街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻

「細倉鉱山」と「くりはら田園鉄道」~その1~

 先日、宮城県北部へ出掛ける機会があった。司馬さんの「街道をゆく」からは、横道にそれてしまうが、調べてみると、まんざら横道でもないような気がした。
 
 それは、私が「多賀城と北畠顕家」を書いているときに、天宝勝宝元年(749年)に陸奥国守「百済王敬福」が、陸奥国からの産金を京へ送ったと書いた。東大寺大仏建立に使われた900両(約13Kg)の砂金であった。
 この金の産出地が、現在の宮城県涌谷町である。また、岩手県平泉の中尊寺金色堂に使われた金も陸奥国の金であった。金売り吉次というミステリアスな人物も登場する。

 宮城県北部、現在の宮城県栗原郡鶯沢(Uguisuzawa)町に「細倉(Hosokura)鉱山」がある。1987年(昭和63年)3月閉山するまで、亜鉛、鉛、金、銀を産出する日本有数の鉱山であった。亜鉛、鉛の鉱床に金鉱石が含まれるというのも事実である。

 その歴史は、平安時代の806年代~876年代(大同~貞観年間)に発見されたとある。当時の人が、亜鉛や鉛を必要としたというより、やはり金ではなかったか?みちのく黄金郷時代と細倉鉱山が無関係では、ないのではないか。という仮設が私の中に生まれてきた。徳川時代には、金の採掘が本格化しているのである。やはり、黄金郷だったのである。

 細倉鉱山が閉山した今、坑道の一部は、レジャー施設「細倉マインパーク」として残り、そして、その鉱山からの輸送を担った「栗原電鉄」は、「くりはら田園鉄道」(略して「くりでん」)として第3セクターとして地域住民の足として現在も活躍している。しかし、3年後の2007年3月末に廃止になることが決定している。
                                              (16.Oct.2004)



① くりでん石越駅                       栗原郡石越町

 くりはら田園鉄道は、宮城県栗原郡石越駅を起点として終点である細倉マインパーク前駅までの営業キロ25.8Kmの現在は、非電化区間の地方鉄道であり、経営は、第3セクター方式である。

 「くりでん」の前身である「栗原電鉄」は、「栗原軌道(株)」として1918年(大正7年)12月に軌間762mmのナローゲージ軌道で発足した。1941年(昭和16年)12月、栗原鉄道(株)と商号変更、1942年(昭和17年)には、細倉の亜鉛や鉛を運び出すための路線となった。戦後になって、1950年(昭和25年)に全線電化が完成、1955年(昭和30年)には、国鉄在来線と同じ1067mmへの軌間拡張工事が完成。国鉄との直通運転が始まり、「栗原電鉄(株)」に商号変更をした。くりでんの全盛期であった。

 駅数は、16駅、有人駅3駅、他は無人駅である。有人駅である若柳、沢辺、栗駒、各駅の切符は、硬券で鋏をいれて販売してる。


  

② くりでん0キロポスト                             石越駅

  くりでん石越駅は、無人駅となっている。左側はJR東北本線石越駅である。駅前広場に面して、JRと「くりでん」の駅舎が建っているのである。
 駅舎は、木造で開業当時の大正ロマンを感じる木造駅舎である。


 1964年(昭和39年)には、経営悪化に陥った陸前乗合自動車(株)へ資本参加、合併「宮城中央交通(株)」と商号変更。1969年(昭和44年)に、バス部門を分離し「栗原電鉄(株)」と商号変更した。

 1987年(昭和62年)3月、細倉鉱山閉山に伴って貨物輸送廃止、三菱マテリアルは、閉山補償として、栗原鉄道に対し累積債務を肩代わりする代わりに経営から手を引いた。残されたのは、大量の失業者とじん肺患者であった。鶯沢町の人口は、鉱山最盛期の1955年には13065人とピークを迎えたが1995年には3445人まで落ちみ、過疎が急激に進んだ。

 地元沿線自治体(石越町・若柳町・金成町・栗駒町・鶯沢町)は、1993年(平成5年)12月、三菱マテリアルから経営を引継「第3セクター」として再出発するが、宮城県に経営参画を要請し、1995年(平成7年)2月、経営改善のために「非電化・ワンマン・さらなる合理化」をすることを決定し、同年4月、45年走ってきた電車の廃止とともに「くりはら田園鉄道」が誕生したである。



③  KD95現行ディーゼルカー              くりはら田園鉄道・石越駅

くりでんの沿革史は、このように複雑である。車両も、栗原軌道時代からみれば、蒸気、電車(電気機関車)、気動車と変わってきたのである。
このKD95気動車は、1995年(平成7年)の「くりはら田園鉄道」発足時にKD11と共に導入された車両である。
 現在、くりでん本社のある若柳駅には、屋根付き駐輪場として利用されている車両もあるし、西武・福島交通飯坂線から転入した車両、栗原電鉄自社発注車両等、塗装が痛んでいるが、静態保存されている。


伊豆沼の白鳥、栗駒山の勇駒(残雪)をモチーフに車両側面に描かれているワンポイントマーク



④ 若柳駅                      栗原郡・若柳町
 石越を発車して、2つ目の駅が、最初の有人駅で、くりでん本社のある若柳駅に着く。
 おばあさんが、一人列車から降りた。構内には、電鉄時代の車両が留置されているが、自走することは出来ない。架線柱は、残っているが架線は撤去されているからである。静態保存である。



⑤ 駅長さん走る                      栗原郡若柳町

 石越行きのKD11との交換風景を見ることが出来た。駅長さんが、KD11の運転士から、通票(タブレット)が入っている輪っか(キャリアー)をもらって、私の列車の運転士に渡すため走ってくる。
 日本の鉄道は、正面衝突はしない!というのは、1つの区間に1個列車しか入れないという「閉そく」という仕組みがあるからである。
 その閉そく方式の一つが、くりはら田園鉄道でも使っている「通票閉そく式」なのである。
 砲金製の円盤状の中に、丸や三角や四角の穴があいていて、駅に備え付けの閉そく器へ入るようになっている。両側の駅は、それぞれ形状が違っていて、駅の区間にどの通票を使うかは、あらかじめ決まっている。
 通票を閉そく器へいれて、大きなボタンを押すと、ボンというかベンというベル音がする。このボタンを何回押すかも両端の駅で決まっている。相手の駅の打ち返しが合わないと、通票が取り出せない仕組みになっている。
 このボンというかベンという音も、今では、懐かしい音である。



⑥ ED202                細倉マインパーク前駅

 ナローから、軌道拡張された以降も、足回りを改良して走り続けていたED20凸型電気機関車2号機である。ひときわ大きなパンタグラフ枠は、製造当時のものだという。舟体が2本ついているので、直流機関車であることがわかる。
 この栗原電鉄時代の架線に供給する電気は、どこから持ってきたのだろう?戦前は、大きな精錬所等は、自社の工場で使う電力は、自社の水力発電所を持っていたが、戦後の電気事業法で、電力会社の物となってしまったところが多い。そのため、自社で建てた発電所の電力を買うということが発生し、経営を圧迫しているところも多い。
 栗原電鉄は、どうだったのだろうか?栗原田町駅前に変電所があった。



⑦ ワフ74                       細倉マインパーク前駅

 ED202と連結されて、静態保存中である。貨車に、車掌室が付いているので緩急車である。ペンキは、はげ落ち、形式も読みとれない。腐っている箇所もあり、ボロボロの状態である。



⑧ 旧・細倉駅                        鶯沢町

 細倉マインパーク前駅手前に見えるのが、旧細倉駅である。栗原電鉄時代は、旅客の終点駅であった。ここから、鉱山線として鉱山駅まで線路は延びていたが、現在は、旧細倉駅の先に、細倉マインパーク前駅が出来たのである。



⑨ 発生レール                        旧・細倉駅構内

 発生レールとは、摩耗等により使用出来なくなったレールや、取り外されたレールである。
 小降りのレールであり、「30キロ」レールのようであるが、国鉄型の「30N」ではない。レールの刻印があれば、どこで製造されたのかは判るが、探せなかった。




⑩ 転てつ機                        旧・細倉駅構内

 発生品置き場に、ダルマ型転てつ機が置かれていた。これは、古い・・丸いのが重りであるが、国鉄型よりも薄い、ということは、ナローゲージ時代のものかもしれない。



⑪ 朽ちる                        旧・細倉駅構内

 発生枕木である。枕木は、ポイントや踏切の渡り部分は、ヒノキが使われているが、他は、クリの木が使われている。長い枕木は、ポイントを支える枕木である。



⑫ 外された線路                      旧・細倉駅構内

  旧細倉駅の構内は、広かったのがわかる。レールが取り外されているが枕木を含む道床は、そのままとなっている。発生レールは、ここのレールかも
しれない。
 目と鼻の先に、旧細倉駅舎が見える。歩けば数分の距離である。いつもなら、さっさと近寄っていくのだが、今回は、撮影の目的が違うのである。グッとこらえて、駅を見る。



⑬ 保線小屋                        旧・細倉駅構内

 構内の端のほうに建ててあるのが、保線関係の建物である。マインパーク前駅の脇になっている。
 内部を撮すためにストロボを使ったが、ここらへんが素人の悲しさである。自然光で撮った方が良かったと現像後に気づいた。
 今度は、ちゃんと撮れよな!建物が呼びかけているような感じがした。



⑭ また来てね                                 KD95

  赤字で廃止が決まっていても、精一杯走り続けている、くりでん。
運転席の助士側には、誰がつくったのか、民芸調の置物が飾ってある。
くりでんで働く人、沿線の人も、みんなやさしい人達なのだ!私が 今回乗ったくりでんは、実は、特別に3両編成で運行されているのである。最初で最後の3両編成かもしれない。
 駅によっては、2両しかホームに入りきれない、そのため、踏切が列車が駅を発車するまで開かないのである。
 沿線の人が家からでてくる。何かあったのか不安そうに見ている。3両編成だとわかって、こちらに手を振ってくれる。こういう鉄道とのふれあいがあるのも、くりでんの良さなのである。


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