街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

〜「御舟入堀 蒲生御蔵場」

 貞山堀を含む「貞山運河群」を撮りはじめてから、約1年が過ぎた。
 2005年になって『宮城野』を撮っているうちに、貞山堀で舟で運ばれた米は、どこを通って仙台の城下に運ばれたのか?と疑問が湧いてきた。
 
 仙台新港の建設に伴い「貞山堀(御舟入堀)」が姿を変えてきたことは、以前にも触れた。現在は、埋め立てられているために、様子が一変しているが、昭和50年頃の空撮写真には、はっきりと御舟入堀と御舟溜まりが撮っているのだった。

 この七北田川河口の小さな「蒲生」(がもう)地区が、年貢米や塩を仙台城下へ運ぶための重要な米の集積拠点になっていたのであった。


<図-1 1952年(昭和27年)の蒲生 「米軍撮影の空中写真(昭和27年撮影)」


 1952年(昭和27年)米軍が撮影した空撮写真に加筆した。中央を横に横断するのが七北田川(Nanakita-gawa)である。長浜(Nagahama)海岸は、現在よりも幅が広く、七北田川は、海岸に沿って北行して、河口は、この写真には、写っていないが、現在の仙台新港にあったことが当時の地図から読みとれる。

 現在の七北田川下流域は、中世の頃までは、冠川(Kanmuri-gawa)と呼ばれ、宮城野区の岩切(Iwakiri)から、多賀城市を流れる「砂押川(Sunaoshi-gawa)」と合流し、現在の七ヶ浜町「湊浜(Minato-hama)」に河口があったといわれている。下流域は、堤防もなく、洪水の度に、河道が変わっていたという。

 また、現在の河口付近は、かつては、鍋沼(Nabenuma)といわれ、沼を中心とする湿地帯であった。建保元年(1212年)に、八幡氏の所領となった。
 良質の蒲(Gama)が生い茂っていたことから、この頃、蒲生(Gamou)という地名になったといわれている。(蒲の花粉は、「蒲黄」といわれ、外傷の止血剤として利用される)

 1670年(寛文10年)、伊達氏の命を受け、砂押川から切り離し、七北田川の河道付替工事を行い河口が、現在の蒲生(Gamou)になった。


図-2 <江戸時代の町蒲生の図(郷土誌「仙台藩を支えた米の道」より引用)>
 七北田川の河口は、現在の養魚場あたりで海にでていたことがわかる。
 当時、蒲生へ行くには、七北田川沿いに進み、高瀬堀に架かる橋を渡って、集落に入って行った。高瀬堀が、コの字になっているのが「蒲生御蔵」場である。


@ 町蒲生                              宮城野区 蒲生 町
  藩政時代から、変わらず続く道である。この道が、蒲生御蔵場への道であり、仙台藩の「米の道」なのである。
 
 仙台藩は、1670年(寛文10年)、七北田川河道付替、「御舟入堀」、「高瀬堀」、「蒲生御蔵」の竣工に着手した。
 当時の一大プロジェクトのために蒲生に人が集まり始めたのも、この頃といわれている。

 1673年(寛文13年)の完成した頃には、仙北地方から仙台城下への、年貢米・塩などの物資の中継集積地として、集落(邑=Mura)が形成され、南蒲生からの移住者の割合も多くなってきたといわれている。
 
 以後、蒲生は、仙台藩の舟運によって繁栄を続けていくのである。


A 「御舟溜」跡                        宮城野区 蒲生 高松

   埋め立てられている貞山堀(御舟入堀)を北に向かって進んでいくと、西側に宮城県企業局の「立ち入り禁止」の立て看板と、杭で囲まれている空き地を見ることができる。

  東西25間(約45m)、南北15間(27m)の空き地が、「蒲生御蔵場」へ、物資を荷揚げするために開削された「御舟溜」跡である。6尺(約1.8m)の深さがあって、護岸も壊すことなく、そのまま埋め立てられているということである。

 正面の住宅が建っているところが「蒲生御蔵場」跡になる。


B 「御舟溜」 南側境界                    宮城野区 蒲生 町
 御舟入堀と七北田川の合流点に閘門をつくることが、当時は技術的に難しく、貞山堀(御舟入堀)に舟溜りを設けて、一旦荷揚げして、御蔵に入れ、平田舟に積み替えて、高瀬堀から七北田川へ物資を運んだ。


C 「御舟溜」 南側境界に立つ民家と板蔵         宮城野区 蒲生 町

 昭和27年の空撮地図にも写っている、舟溜まりの南の境界脇に、3棟が並んでいる。板蔵の手前にトタンで覆われている建物があるが、茅葺き屋根で土壁である。
  
 蒲生御蔵の米蔵は、昭和初期まで一部が残されていており、現在は、全て取り壊され住宅地になっている。当時を知る人からは、壁は、漆喰塗りであったと言われている。

 また塩蔵は、板蔵であったということである。塩は、現在のものよりも水分が多いために、一時、蔵の中で保管し、自然乾燥後に、また運ぶということをしていたのである。


D 「蒲生御蔵場」跡(後背地から望む)         宮城野区 蒲生二丁目
  蒲生御蔵場の後背地である公園側から撮影してみた。
公園に隣接して住宅が密集している部分が「蒲生御蔵場」の跡地である。
 
 「蒲生御蔵場」について、明治5年の記録によれば「御地面竪65間(118m)、横53間(96m)程、此坪数3045坪の敷地内に御米蔵6棟、御塩蔵4棟、御塩入長屋1棟、御米入長屋1棟、御船抜長屋1棟、御役所2棟(内神1社)」があったと記録されている。(宮城県教育委員会「歴史の道調査報告書」より引用)


図-3 <蒲生御蔵場の図(郷土誌「仙台藩を支えた米の道」より引用)>


E 「蒲生御蔵場」跡                     宮城野区 蒲生 高松

  舟溜まりを背にして、蒲生御蔵場跡を、消防団の屯所の2階階段上から正面付近を撮してみた。

 御蔵場跡の中に、はいるのには、どうやら、店舗の脇の左・右の小路を進む以外にないようである。


F 「蒲生御蔵場」跡                     宮城野区 蒲生 北荒田
  小路を進むと、真ん中がポッカリ空いた空間に出る。畑地になっているが、周りには、住宅が建っている。

 御蔵場内の掘り割り跡が畑になっているような感じである。


G 「蒲生御蔵」跡 土台石?            宮城野区 蒲生 北荒田

  蒲生御蔵場の内部は・・住宅地になっていた。蔵のかけらもない・・・・と思って、周辺を見ると、新築した民家の脇の部分に、コンクリート片に混じって、不自然な石材が露出していた。
 
 小路に面して、一直線にならんでいる。野蒜石もあるし、すり減って地面に埋まっている石もあるし、黒っぽい安山岩のような石も転がっている。

 おそらく、このお宅の下水管を埋設するときに掘り起こされたものと思われるが、位置的には、掘割りの北側に建っていた蔵の基礎石である可能性があると思われる。


H 「蒲生御蔵場」跡 瓦破片             宮城野区 蒲生 北荒田

  そして、さらに小路を進んでいくと、壊れた瓦まとめて置いてあった。

 近年の白っぽい瓦に混じって、少し大きめの巴瓦もある。一般的な屋根瓦よりも大きいのである。
 
 蔵の瓦だろうか?などと考えると、楽しいくもあるが、残った御蔵が戦後取り壊されてから数十年。小路のブラ撮りの一コマとしておいたほうが良さそうである。


I 高瀬堀跡を探す                     宮城野区・蒲生 北荒田

 蒲生御蔵場の中にあった掘割りから、平田舟に積み替えられて、七北田川に出るまでの高瀬堀跡は、どうなっているのだろうか?

 御蔵場内にあった掘割りの跡は、住宅前の畑となっている部分かと思うが、はっきりとした形跡は残っていない。あの基礎石らしい石材を見つけただけである。
 
 さらに、御蔵場後方から荒田地区を通って、七北川へ向かう堀の形跡も全くない。ただ、写真正面の細い道は、後述する「宮城木道社」の路線跡である。


J 高瀬堀右岸跡                      宮城野区 蒲生 念仏田
 唯一、高瀬堀の跡がわかるのは、七北田川との合流点付近現在の中野小学校の職員駐車場の東側の窪地である。

 正面が七北田川の土手であるが、以前は、ここに橋が架けられて、堤防の下を高瀬堀が流れていた。

 写真左側は、民家になっているが、高瀬堀が埋め立てられた跡に、建てられていることになる。


 K 高瀬堀と七北田川の合流点          宮城野区・中野小学校付近

 高瀬堀から平田舟に積まれた年貢米は、護岸の補強がされているあたりから七北田川に合流していた。
 
 ここから、約3キロ七北田川を遡ると、現在の梅田川との合流点に出る。そこが、「鶴巻舟溜」跡である。


L 宮城木道社 路線跡                  宮城野区 蒲生 高松

  しかし、仙台藩の米の舟運による蒲生の繁栄も幕末までであった。

 明治になって廃藩置県によって、「蒲生」「鶴巻」「苦竹」の各御蔵場が不要になり、鶴巻から苦竹までの「御舟曳堀」も使用不能となった。そのために、舟運は一時衰退する


 1875年(明治8年)、蒲生には、御舟入堀と舟溜まりがあったので、「荷物請負問屋」が開設され、舟運と蒲生御蔵をつかい、蒲生から仙台まで、馬または荷馬車等により、砂糖・塩・ニシン等の運搬が行われた。


 1882年(明治15年)2月になると、蒲生御蔵前より、現在の仙台駅東口まで、宮城木道社による木道(木製のレール)が敷かれ、馬に小型の貨車をつけて曳かせて、物資を仙台に運んだ。
 蒲生に活気と繁栄が再び戻ってきた。高松地区には、遊郭が数件あり賑わったという。

 舟溜まり跡を背にして、木道社の路線跡が、正面店舗の右側の自販機脇の小路である。

図-3<宮城木道社 蒲生付近(郷土誌「仙台藩を支えた米の道」より引用)>

M 旧七ヶ浜街道                     宮城野区 蒲生 中野高松
 明治20年日本鉄道が上野より塩釜まで開通するに及んで、木道の存在価値もなくなり、蒲生を経由する物資は全く絶えた。それでも若干の物資の中継地として、2社程の運送業者「荷物請負問屋」が大正まで営業を続けていた。

 明治維新後、町蒲生の人達は半農半漁の生活となったが、これは七北田川の河口が浅く、小舟による沿岸漁業程度で、その後は殆ど漁業に携わる人は少なくなった。

 農業にしても東は海、南は七北田川で耕地が少なかったため、西の中野や南蒲生などで若干の田畑を作るだけで、蒲生に住む多くの人々は塩釜や仙台へ働く場所を求めた。 

 近年は、仙台新港後背地の住宅地として団地化が進み、わずかに残っている昔の町並みも新興住宅地にのみこまれようとしている。

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