街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

〜「御舟曳堀 鶴巻界隈」

 蒲生御蔵に入った年貢米や塩などの物資は、平田舟につみかえられ、高瀬堀を進み、七北田川に出る。
 七北田川を3キロさかのぼると、梅田川との合流点にでる。現在の宮城野区・鶴巻1丁目、七北田川の「鶴巻舟溜まり」に入る。

 そこから、荷揚げされ、「鶴巻御蔵」に運ばれる。
鶴巻御蔵場から、また平田舟に積み替えられ、人が舟を引っ張って進む「御舟曳堀」を進んで、苦竹舟溜まりに入る。荷揚げされ「苦竹御蔵」に入る。ここまでが、舟運であった。

 苦竹御蔵からは、陸路で「原町御蔵」へ入り、仙台城下に入るというのが、仙台藩の米の道であった。


@ 高瀬堀と七北田川の合流点から鶴巻方面を望む    中野小学校付近

 蒲生御蔵から、平田舟に積み替えられた米・塩などの物資は、高瀬堀から、このあたりで、七北田川にでる。
 
 ここから、約3キロ七北田川を遡ると、現在の梅田川との合流点に出る。そこが、七北田川「鶴巻舟溜」跡である。

 
A 七北田川 鶴巻舟溜跡  付近              宮城野区 鶴巻


 三陸自動車道と産業道路の2本の橋が見える。

鶴巻(Turumaki)の地名の由来は、古来から野鳥が多く、鶴が常に空を舞い、仙台藩の初期の頃から「お狩場」となっていたところであり、藩主が毎年、鶴狩りをすることから鶴巻となったと言われている。


B 梅田川より見た七北田川との合流点            宮城野区 鶴巻

 橋の見える方が、七北田川の下流、蒲生方向である。
現在は、梅田川に堤防が築かれているが、藩政時代は、堤防の存在はなかった。

 仙台藩の儒臣・田辺希文が、5代藩主・伊達吉村の名を受けて編纂した1772年に完成した『封内風土記』によれば、七北田川に舟溜まりを設け、更に、一段上の東端にも舟曳堀の広い舟溜まりをつくったと記録されている。

 現在は、ここに七北田川の舟溜まりがあったという形跡は、まったく残っていない。河川敷のヨシ原を、ただ風が吹いているだけであった。


C 鶴巻公園                         宮城野区 鶴巻


 鶴巻小学校裏手に、鶴巻公園がある。かつては御蔵前と呼ばれたが、現在は、鶴巻1丁目となっている。1928年(昭和3年)の地図によれば、この辺も水田が広がっているだけであった。


D 鶴巻1丁目界隈                          宮城野区・鶴巻

  現在の鶴巻1丁目である。1975年(昭和50年)以前は、一面の田畑とイグネに囲まれた大きな農家がポツポツと点在していたところであったが、現在は、住宅地となっている。
 
 鶴巻地区が、急速な住宅地となった背景には、1976年(昭和51年)の仙台新港と国道4号バイバスを結ぶ、「産業道路」の開通と区画整理事業が行われてからである。 


E 鶴巻1丁目界隈                          宮城野区・鶴巻

 鶴巻御蔵跡を探すべく、鶴巻界隈を歩いて見た。
小路を進んでいくと瓦葺き置き屋根の立派な板蔵が目に入った。
 置き屋根は、このように、屋根を被せたような形で、鶴巻御蔵場の米蔵も漆喰壁に、このような屋根がつくられていたと想像できる。
 
 蔵の出入り口は、北側に面しており、南側には通気の開口部に庇(ひさし)がついて、彫刻された持ち送り(支柱)がついている。

 このお宅の蔵も、現在は、米蔵として使われてはいないようである。


F 掘っ建て式土台                          宮城野区・鶴巻

 蔵の土台は、どうなっているのだろうか?
 地面から基礎石が数段積まれて、その上に土台が乗っているかと思っていたが、基礎石は、地面より、上にわずかに見えているだけであった。

 こうした蔵が、取り壊された場合は、どうなるのか?地表よりわずかに出ている基礎石が残るのではないか。
 全くの更地にする場合は、基礎石も掘り起こさなければならないと思うが、その必要性がなければ、基礎石は地面に埋まったままではないかと考えた。

 というのも、蒲生御蔵場での地面から出ていた石材が気になっていたからである。


<図-1 御舟曳堀跡付近の地図(1928年(昭和3年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(仙台東北部)を使用しました。


<図-2 七北田川・梅田川合流点(鶴巻)付近の御舟曳堀跡
(1928年(昭和3年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(仙台東北部)を使用しました。

 地図上の郵便局の記号の上の太い道路が、現在の国道45線である(現在は、片側2車線で、これより太い)。

 45号線をそのまま、西側(左)へたどると、細い水路が国道に沿うように見える。これが御舟曳堀である。そして、梅田川に沿って南下すると、途切れてしまう。1928年(昭和3年)には、すでに埋め立てられていたのだった。
 
 残念ながら、鶴巻御蔵場も舟曳堀の舟溜の位置を正確にトレースすることは困難であった。
 しかし、土圍から、梅田川に沿って堀が、南側の神社脇の集落付近までは続いていたことは、容易に推察できる。
 舟溜まりは、どこにあったのだろうか? 


G 現在の梅田川堤防(鶴巻1丁目付近)          宮城野区・鶴巻

 『封内風土記』にある「一段上に・・舟溜まりをつくった」という記載がある。
 このあたりに舟曳き堀の舟溜まりがあったようだ。

 現在の堤防を見てしまうと、舟曳き堀が、川の水位よりも高い位置にあったと考えてしまいそうだが、よくよく考えると、そうではないことに気づく。
 
 御舟曳堀は、両端にプールを設けて、2つのブールの間を堀で結んだと考えてもらえば良いのである。そのプールが、「鶴巻舟溜」と「苦竹舟溜」である。プールを結ぶ堀が、延長5Km、幅3.4m、深さ1.5mの「御舟曳堀」なのである。

  苦竹御蔵場までの途中には、別の堀と直交する箇所もあるが、伏越(Fusekoshi)というインバートサイフォン(U字管)の原理を使って別の堀を交差させていたことがわかる。

 現在の鶴巻1丁目付近の梅田川の堤防下には、御舟曳堀が埋め立てられているということである。昭和3年には堤防が記載されており、その後、何度か、かさ上げされて現在の堤防になったという話である。


<図-3  梅田川と舟曳堀のイメージ図(実際は、こんな単純ではない)>


 梅田川の合流点は、七北田川の干満の影響を受けて、水位の変動がある。
 舟曳堀の舟溜まり(プール)への注水は、潜穴が利用されていたと思われる。現代のように、揚水機で、ボンプアップすることができなかった時代の土木工事であるが、宮城県内の水利施設として多く現存している。穴にゲートを付けておけば堀の水位は保たれる。
 堀の修繕等で、排水する必要がある場合は、干潮時に川の水位が下がったときに、潜穴のゲートを開ければ排水される。
 
 郷土誌の中に、梅田川を「落とし堀」と呼んだという記述があるが、別の郷土誌には、「舟曳堀は、空堀だった」とある。落とし堀=空堀=舟曳堀は空堀だったという記憶違いが生まれたのはこのあたりからだと思われる。


H 鶴巻御蔵場跡                           宮城野区・鶴巻

 やっと探し当てた、鶴巻御蔵場跡である。

 前述の『封内風土記』によれば、鶴巻御蔵場には、御米蔵3棟、御塩蔵1棟が建てられ、蒲生御蔵と苦竹御蔵の中継地となったことが記録されている。


I 鶴巻御蔵場跡に残る塩蔵                     宮城野区・鶴巻

 現存するこの板蔵は、かつての塩蔵であり、宮城県沖地震で、瓦が落ちてから、トタン張りになったと言うことである。瓦には、伊達家の家紋(竹に雀ではなく、九曜紋と思われる)が、ついていたと言われている。

 蔵の出入り口は、西向きにあり、通気窓が東側に開いている。北側には開口部はない。

J 塩蔵北面                               宮城野区・鶴巻

 鶴巻御蔵場は、蒲生御蔵場と比べても、史料からも規模が小さかったことがわかる。鶴巻御蔵場の重要性は、御舟曳堀と舟溜まりである。
 仙台藩は、御舟曳堀の管理のために、福田町に直参足軽を住まわせたことからも伺える。
 鶴巻御蔵が、塩蔵以外残っていないのは、年代は不詳であるが、火災により焼失したと言われている。そのことは、梅田川河川改修工事で、焼けた材木が出土したことで焼失の史実と一致する。


K 梅田川堤防から福田町方面を望む               宮城野区・鶴巻

 鶴巻御蔵跡から、現在の45号線へ直交するまでの直線区間である。

 この堤防の下が、かつての舟溜まりや御舟曳堀である。明治になって廃藩置県と共に、御舟曳堀も無用の長物となり、鶴巻付近は、昭和3年には、舟溜も堤防下になっている。

 しかし、福田町から苦竹までの現国道45線沿いにあった舟曳堀跡は戦後まで残り、国道45号線の拡幅で完全に消滅したのである。


<図-4  宮城郡国分苦竹村絵図<郷土誌「仙台藩を支えた米の道より引用」>


<図-5  苦竹舟溜まり跡(1928年(昭和3年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(仙台東北部)を使用しました。
 鶴巻舟溜まりの反対側のプールにあたる、苦竹御蔵跡はどうなったのか?
 昭和3年には、舟溜まりは、埋め立てられているが、油差しを横にしたような形の舟溜まりの跡が、残っているのがわかる。


K 御舟曳堀跡 終端部を望む(国道45号線下り車線から)  宮城野区・苦竹


 右側は、陸上自衛隊東北方面隊の敷地である。フェンスへ近づいて撮影するのは、簡単であるが、時節柄、警務隊のお世話になるわけにはいかないので、車の助士側から撮影した。
 この国道45線の上り車線が御舟曳き堀の跡である。舟曳き堀は、この茂みに沿った形で、南側に曲がって現在の自衛隊敷地へ入っていった。


M 苦竹御蔵場と苦竹舟溜まり跡・現国道45号線      宮城野区・苦竹

 鶴巻御蔵から、御舟曳堀の曳舟で運ばれた米や塩などの物資は、、米蔵5、塩蔵2、雑穀蔵3、鉄蔵1、計11棟の蔵があった苦竹御蔵場へ運ばれた。

 苦竹御蔵から、原町御蔵へは、牛車を使って陸上輸送がされた。現在の国道45号線を原ノ町まで通り、現在の旧道・原ノ町本通りを通って原ノ町御蔵へ入っていった。

 現在の国道45号線、そして、左側の商業地が、苦竹御蔵場跡である。かろうじて、昭和初期の地図で判明するものの、住宅や事業所の敷地内であり、形跡を見いだすことは困難である。
 
 御曳舟堀という米の道は、戦後、国道45線に引き継がれ、堀跡は水田に変わり、近年、商業地や住宅地に変わった。
 何気なく通っている幹線道路も、仙台藩の歴史が埋もれていたのだった。説明をつけなければ何の変哲もない写真になってしまったことをお詫びし、御舟曳堀のまとめと致します。

 << 蒲生御蔵場へ戻る 目次に戻る
 
 TOPへ戻る 
苦竹界隈「原町御米蔵」へ >>