『牡鹿半島が、仙台湾を東から抱いている。小さくいえば、石巻湾を抱いているのである。その石巻の野に北上川が北から南へ貫通していて、そのまま河口を南にひらき、帆船時代には絶好の河口港を形成していた。
江戸期、石巻湊の存在は、かがやかしいものだった。仙台藩領の米は主としてここから積みだされ、諸国の船舶がここに寄港し、奥州第一の商港とされた。・・中略・・千石船の船乗りたちが、うたった唄に、三十五反の帆を巻き上げて、行くよ 仙台 石巻』、司馬さんの「海に入る北上川」の章の書き出しである。
私も、石巻が好きだ。特に、住吉界隈は、奈良時代から幕末・明治・昭和を通した街並が残っているからである。何度、足を運んでも、見飽きるという感じはしない歴史の宝庫である。そして、NPO「スマート・シニア・いしのまき」のS氏と出会ったのも住吉公園であった。 |
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① 「雄島」 ~住吉公園~
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干潮のため、タイコ橋の下は、干上がっている。この小さな島が「雄島」である。小さいながらも、かつては、旅館が1軒、手前に船会社が1軒、島の中に建っていたという事である。
三味線と小唄が聞こえ、窓からもれる明かりが北上川の川面に映える、そんな旅館だったのかもしれない。
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② 「雄島」から堀割方向を望む ~住吉公園・雄島~
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住吉界隈は、藩政時代に、仙台藩をはじめ南部藩・一関藩・八戸藩の米蔵が建ち並んでいた街である。
江戸廻米・・そのため、旧北上川舟運として荷揚げの便を図るために、二つの堀割があった。
一つは、この写真の、右側の家が建ち並んでいる辺りからあった堀割であり。もう一つは、現在の住吉小学校脇の道路である。
この二つの堀割も、Sさんによれば、昭和になって埋め立てられたということである。
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③ 住吉小学校脇堀割跡 石巻市住吉町~
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現在の住吉小学校の脇の道路になっている所が、もう一つの堀割跡である。この二つの堀割は、1号堀、2号堀と名前が、ついていたということである。
この二つの堀割の間に、今もひっそりと、藩政時代から、舟運で栄華を誇った当時の石巻の面影を、色濃く残しているのが、住吉・横町界隈なのである。 |
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④ 巻石 ~住吉公園・雄島~
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岸辺に小さな赤いタイコ橋が架かっている「雄島」に渡ってみた。カモが泳いでいる。右側に四角の岩があった。これが「巻石」(Makiishi)である。
「巻石」の由来は、干満の差によって、この岩のまわりに渦ができることから。岩の周りを水が巻くということで「巻石」と呼ばれるようになったとのことである。
「石巻」が地名になったのは、この巻石であるという説がある。大淀三千風の「松島眺望集」の中に「石巻。川中に大きな岩あり、このかげ浪巴(Tomoe)をなせり。ゆえにこの名あり」と書き記してあるためである。 |
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⑤ 洗い場 ~石巻市住吉町~
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「巻石」が石巻の由来であるならば、北上川の由来は、どこからきたのだろうか。
昔から北上川は「日高見川」(Hidakamigawa)と呼ばれてた。この「日高見」(Hidakami)は、「蝦夷のいるあたり」という意味で、まず「ヒダ」は「蝦夷」、「カ」は場所をいい表わすもので、住処(スミカ)、「ミ」は「そのあたり」という意味で「蝦夷のいるあたり」になる。つまり北上川は「日高見の国に達する川」となり、この「日高見」が訛って北上川になったと伝わっているのである。
人々はこの川の流域に暮らしながら、ある時はその恩恵に感謝し、そしてある時は洪水を恐れ、神が宿る川としてこの川を呼んできたのである。
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⑥ 住吉神社(大嶋神社) ~石巻市住吉町~
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通称「住吉神社」と親しまれているが、正しくは「大嶋神社」である。平安時代初期に編纂された『延喜式』に記載された式内社で、石巻の「牡鹿十座」(国幣社)と呼ばれる10社のうちの1社である。
石巻地方に式内社が多いのは、奈良時代の律令国家の「エミシ」への植民地支配の前線として、北上川が交通上・戦略上重要な役目を果たしていたからである。
松尾芭蕉も「奥の細道」で、ここに参拝をしたという記述があり、石灯籠に彫られている奉納した船主達は、石巻にない屋号を持つ人名もあり、千石舟が行き来した東廻り航路のスケールの大きさを垣間見ることができる。 |
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⑦ 狛犬 ~住吉神社~
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「住吉神社」境内の稲井石で出来ている狛犬であるが、前足を頭上に上げている。始めて見る狛犬さまである。台座は、新しいが、狛犬は古いようだ。
伊達政宗と川村孫兵衛の功績で、今でこそ穀倉地帯といわれる仙台平野も、伊達政宗が入府した頃は河川が縦横に乱流する湿地帯だったのである。
白石宗直が北上川を迫川から切り離す堤防の工事を行うことでこの広大な湿地帯が広大な耕地に生まれ変わる基礎ができたのである。 |
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⑧ 擬宝珠 ~住吉神社~
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伊達政宗は新田開発と米を運ぶ手段を水運を藩の基本政策として推進し、その政策の実行者の川村孫兵衛により、北上川は江戸時代を通じて水運の便が向上し、石巻は、その舟運によって栄えたのである。
石巻の中でも、特に、住吉・横町界隈は、一番賑わったところであるが、明治20年の東北本線の開通により、港湾は衰退の一途をたどるようになってきたと、S氏は、語ってくれたである。 |
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⑨ 住吉公園 「袖の渡」 ~石巻市住吉町~
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古くは、伊寺水門(Ishiminato)といわれた小さな港町が石巻である。
この住吉公園内にある住吉神社の前、このあたりが「袖の渡」(Sode-no-watari)である。源義経が頼朝に追われ藤原秀衡を頼り平泉へ向かう途中、ここから船に乗り、一関に向かうが、船賃の替わりに袖を船頭に渡したという伝承である。
「袖の渡」は、阿武隈川に架かる6号線の阿武隈橋付近の逢隈地区、北上川の河北町大川地区、そして石巻住吉神社前と宮城県内に3箇所があるようである。
しかし、歌枕は、義経よりも先の時代であり、いにしえのロマンとしておきたいと思うのである。 |
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⑩ 丸太塀のある家 ~石巻市住吉町~
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住吉町・横町界隈に歴史の趣を感じるのは、こうした民家があるからである。一番栄えた頃の証でもある。
当時のこの界隈に住んでいた人で多いのがお医者さんだということである。このあたりは、一等地でもあった。
この民家は、通りに面した塀が、丸太で出来ているのである。それだけでも、特徴的なのに、庭木で屋根がよく見えないが、屋根は、スレート葺である。スレートは、石巻に隣接する雄勝町の特産である雄勝石であり、屋根材としてだけでなく、良質な硯に加工されている。東京駅のスレートも雄勝石のスレートが使われている。
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⑪ 杉と松 ~石巻市住吉町~
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杉板の下見板である。その下の分厚い松材、舟板である。住吉界隈で、残っているのは、私が知っているのは、2軒だけである。近年、こうした舟板で出来ている建物が少なくなっているということである。
日本初の女医さんも石巻出身であり、近くの廣済寺には、立派な碑文のお墓がある。しかし、石巻の衰退と共に、石巻から首都圏へと移り住んで、お墓や建物だけが残っているということである。
住吉界隈への直接の興味になった志賀直哉の生家も、現在の住吉町であるが、場所の特定はされていないが住吉1丁目地内といわれている。志賀直哉も石巻で2年過ごした後、東京の祖父母のもとへ移っているのである。 |
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⑪ 雨に濡れて ~石巻市住吉町~
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雨の中を住吉界隈を歩く。雨音だけが聞こえてくる。静かな街である。車が、飛沫をあげながら通り過ぎる。そして、また静寂に戻る。
石巻が、河口港として栄えた藩政時代から、明治までの賑やかさは、今はない。静かにたたずむ建物に面影を残すのみである。
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