街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「石巻 住吉・横町界隈」(その2)

 住吉界隈は、幕末から明治にかけて、石巻で一番栄えた街並であることは、前項で、書いたが、更に、この項で詳しく紹介したい。願わくば、これ以上歴史的建造物が傷まないように、早急なる維持・修繕と保存を願うものである。



@ 旧相馬藩別邸                    〜住吉町1丁目〜
 住吉神社から北上川沿いに小径が続いている。スレートの屋根と白いナマコ壁の土蔵が目に入る。旧相馬藩別邸である。

 福島県相馬市といえば、夏の東北四大祭りとして「相馬野馬追い」が有名である。その旧相馬藩の別邸が、この住吉町1丁目にある。

 邸内の欄間には、馬の絵がモチーフされているとのことである。また、トイレも豪華な造りとなっているとのことである。
 この建物の向かいに、市長公舎があるが、こうした歴史的な建物であっても、残念ながら、市の補助は受けられていない。保存については、持ち主が管理しているのである。
 そのために、一般公開という形は、とられていないが、事前にお話をして、都合がつけば、善意で見学させていただけるようである。ひょっこり行って見学させてというわけにはいかないのである。



A 「旧毛利邸」                     〜住吉町1丁目〜

 毛利家は、代々住吉米蔵の蔵守をしていた旧家であり、現在でも、住吉町の別の場所にお宅があり「毛利コレクション」は有名である。
 毛利家第11代当主、七蔵か、12代当主、利兵衛によって、この一部二階建て毛利邸が建てられたといわれている。

 1868年(慶応4年)に、蝦夷を目指して、榎本脱走艦隊は、仙台藩の外港であった寒風沢に集結後、現、石巻市折浜に上陸、石巻まで陸路を通ってきた榎本武揚らと、会津から敗走してきた土方歳三ら「新撰組」、仙台藩から星恂太郎ら「額兵隊」等が、合流した。
 そして、榎本武揚、土方歳三、星恂太郎らが、この旧毛利邸の、二階の東南の座敷に陣取ったのである。



B 「旧毛利邸」平屋部                            〜石巻市住吉町〜

 一部二階建ての旧毛利邸の平屋部分である。天井中央部分の梁の方が、太くて魅力的であるが、細かい格子の棚戸も繊細な感じが魅力的である。
 平屋部分といっても、このように天井が高く、醸造店の店舗として使われていた時には、中二階があり、杜氏達が寝泊まりしていたという部屋もある。



C 「旧毛利邸」二階への階段        〜石巻市住吉町〜

 軟らかな外光が射す、かなり急な二階部への階段である。この階段を、かつての土方歳三も上り下りしたのである。
 
 この建物を現在管理している方は、毛利さんから建物を購入した方である。買い取った当時は、この建物に、土方歳三の刀傷が残っていることは、しらなかったということである。たまたま、親戚から、凄いところに住んでいるね。といわれて、始めて気づいたということである。

 現在は、この建物ではなく、後ろの建物に住んでおり、一般公開ではないが、訪ねてくる人には、建物を見学させてくれるのである。

 ご覧のように、外観は、痛みが激しい。大学の教授達が調査には訪れるが、保存のための補助金等は、石巻市からも宮城県からも出ていない。

 壊れる前に何とかして建物を残して欲しいというのが、管理されているおじいちゃんの悲鳴である。



D 旧毛利邸二階床の間                             石巻市住吉町〜

  旧毛利邸二階部分、床の間である。至る所に面皮柱が使われている。床の間の壁は黒く塗られている。突然の訪問だったので、カーテンを2枚開けて頂いた。やわらかな外光が、窓から差し込み、部屋の中を照らし出した。  
 さて、ここに陣をはった榎本脱走艦隊に、新政府軍の追っ手が迫っていることを教えたのが仙台藩士・細谷十太夫直英である。艦隊7隻分にものぼる大量の食料その他物資を渡したという本の記述は、あるが、その中に毛利氏の名前が全然出てこないのである。


 石巻から折浜までの陸路を大量の物資を運ぶためには、物資の調達だけでなく、輸送手段である荷馬車や荷車が大量に必要だったはずである。相当の経済的な力がなければ短期間に物資なり輸送手段の確保は困難であったと予想が付く。

 では、それらを用意したのは誰なのか、当時の毛利家当主、毛利理惣治であった。歴史には、までまだ埋もれている部分が多くあることを感じた。



E 土方歳三・激昴の刀傷               旧毛利邸二階〜

 土方歳三、激昴の刀傷である。窓が閉まっていることと、この二階部分の部屋のすべての柱が、角をとってある面皮柱が使われているため、見づらいかもしれないが、道路に面した東南の部屋の角柱に付いている。
 
 何故、土方歳三は、怒って刀傷を付けたのか?
 当時、仙台藩は、奥羽列藩同盟の中で、今後の幕軍の一員としての対応をどうするのか、煮え切らない態度にあった。それに対して怒って付けたのではないかという説もあるようだ。仙台藩は、その後まもなく同年9月に恭順の道を選んだのである。

 この刀傷は、畳面からさほど高くない位置についている。この刀傷を、友人が居合道から分析してくれたので、引用することとした。

 「わかりにくい傷ですが、向かって右上から左下に切り込んでいるように見えます。そうだとすると、床に片膝をついた状態からの抜き打ちです。狭い家屋内で大刀を立ったまま振りかぶれば天井に当たります。思い切り上から振り下ろせるこの切り付け方は実用的です。居合いでの基本の一つです。客としてその場所に滞在していたのですから、刀は客座(右手の横・抜き打ちをしない意思を表す)にあったと思います。その位置から逆手(左手)で抜き打てば、ちょうどこういう角度になります。もちろん抜打座(左側)からの基本の抜き打ちでもこの切り方は可能です。勝手な想像をしても、さすが、剣豪土方の太刀筋だと思いました」との事である。



F 旧遊郭                     〜石巻市旧横町〜

 小さめの窓、二階の手すりの飾り、小さく張り出した玄関、旧遊郭である。建物だけがまだ歴史の証人として残っているのである。

 遊郭の話になると、大体の方は、顔が緩むか、厳しくなるか、どちらかであると思う。私は、どうだろう・・昭和33年に防売法の施行である。私が、まだ小学生にもならない時代である。

 住吉公園で、石巻の遊郭について、いろいろな話をうかがうことができた。 終戦後の混乱期、石巻にも進駐軍がきていた。そうした中で、日本人だけでなく米兵も相手にしてくれる女性達がいたのである。
 サングラスをかけたおじさんがポツリと話した。『(遊郭の)女性達がいたから、石巻は、強姦の話がない。身をもって女性達が石巻を救ってくれたんだな』・・哀愁にも聞こえるし、誇りにも聞こえた。



G  旧遊郭二階窓                      〜石巻市旧横町〜

 二階部分の飾りである。窓は、サッシになっているが、手の込んだ飾りが残っている。
 建物内部については「二階への階段は、入っていく人と帰る人が鉢合わせしないような工夫がある」ということである。
 女性達は、どんな様子だったのだろう。毎日11時頃に、今では、駐車場になっているが、道路に面した遊郭の前のお風呂屋さんに揃って出掛けていく姿があったということであった。



H  旧遊郭                                〜石巻市旧横町〜

 もう一軒の旧遊郭であるが、ちょこんと突き出た入口の屋根と、窓の位置のみが面影を残している。現在は、普通の民家として使われている。



I 哀愁の小径                       〜石巻市旧横町〜
  遊郭前の小路で、ここにも稲井石が敷いてある。碑だけでなく敷石としても利用されている。思えば、稲井石との出会いは、小さな掘りにかけられている小さな橋かもしれないが、意識したのは、やはり野蒜築港の突堤である。

 黒っぽい石が雨に濡れている。この小路を大勢の人が通ったのだろう石の表面がつるつるになっいる。凾館の坂に、見返り坂という名前の坂がある。遊郭から出て彼女達に思いをはせて振り返ったからと言われている。
 
ここは、どうだろうか・・石の上を歩きながら、振り向いたのだろうか?それとも、頭をかきながら通ったのだろうか?ちょっぴり、哀愁を感じる道だったのかもしれない。



J 舟板の家                               〜石巻市住吉町〜

 幕末からの家、旧遊郭だけでなく、ここ住吉界隈は、民家にも、特徴が出ている、スマート・シニア・いしのまきのSさんが、案内してくれた腰板が舟板で出来ている家もそのひとつである。
 通りを挟んで、両側の家の腰板が5cm厚くらいの松材で出来ている。「リサイクルだね」とSさんが笑った。





K 旧仙台藩住吉米蔵跡                       石巻市住吉町〜

  正面の通りが、堀割跡である。左側が、現在の住吉小学校で、藩政時代(1717年(享保2年))頃には、仙台藩だけでも18棟の米蔵が建っていたところである。

 司馬さんは、吉田松陰が、攘夷のため私的に国力調査をして書いた「東北遊日記」を引用している。「人家の多さを書き、ここから輸出される仙台米は年に7、80万石とも3、40万石ともいわれる・・石巻には、南部藩や一関藩といった北上川流域の諸藩の米蔵もならんでいる」と書いている。

 住吉には、いったいどのくらいの米蔵が建っていたのだろうか、45棟、13万5千俵の米を収納できたということである。



L カマ神さまのいる家                          〜石巻市住吉町〜

 カマ神様がこちら側を向いている。カマ神は、旧仙台藩領に相当する土地のみに伝えられている竈の神である。特に集中して存在しているのが、中世の葛西氏・大崎氏の勢力範囲と一致するというのも興味がつきない。

 カマ神がつくられていた年代は、1780年代から、1800年代に作られている。木彫りであるならば、その家を新築した大工がつくり、土製であるならば、その家をつくった左官屋と云われている。

 土製のものは、竈近くの柱に、直づけされているのも多いが、煤で真っ黒である。目にアワビの貝殻がつけてあったり、杯の糸尻がついているのもある。
 竈の神として、屋内の竈付近の柱に祀ってあるものが多いが、屋内に悪病が入り込まないようにと戸口にむけられていることもある。

 民族資料館に展示されるカマ神は、見たことがあるが、こうした街中で、カマ神に出会うのは驚きである。



M 早急なる保存を願う                       〜石巻市住吉町〜

  旧毛利邸の全景である。台風23号の宮城県接近時の写真である。

 この建物を残そうとしている人達がいる。しかし、こうしているうちにも、風雨にさらされている。管理しているみなさんも高齢になっている。

 石巻の現在の観光資源は、中州に最近できた「石巻漫画館」に力を入れているようである。しかし、歴史の街として、十分な要素があるではないか。住吉界隈である。

 今年の夏、凾館へ行った際に、入った寿司店で、榎本脱走艦隊の北海道でのルートを熱く語っていたグループがあった。しかし、石巻に立ち寄ったことも、その本陣を敷いた建物が残っていることも、そこに土方歳三の刀傷があることもご存じではなかった。寿司職人も、始めて聞いた話です。と答えていた。

 地方財源が厳しいことも承知しているが、宮城県としても保存に力をいれるべきではないか。早急なる修繕、保存を望む。

 私の持論がある。朽ち果てた後で、レプリカを作って人を呼ぶ・・こんなナンセンスな話はないのである。


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