計画と周辺整備の計画が持ち上がった。貞山堀を延長して塩釜港へ「貞山運河」が開削されたのは、この頃なのだろうか?この疑問は3年越しで解決を見ることになった。
2007年塩竈港を再調査してみた。この開削が明治期ならば、大正元年測量の国土地理院の1/2.5万地図に載っているはずである・・・ところが、この貞山堀の牛生−塩竈港までの延長部は、なんと昭和8年の測量地図に記載されていたのであった。貞山堀も時の流れと同じくして変わっていたのである。 |
(24.Nov.2004)(30.Nov.2007一部加筆) |
|
|
|
大正元年測量・牛生地区周辺部
(1915年(大正4年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
|
|
|
昭和8年測量・牛生地区周辺部
(1915年(昭和11年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(塩竈)を使用しました。
|
|
塩竈港への貞山堀の延長は、綱尻浦周辺を埋め立てて、牛生から綱尻浦へのルートで開削したことが地図から読みとれる。現代の牛生から塩竈港まではどのようになっているのだろうか。
|
|
|
|
|
@ 貞山運河 貞山堀との分流点 塩竃市牛生町
|
「街道をゆく」から少し遠くなるが、司馬さんも『北は、とぎれつつも北上川河口の石巻付近までいたっている。そのあたりは明治につくられたもので北上運河という』と書いている。
この場所が、北上運河ではない。北上運河は、鳴瀬川河口から旧北上川河口までの区域である。これからたどっていく運河は、「貞山運河」と呼ばれている。左側に開削されて、塩竃港・港町地区へいく運河である。
広い意味での「貞山堀」も、このように狭い意味では、明治期に開削され、きちんとした名称がついている。さらに河川管理では「北」や「南」とさらに区分されているのである。非常にややこしい話ではあるが、広い意味での「貞山堀」は、阿武隈川河口から石巻の旧北上川河口までの「貞山運河群」と考えてもらえば良いかと思う。
もちろん、土地の人は左側の流れを「貞山堀ですか」と聞けば、「あれは『貞山運河』だよ」と言う。
この牛生地区は、「貞山堀」と「千賀の浦」と「貞山運河」へ分かれる、船のT字路ともいうべくところである。 |
|
|
|
|
A 貞山運河 塩竃市舟入
|
牛生地区から塩釜湾港町地区への途中の舟入地区である。地元高校の挺艘部の艇庫があったり、新しいプレジャーボートが係留されているかと思うと、護岸が一部崩れて往時の石垣が露出していたりと綺麗なところばかりではないが、時の流れを感じさせてくれるのが、ここ舟入地区である。 |
|
|
|
|
B 貞山運河 塩竃市舟入
|
ところ狭しと個人所有のブレジャーボートが係留されている。河口や海とつながっている貞山堀は、海の干満の影響を受ける。
そのため干潮時には、船の出入りは出来ないのである。もし出ようものなら、たちまち船底を破損する海難事故が発生する。また、満潮時に大雨が降れば、降った雨が海へ流れず陸地へ溢れ水害が発生する。
蒲生地区の「御舟入堀」が埋め立てられ、排水機場ができたのも、こうした事もあるからで、私が写真日記の中で「複雑だ」と書いたのは、こういうことである。
コンクリートが一部破損して、昔ながらの石積が露出している。フジツボや小さな牡蠣殻がびっしり付いている。このへんは、船舶の航行が多く、流石にバイクや自転車等の粗大ゴミはない。おそらく、海をよごす者がいないか、管理が行き届いているからだと思う。
以前は、このあたりから、港地区を見ると、大きく異様な黒い塊が見えていた。「貞山堀運河橋りょう」である。鉄道用の可動橋で昭和7年に建造され、貨物輸送の最盛期だった昭和30年代から昭和50年始め頃まで、港湾活動を支え運河を通る船舶を見つめていた。しかし鉄道輸送の衰退、自動車輸送の発展により、平成5年には周辺道路の拡幅整備と共に取り壊された。近寄るのも怖いくらいの堂々とした無骨な黒い可動橋であった。これを記録していなかった自分が悔やまれることは言うまでもない。 |
|
|
|
|
C 貞山運河 海へ出る 塩竃市港町
|
「貞山堀運河橋りょう」のあった橋の上から、「貞山通」地区を見ている。貞山通というから道路名かといえば、町名なのである。
運河に階段がついている、かつては、ここから係留した船への出入りを行っていたようであるが、今は使われていないようだ。
|
|
|
|
|
D 貞山運河 塩釜港合流点 塩竃市港町
|
正面に見えるのが東北ドック(造船所)のクレーンである。塩釜港のシンボルでもある。かつては、ドックで多くの船舶がつくられたが、最近では、新造船の発注も少ないようである。
司馬さんが後の章で書いている、仙台駅のペデストリアン・デッキは、ここ塩釜の東北ドックがつくった「歩行者回廊」なのである。
チリ地震津波では、湾内の船が津波により、当時の仙石線本塩釜駅の線路沿いのヘドロの海まで押し流され、しばらく解体されずに放置されていたと記憶している。 |
|
|
|
|
E 貞山運河 塩竃市港町
|
海上保安庁の巡視船が錨をおろしている塩釜港は、第2管区海上保安本部がある。また入管塩釜出張所もある。仙台新港ができる以前は、外国からの貨物船は、ここ塩釜港に入ってきた。
現在は、塩釜魚市場への水揚げをする漁船がほとんどである。ちょうど、写真の対岸の長い平べったい屋根がみえるが、そこが魚市場になっている。
早朝のセリが終わった後は、一般の人でも、市場で水産物を買えるので、正月前は、遠くから買い物客が来るが、朝10時頃では、ほとんどの店が閉まっている。近海ホンマグロ(クロマグロ)の日本一の水揚高を誇っている塩釜魚市場から早朝、築地市場へ行く長距離トラックの列は圧巻である。
私の「街道をゆく」では、奥州一の宮・塩竃神社と御釜神社も登場するので、塩竃港については、また書きたいと思う。 |
|
|
|
|
F 貞山運河 塩釜港合流点 塩竃市港町
|
塩竃市舟入地区から、港町を経て塩竃港へ出る場所が、「貞山堀運河橋りょう」のあったここである。
右側には、見えていないが、第2管区海上保安本部、「二管本部」の巡視艇がある。船体に大きくコーストガードと書いてある小型の巡視艇であるが、存在感は大きい。
さて、貞山運河は、ここ塩釜港で終わる。ここからは松島湾を経て鳴瀬町(Naruse-cho)の東名運河(Touna-unga)へ入るまで、海でつながっているのである。
|
|
|
|
|