野蒜内港が竣工となった1882年(明治15年)、ファン・ドールンの工事計画には、なかったが、椿湾への砂の堆積が深刻になり、このままでは、内港が将来的に使えなくなると予測した宮城県は、野蒜築港・内港である鳴瀬川河口から、松島湾・東名浜へ「東名運河」を開削した。
東名運河と野蒜内港の水位差から、船舶航行をはかるための東名閘門の遺構も近年発掘されている。
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@ 松島湾 東名浜から東名運河合流点 鳴瀬町東名
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松島湾東名浜である。GW中は、潮干狩りの客で賑わう浜であるが、今年はツメタ貝の異常発生で、アサリが取れないのである。
潮干狩りができる季節は、浜のおばちゃんたちが、駐車場に出て、入漁料を徴収するのである。とうぜん、松林の奥や路地に入り込み、入漁料を誤魔化そうとする不心得者もいるのであるが、おばちゃんたちは見逃さないのである。
潮干狩りが行われていたら、私が、松林の奥に車を止めようとしているのを、おばちゃん達の目が見逃すはずはないし、「はい入漁料ね」などと声をかけられて、トランクを開けて、バックの中のカメラをを出して潮干狩りに来たのではないですよと、必死に訴える自分の姿を想像して笑ってしまった。
おばちゃんが、若奥さんだったらどうしよう、つくづく男はバカだとも思った。
画面左側の松が黒く見えるところが、東名運河との合流点である。
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A 東名運河突堤 〜鳴瀬町東名浜
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車をおかせていただいて、護岸の脇を歩いて、突堤まで歩いた。
木造船が朽ち果てるのをまつように係留されていた。潮が引いているのだろう廃船は斜めに傾いていた。エンジン等の機械類は外されている。
護岸堤防の先の、海の中に突堤が続いているのが見えた。かつては、海面に露出していたのだろうが、長年の砂で埋まってきているのかもしれない。
アサリが生きていけるのだから、浜は砂まじりの泥であるが、近年は綺麗になっているようだ、小学生の頃、潮干狩りに連れていってもらったときは、子犬の死骸があった。生まれたがいらないから捨てたのだと思った。昔は、子猫や子犬を生きたまま川に捨てたりするのが見受けられた、現在は、どうなのだろう、かわいそうだからと空き地に捨てて行くのだ。要らないから捨てるという人間の本質は変わっていないようだ。なんとも嫌な思い出である。 |
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B 東名運河合流点 鳴瀬町新東名
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警察所有の船が係留されていた。乗船する警察官はどこからくるのだろうなどと考えている。密漁を取り締まる船なんだろうか。などとも考えた。
空は、どんより曇り空、それでも、少し薄日が射してきたが、薄い黒い雲が流れている。雨でも降るのかな?。
こういう所に来ると、何も考えなくてもいいから好きだ。考えるのは、カメラの露出だけでいいのである。
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C 東名運河防潮水門 鳴瀬町新東名
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一旦、車を動かすために、町内の細い道を、運河側の道路に移動する。そこから、また歩いて防潮水門へ近づいてみる。1989年3月に竣工したものである。
東名運河は、明治16年に着工され、同17年には掘削が終了し、通船できるようになったという3.3キロという短い運河である。
小野から奥松島に架かる橋梁のパイパス工事に伴って橋台工事の際にでてきた杭、角材、コールタールの匂いのする10cmの厚い板が出土している。さらには、稲井石に穴を開けてモルタル様のものでボルトで鉄板をはりつけた土台上のものが2個出土し、七北田川蒲生閘門で回収されたものと鉄板部分が似ており、塩釜・浜市方面への定期船の発着所があった場所でもあり閘門遺構である。 |
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D 東名防潮水門を上流側から望む 〜鳴瀬町新東名
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プレジャーボートの係留してある足場単管でできている桟橋から撮ってみた。京都鴨川の桟敷とは、あまりにもイメージが異なってしまう。 |
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E 東名運河 東名橋の方向を望む 鳴瀬町新東名
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先に見える東名橋の側に車を置いた。結構歩いてきたものである。露出がコロコロ変わる天気である。
こんにちは、と声をかけると、こんにちはと挨拶が帰ってくる。ただ、それだけなのだが、見知らぬ町での一言。気分がいい。 |
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F 東名橋 鳴瀬町新東名
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JR仙石線に乗って東名で降りて、潮干狩りに行く。というのがマイカー時代に到達する前の潮干狩りスタイルである。無人駅を降りて、東名運河を渡るのが、この橋である。
私が子供の頃には、広く感じた橋も、今見ると、ずいぶん狭い橋である。欄干に付いている橋名板は、陶器製である。ブロンズ製も立派で良いが、なかなか味がある。
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G 東名運河松並木 鳴瀬町野蒜
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樹齢120年から130年と推定された松並木である。ちょうど東名運河が開削された頃の松の木である。堤防を造って自然に生えてきたもので、人為的に植えられた物ではないということである。
海岸に近い余景には、樹齢200から300年の松があるということである。
道路側の松並木は、道路拡張時に切り払われて、現在は見ることができない。やはり複雑な思いがする。 |
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H 東名運河 鳴瀬町野蒜
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平成10年からの運河脇の道路拡張工事に伴い、野蒜駅前付近の岸辺の石積みの前に一列に並ぶ木杭群がでてきたところである。
昭和39年あたりで、この東名運河でシジミ取りをした記憶がある。ちょうど左側に旧国鉄の平屋建ての長屋みたいな宿舎があった。玄関入口は個別だったが、引き戸を開けると横一本の廊下でつながっていて、旅館の部屋で生活しているような建物だった。そこに住んでいた母親の知人の案内でシジミ取りをしたのである。子供ごころに、岸辺の石積みの前に木の杭が並んであったのを覚えている。シジミ取りに飽きてきて、その杭に腰を下ろしたのを覚えている。
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I 東名運河 〜鳴瀬町野蒜
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まっすぐに開削されている運河が、この辺でカーブを描く、対岸が野蒜新町である。松並木に混じって雑木の割合も多くなっている。
2003年7月26日の宮城県北部地震の爪痕は、復旧されこの辺りは、何もなかったかのように見えるが、道路の陥没、ブロック塀の倒壊、家の土台の亀裂等、東名運河側からの亀裂が特に多かった地区である。 |
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J 東名運河 不動橋を望む 鳴瀬町野蒜
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野蒜築港の最大の遺産が、運河である。明治15年8月から、石巻−野蒜−塩竃間に米沢丸という蒸気船が就航し、石巻から4時間半かけて塩竃に到着、船賃が、米1俵が買える50銭であった。
東名運河に一般の船舶が通航許可になるのが明治17年、2月で、仙台−石巻ルートがひらかれた。
大正時代には、「不動橋のたもとからポンポン蒸気と、いわれる発動汽船で、松島湾を通り塩竃まで行き塩竃から鉄道で仙台へ行った。船賃は、野蒜から高屋敷まで30〜40銭、野蒜から塩竃まで40〜48銭で、夜中や風雨の時は、3割り増しであった」という話がある。塩竃神社への初詣客で混雑したという話もある。
この東名運河は、終戦前あたりまで、水上交通路として使われていたということである。 |
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K 東名運河鳴瀬川分流点・野蒜水門から、市街地・東突堤を望む 野蒜新町
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イギリス積み風のレンガ貼りの野蒜水門の上から、対岸の野蒜築港市街地跡が見える。更に、東突堤に波が当たっているのも見える。
この水門の手前の橋の付近が、閘門跡である。
野蒜内港の仮落成した時は、鳴瀬川に船を浮かべて桟橋を渡し、ガス灯をつけ、野蒜の芸者さんたちが総出で夜通し歌い踊ったと言われている。
川面に若い男女が話していた。シャッター音で、驚かせてしまったが、二人で市街地の方をみつめていた。
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