街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻

~「細倉鉱山」~

 この宮城県北部、栗駒山の麓の「横道」は、調べてみると、高田商會という名前が出てきた。そして私の仕事にも関係しているであった。
 
 それは、宮城県北部、2005年4月1日で、新たらしくなった栗原市、かつての「細倉(Hosokura)鉱山」の町、宮城県栗原郡鶯沢(Uguisuzawa)町のから始まっていく。

 鶯沢の町名の由来は、現在の多賀城にあった「陸奥国府」のⅣ期のころにあった「前九年の役」の伝承に関わってくる。

 安倍氏を、追討する源頼義が苦戦を強いられた時に、一羽の白いウグイスが現れ、頼義の旗竿の先にとまり一鳴きすると、頼義軍がとたんに強くなり、安倍氏は敗走したという白鶯伝説から、鶯沢となったということであるが、安倍氏が「俘囚」の長であり、勝った側が町名の由来となるのも複雑な気持ちがする。

 また、前九年の役は、奥羽山脈沿いに戦われたとすると、奥羽の鉱物資源確保ではないかとも思ってしまうのである。                      (19.Apr.2005)




① 現在の細倉鉱業(株)・細倉精錬所(株)         栗原市 旧・鶯沢町


 細倉鉱山は、平安時代の806年代~876年代(大同~貞観年間)に発見されてから、藩政時代には、仙台藩の所有となり開発が進んだ「三十三カ山」といわれるように多くの坑口や鉱脈が発見された。

 当初の主力は銀を産出し、その後、鉛を産出するようになった。鉄砲玉にするためであった。
 
 明治に入り鉱山は、政府の所有になり、近代化が進められた。栗駒町岩ヶ崎八日町の熊谷善兵衛が関西の清水和兵衛と共に経営にたずさわったが赤字のため破産した。

 1898年(明治31年)高田商會の所有となり「高田鉱山」となった。1928年(昭和3年)共立鉱業(株)に経営が移り「細倉鉱山」と改称され、1934年(昭和9年)に三菱鉱業(株)の経営に移り、1987年(昭和62年)閉山。

 亜鉛精錬所が休止し、細倉精錬(株)として分離独立し、現在は、自動車用バッテリーのリサイクルとして亜鉛を精錬している。また休廃止鉱山・坑道からの鉱害排水処理、川口第一・第二水力発電所、玉山水力発電所の維持管理を細倉鉱業(株)が担って現在に至っている。

 明治23年からの鉱山出鉱量は、約2300万トン(パラジウム1.2%,亜鉛4.12%)である。ここから栗原電鉄時代は、鉱山線で細倉駅へレールは続いていた。



② 旧・細倉駅                    栗原市 旧・鶯沢町
 現在の第3セクター、くりはら田園鉄道(くりでん)の前身であった栗原電気鉄道(栗電)の終点駅が、この細倉駅であった。
  現在は、更に200m先に延伸した「細倉マインパーク前駅」が終着駅であるが、当時は、ここ細倉駅から細倉鉱山へ鉱山線が延びていて、鉛地金を運び出していた。

  電鉄時代は、細倉鉱山からの貨物輸送が旅客収入を上回っていたが、細倉鉱山の閉山に伴い、貨物輸送が激減し、経営を悪化させた。




③ 駅名板                            栗原市 旧・鶯沢町

 細倉駅舎は、現在、民間の会社に払い下げられて、会社社屋として使われているが、ホームや駅名板がそのまま残っている。
 細倉駅の手前は、駒場(Komaba)駅。現在の「鶯沢工業高校前」駅である。
 1914年、駒場から沢辺まで最初に軌道を作ったのが、高田鉱山(細倉鉱山)の高田商會であった。(軌道といっても馬車軌道であり、鉄道と言って良いかは別であるが、)

 そして、現在の仙台から石巻を結ぶJR仙石線の前身である「宮城電気鉄道(株)」(仙台-松島間、大正10年設立)も、この細倉鉱山経営者であった高田商會の高田釜吉であった。 



④ RC製鉱山住宅                         栗原市 旧・鶯沢町

 「鶯沢町の人口は、鉱山最盛期の1955年には13065人とピークを迎え、1995年には3445人まで落ちみ、過疎が急激に進んだ」と書いた。
 当時は、鉱山関係者約1万人の住居が必要だったことになる。当時一家4人家族と計算して、何世帯の住宅が必要だったのだろうか?単純計算して、約2500戸必要になったことになる。
 小さな山合の町に2500戸の住宅をつくるには分散して作る以外になかった。この地区も、かつての鉱山住宅の跡である。手前に空き地となっているところも、かつては木造の長屋住宅が立ち並んでいたところである。



⑤ 旧・鉱山病院玄関                   細倉マインパーク前駅脇

 2004年の秋に、何気なく撮った、旧・鉱山病院の玄関である。ここも、半年過ぎた現在は、更地になっている。
 宮城県の心霊スポットとか言われていたが、窓は、コンパネが打ち付けられて、いつでも診療できるような感じで、荒れてはいなかった。ただ玄関のガラスは破れ、鉄格子の扉だけがついていた。そこから撮影したが、あまり気分の良い建物ではなかった。更地になってみて、やはり記録として全景を撮っておくべきだったとは思うが、場所が場所だけにこの程度でよかったのかもしれない。



 ⑥ 鉱山住宅                               旧・鶯沢町

 私の幼いときの記憶に、細倉鉱山で働く叔父さんの家に遊びに連れて行ってもらった記憶があった。それも、つい最近思い出したことである。
 木造で三軒つながっている家。俗にいう「三軒長屋」に住んでいて、同じような家が並んであって、その前を通っていったことを覚えている。近くに川が流れ、橋が架かっていた。裸電球の明かりが眩しく、賑やかな声が聞こえてきた。そんな記憶だけが残っていた。
 記憶をもとに、職場の友人とともに、鉱山住宅を探したが、見つからなかった。「鉱山資料館」の館長さんに聞いてみた。
 「鉱山住宅は、何カ所もありましたが、ここも鉱山住宅のあった場所です。今は、取り壊されて、町営住宅になったところもあります」「残っているとしたら、そこの交差点を曲がって進むとあります」と航空地図を指しながら教えていただいた。あの懐かしい三軒長屋の模型も展示されていた。



⑦ 佐野地区鉱山住宅                         旧・鶯沢町

 やっとたどり着いた。しかし、「三軒長屋」の家は一軒も見あたらない。近くに川は流れているが、なんとなくこの場所とは違うようだ。
  しかし、ここは、紛れもなく細倉鉱山の鉱山住宅のひとつであり、現在も細倉鉱業の人たちの住居となっているところである。
 かつては、鉱山関係者の家族のために、町に鉱山病院、公衆浴場、小学校など、町全体が鉱山の町として栄えていたが、現在は、過疎の進んだ町になってしまっている。



⑧ 板塀が続く                             旧・鶯沢町  

 板塀が続いている。昭和30年代にタイムスリップしたような町並が残っている。
 しかし、賑やかな声は聞こえてこない。風の音が聞こえてくる。たまに、宅配便の車が来る。何人くらい住んでいるのだろうか?
 この地区は、2軒続きの家である。地区ごとに、玄関の位置などは異なるが、同じ造りの家が並んでいる。白い板に、地区名と番号が書いてある。これも鉱山住宅の特徴である。



⑨  公園跡                             旧・鶯沢町

 空き地のところに、西公園と標柱が立っている。かつては、花見や地区の盆踊りが行われた場所である。
 現在は、この住宅に住んでいる人たちの駐車場として使われている。



⑩  空き家                              旧・鶯沢町

 佐野41号と書いてある。この地区でも、41軒以上の家があることになる。この地区は、川を挟んで、2カ所に住宅が並んでいる。そして、更地になっている場所もあるので、100世帯以上の鉱山関係者が住んでいたことになる。
 こうした空き家だけか続いているかといえば、洗濯物が干してあったり、今も人が住んでいる家もある。
 決して廃墟ではないので、節度を持ちながら撮影をしたい場所である。







⑪ 窓 そして 玄関                        鉱山住宅
 窓にステッカーが貼ってある。かつては、中高生の家族がいたのかもしれない。
 隣との庭も、板塀で仕切られているのは当然だが、玄関から庭にまた板塀が建ててある。玄関に人が立っても、居間からはのぞけないようになっている。ガラスも下側がスリガラス。上が透明なガラスで、プライバシィーにも配慮されているようだ。



⑫ 風呂場の煙突                              鉱山住宅 

 お風呂場の焚き口は、室内にある。耐火レンガで周りが作られている。木造ながら、使う身になっている。
 父親の仕事の関係で、旧国鉄の似たような2軒続きの宿舎に住んだ事があるが、風呂場は、外だったし、庭の仕切の板塀などはなかったし、レンガで作られている所などはなかった。かつての鉱山最盛期の暮らしぶりは、良かったように感じる



⑬ ガラス越しに                              

 このようになっている。引っ越してからのホコリがたまってる。



⑭ 生活するということ                          旧・鶯沢町

生活をするということは、こういうことだ。洗濯物が春の陽を浴びてまぶしかった。



⑮ 橋のある風景                                   旧・鶯沢町

 私の記憶の橋も、こんな橋だったんだろうか?橋の両側に鉱山住宅が並んでいる。橋を挟んで、住宅の造りが変わっている。



⑯ 人が歩く                              旧・鶯沢町

  人が歩いていった。あまりに静かすぎて、人を見つけると、うれしくなってしまう。



⑰ 消火ホース                                  旧・鶯沢町

  これだけ木造の家が並んでいると、火災が一番怖い。消火器ではなく、小路ごとに、消火ホースが設備されている。



⑱ ありがとうございました。                        鉱山住宅
 人が歩いてきた。「こんにちは」というと、「こんにちは、何かしらべているのですか?」と声が帰ってきた。実は、鉱山資料館の館長さんに場所を教えられたこと。私の記憶を話すと、鉱山住宅が残っているのはこの地区だけということ。ここは係職宿舎の場所だったこと。三軒長屋は、町には残っていないこと。鉱山住宅には、空き家と住んでいても単身赴任。奥さんをつれて来ている人はほとんどいない。寮になっているところもある。などを教えていただいた。
 そして、住民から、トイレの水洗化の要望がでているが、建物がふるくなっていて、板塀などに手を入れているが、どうしようもない。それで来年あたりには、取り壊す話もでているとのことだった。
 私が「マインパークよりも、こちらの方に力を入れて残してもらいたいですね」と言うとにっこり笑って「懐かしんでいってくださいね」といわれた。
 また産業遺構が消えてしまう。複雑な心境である。

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