街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻

4.宮城野と世々の心より~「宮城野原界隈」~

 前章では、天平時代の宮城野の中心的な史跡である「陸奥国分寺」について書いてみた、

 司馬さんは、「宮城野と世々の心」の中で、芭蕉、能因法師、橘為仲の都人の想いにふれている。律令期に、都から陸奥国府・多賀城へ至る官営の古道・東山道があった。その道は、後の、東街道とほぼ一致すると言われている。萩が咲き乱れ、鈴虫の声が聞こえ、都人が憧れた宮城野への道。白河からこの宮城野を通り、多賀城、塩釜、松島、石巻、そして遠く平泉以北まで東街道が続いていた。奈良時代から、人々が行き来していたところでもあった。

 途中、病で命を落とす人もいたようで、原野の道の傍らに葬られた人もあったということである。そういう土地柄もあり、ホラー映画なみの話も伝えられている。
 
 陸奥国分寺のある「木ノ下」付近は、宮城野の歌枕の地で、宮城野の萩」が、はじめて登場するのが905年(延喜5年)の勅撰和歌集である古今和歌集の「宮城野の本荒の小萩露をおもみ 風をまつごと君をこそ待て」の句である。

 街道が整備されてくるとともに、多くの歌人に宮城野の萩が詠まれてくるようになる。たとえば1086年(応徳3年)完成した「後拾遺和歌集」には藤原長能の「みやぎ野に つまとふ鹿ぞ さけぶなる 本荒のはぎに つゆやさむけき」とあり、1105年(長治2年)「堀川百首」には「みやぎのの あきのはぎはら 上ばのつゆに 袖ぞぬれぬる」と詠んでいる。

 1350年(観応)の頃には、、宗久が「都の苞(つと)」で「宮城野の萩の名に立つ本荒の里はいつより荒れ始めけん・・草堂一宇より外はみえず」と書き記している。

 藩政期になると宮城野の原野は「生巣原」(ikesuhara)と呼ばれるようになり、仙台藩は、禁野とし野守をおいて「宮城野の萩」を保護している。また姫君たちが、鈴虫の音を楽しんだようすが、「奥州名所図会」にも描かれている。

 「奥州名所図会」の著者大場雄淵は「宮城郡の内国分南目村の地にして、仙府の郊外山つつじがおかの正東なる曠野をいふ。秋来千草ひらけて錦をなす。萩花の目にあまり、虫声の耳をよろこばしむるはもとより、この地の名勝たる所にして、みじかき筆に書きつくすべくもあらず」と書き記している。
                                      (14.May.2006) (15.May2006部分修正



① 心字の池から準胝観音堂を望む                       若林区・木ノ下

 陸奥国分寺寺域内の西側に、現在は、水がなく窪地になっている心字の池の名残がある。池の畔に準胝観音堂が建ち、その周辺に、句碑、石碑、石仏等が建っている。

 仙台領内における名所旧跡などをまとめたものに、1829年(文政12年)以前に書かれたとされている「奥州名所図会」(自筆稿本)がある。作者は仙台大崎八幡宮の神官、大場雄渕(Ooba Obuchi)である。

 当時の名所等を墨絵で描き、丁寧な説明を加えて、膨大な量の情報を網羅しており、江戸時代における仙台の特性を伝える上で重要な史料となっている。


             
      芭蕉碑                      大淀三千風供養碑

☆ 芭蕉碑                                      若林区・木ノ下

 『あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒』 芭蕉が奥の細道の旅の途中、1689年(元禄2年)5月5日から7日までの3日間、仙台に滞在した。この句は、その時芭蕉を案内し、翌8日、離仙の朝、草鞋(Waraji)二足など餞別を贈った仙台の俳人・北野加之(Kashi)(加右衛門)への感謝の気持ちを詠じたものである。

 しかし、芭蕉が訪れたこの季節、萩が咲く季節には早過ぎ、萩の葉を見つけてよろこび「宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるる」と奥の細道に書いている。

 この句碑は、駿河(Suruga)の俳人・山南官鼠(Kanso)が1782年(天明2年)来仙の折に建立したもので、裏面に官鼠の句「暮れかねて鴉(Karasu)啼くなり冬木立」が刻まれている。


☆ 大淀三千風供養碑                               若林区・木ノ下
 大淀三千風(1637~1707)は、伊勢国(現在の三重県)の俳人で、1699年(寛文9年)から1686年(天和3年)までと1686年(貞享3年)から1687年(同4年)までの前後合わせて15年間仙台に滞在して、談林風(だんりんふう)俳諧を指導し、「松風眺望集」などを著して松島を全国に紹介した。
 この供養碑は、1722年(享保7年)万水堂朱角が師の三千風の供養のために建てたもので、朱角の句「名の風や水想観の花かほる」が刻まれており、仙台の俳句史上貴重な史料となっている。

 古くは、古今集により、都人に強い憧れを抱かせた「宮城野の萩」そして、
芭蕉に、松島・石巻への旅を誘ったのが
大淀三千風の「松風眺望集」なのである。



② 望月宋屋句碑                     若林区・木ノ下

 「極楽や 人のねがひの 花の影 京都 富鈴房 」と彫られている。宋屋は、京都の俳人で、1745年(延享2年)仙台に数日滞在したときに建立されたものである。



③ 県道・清水小路多賀城線 西方向を見る                    若林区・白萩町

 陸奥国分尼寺は、陸奥国分寺と同じく、聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立され尼寺で、陸奥国分寺の東、約600mに位置している。

 左側に白っぽく塀が続いているのが現代の「曹洞宗・陸奥国分尼寺」の塀で、右の道路が県道・清水小路多賀城線である。前方の空き地になっているところに刈り込まれた木が見えるが、天平時代に建立された陸奥国分尼寺・金堂跡である。

 そして、この県道の右側が、「奥州名所図会」で大場雄渕が、「いま『宗久紀行』によると、尼寺の畔より北、宮城野の原につづける所をこの郷とす」と記している「本荒の郷」なのである。



④ 陸奥国分尼寺 金堂跡                         若林区 白萩町

 史跡の前方は、新寺小路から仙台パイパスに抜ける県道・清水小路多賀城線になっている。後方は、現代の「陸奥国分尼寺」であり、金堂跡の両脇には、住宅が並んでいたが、現在は、公有化されて更地になっている。

 大がかりに発掘された陸奥国分寺に対して、尼寺として造営された「陸奥国分尼寺」の発掘調査は、市街化が著しく、古くから「観音塚」と呼ばれて礎石が残っていたこの土壇を1964年(昭和39年)に調査した結果、版築された基壇上に建てられた東西5間(9.85m)、南北4間(8.48m)の金堂跡であることが判明した。



⑤ 陸奥国分尼寺 基壇上礎石                         若林区 白萩町
 基壇内には、金箔の入った土師器の菱が鎮壇のため埋納されていた。出土した瓦は、国分寺の創建瓦と同種の布目瓦であり、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。

 私の撮し方にもよるが、ここが陸奥国分尼寺の金堂跡といわれなければ、児童公園よりも小さく、単なる空き地ぐらいにしか見えないのである。

 また2001年(平成13年)年9月の県道拡幅のための緊急調査では、県道の北側に、2回以上の建替えある桁行14 間以上(総長42m 以上)×梁行2間(6.4m)の掘立柱建物跡の一部を発見し、規模・位置から尼房の遺構と見られている。



⑥ 現代の陸奥国分尼寺と和賀忠親の墓                   若林区 白萩町

 天平時代の陸奥国分尼寺の想定寺域に建っている曹洞宗の陸奥国分尼寺であるが、和賀一揆で挙兵した和賀忠親終焉の地が、陸奥国分尼寺である。

 1590年(天正18年)豊臣秀吉は小田原の陣の後、小田原に参陣しなかった奥州の諸大名をことごとく処罰、所領を没収する「奥州仕置」があった。
 これによって和賀双子の領主・和賀義治も城落ちをして秋田仙北に潜居した。

 1600年(慶長5年)、義治の二男和賀主馬忠親は、伊達政宗を頼り、先祖の故地、和賀に立ち帰り南部藩へ挙兵したのが「和賀一揆」であるが、これは伊達政宗が扇動したと言われている。

 南部藩主は、徳川家康に訴え、家康は和賀忠親を喚問することになったが、真相の露見を恐れた政宗は、1601年、一族の主従計八名を陸奥国分尼寺に呼び出し、自刃をさせたとも、殺害したとも言われている。
 和賀忠親が死亡したことにより、政宗の責任は問われなかったが、関ヶ原の戦いの前に授けられた「百万石のお墨付き」は反故にされた。

 自刃とも、斬られたとも言われている場所が、陸奥国分尼寺のこの場所で、伊達政宗の光と影を見せつけられる場所である。



⑦ 現代の「本荒の郷」                         宮城野区・宮千代1丁目

 現代の本荒の郷・・宮千代地区である。左側のフェンスのある水路が「七郷堀」から分水されている「高砂堀」である。現在は護岸も整備されているが、昭和初期には、護岸も今ほど高くはなく、騎兵隊の軍馬に水を飲ませたり洗ったりしていた堀であった。

 「七郷堀」は、藩政時代に、農業用排水、防災用水、生活用水として、堀削された幹線水路のひとつで、現在は、広瀬川の愛宕堰から「六郷堀」と共に分水されている。

 「七郷堀」は、現在の若林区役所前で、北へ向かう「高砂堀」と七郷へ流れる「仙台堀」に分かれ呼び名が変わる。

 この「高砂堀」は、一本杉町で暗渠となり、白萩町の陸奥国分寺付近で地上に現れて、東北貨物線に沿って宮千代地区、卸町東地区、東部田園地帯を流れ、赤沼地区、最後は貞山堀に合流する都市型水路になっている。



⑧ 町名の由来                              宮城野区・宮千代1丁目

 昔、松島寺(現在の瑞巌寺)の高僧・見仏上人に仕えた宮千代といふ、才気勝れた稚児があった。幼い頃から秀才の誉れ高く、歌をよくし、折々は京都に歌を上せて、大宮人の賞賛するところとなっていた。
 
 宮千代は、かねがね京に上って、歌の修行をしたいと念願していたが、遂に上洛を企て松島をぬけて、宮城野原にさしかかった。

 おりからの月明りに一面の草原は露の玉が宝石のようにきらめいて詩情を誘った。宮千代は思わず「月は露つゆは草葉に宿かりて」と詠んだが、どうしても下の句がつづかない。苦吟を重ねるうちに、病にかかり、里人に引き取られたが、看護の甲斐もなく空しく悶死してしまった。

 里人は哀れに思い懇ろに葬り塚を築いてやったが、その亡霊が夜な夜なあらわれ、「月は露つゆは草葉に宿かりて」と口ずさんだ。この噂を聞いた見仏上人がある夜、宮城野原にきて、塚のほとりを通ると果たして月は露という声がしたので「それこそそれよ宮城野の原」と下の句を手向けてやったところ亡霊も出なくなり歌の声も止んだと伝えられている。と説明板に記されている。

 現在の瑞巌寺が、松島寺と言われていたのは、瑞巌寺「天台記」によれば「青龍山延福寺」と言われていた創建時の828年(天長5年)から北条時頼に滅ぼされた頃と伝えらている。当時の宮城野は、芭蕉が旅をした頃ほど街道は整備されていない頃であり、こうした伝説が生まれても不思議ではない。

 宮千代という町名は、このように亡霊伝説から生まれたものである。


⑨ 宮千代之碑                             宮城野区・宮千代1丁目
           
     宮千代の墓                    戸津利源太藤原貴弘之墓

☆ 宮千代の墓                         宮城野区 宮千代児童公園

 現在の宮千代児童公園内に建っている宮千代の墓であり、碑文には「月は露つゆは草葉に宿かりて それこそそれよ宮城野の原」裏面に「昔、松を印となせと絶しかは、こたび石をもて之にかふ 明治二十六年十二月」と記されている。

 1999年(平成11年)児童公園が整備され、以前の場所から10mくらい移動して、現在の場所に祀られている。説明板も2004年に訪れたときは、部分的に詠みにくくなったが、2005年11月に新たに建て替えられている。

☆ 戸津利源太藤原貴弘之墓                 宮城野区 宮千代児童公園
 戸津家は、代々馬術をもって伊達家に使え、屋敷は、北三番丁新坂通り西北角にあり、土地を南目村原町に持っていた。
 1784年(天明4年)は「餓死の年」といわれ、飢饉のために仙台藩領は荒廃し、南目村の新屋敷も同じく荒廃した。このことを憂いだ利源太は、1810年(文化7年)新屋敷地域の農地復興のために、百姓と共に入植し成功させた。その功績をたたえて新屋敷の21名の人々によって1863年(嘉永6年)にこの碑(墓)が建てられたものである。

 藩政期の仙台三大飢饉は、宝暦、天保、天明と言われ、この飢饉により、農民たちの間では堕胎・間引などの嬰児殺しが頻繁に行われるようになり「四十二歳の時に出来た子は親に仇をなして祟る」という俗説や、双子以上の子を産んだ母親を「畜生腹」と呼んで罵る風潮さえ出てきた。
 困窮を極める農民たちが、自らの生活を守るためにやむを得ずにとった手段であった。それでも、生きているならまだいい方で、餓死者は30万人ともいわれている。

 こうした子供の養育放棄や農村部からの労働人口の流出は、それから間もなく藩の生産力の衰退という形になって表れ、経済基盤を米に頼っていた仙台藩にとって、作付面積の減少は藩の存亡にもかかわる重大な問題となってきた。




⑩ 鈴虫壇                             宮城野区 南宮城野公園

 仙台城あるいは一本杉にあった「お仮屋」から、姫君達が行列をつくって鈴虫の声を聴きに来たと言われ、その場所が「鈴虫壇」と呼ばれている。
 宮城野原の東にあり、原を見渡すところに、三間四方の土壇があり、その上にゴザ、緋もうせんを敷いて、紫のまん幕を張り、姫君達は、お野がけ弁当に舌つづみをうち、野だてのお茶を楽しんだといわれている。土壇を「鈴虫壇」といい、ここまでの道を「鈴虫道」あるいは「お姫様街道」と呼ばれたといわれている。

 その鈴虫壇が、前方のアパート「鈴虫荘」を中心として、この南宮城野公園(汽車ぽっぽ公園)の半分と周辺の住宅数10軒と言われている。
 土壇は、写真にある「昭和紙工」のあたりに、あったと言われている。



⑪ 国立病院側から見た運動公園                 宮城野区 宮城野2丁目

 JR宮城野原駅を降りて、国立病院(国立病院機構仙台医療センター)の向かい側から、周囲5Kmが旧・練兵場であった。練兵場に飛行機が離着陸していたのが大正2年から昭和6年頃までのことであった。
 
 戦後、陸上競技場、野球場、等の総合運動公園となるが、かろうじて原っぱ的、景観が残っているの所を探してのがこの場所である。

 宮城野は、終戦頃までは、練兵場があったために、原野の姿をとどめていた。戦後、造兵廠の武器のスクラップを大穴を掘って埋めたところも運動公園内だということである。



⑫ 「宮城野をみつづけた店」                       宮城野区・西宮城野

  JR榴ヶ岡駅からフルスタ宮城へ行く近道であり、木ノ下方面へいくために良く通った道である。
 正面に、「つきみや」さんという「うどん店」があり、直角の道を左に曲がると、すぐ先にT字路があり、右折すると榴ヶ岡駅へ向かっていく道となる。

 この道が、旧・騎兵第二連隊の東辺なのである。うどん店の前が北辺の道で西進して、新寺小路まで出て南進、新寺小路を突き抜けて、東華中学校の校庭に沿って東進し、JRの高層アパート前の道路を、直角に曲がって北進しこの道へ戻ってくる。道路で囲まれた地域が、当時の騎兵隊の跡地である。

 「つきみや」さんは、創業が1886年(明治19年)で、戦前・戦中・戦後の宮城野を見てきたお店で、食堂をはじめ、文房具、化粧品の量り売り、酒、タバコ、手拭い、ほうき、軍隊用品、入除隊のバッチ、銃をみがく布等を扱ってきたが、現在は、うどん店を営んでいる。

 「出征は、夜中で、小旗を降って見送り、遺骨になって帰ってくるときも夜中だった。その時の靴音が今でも聞こえてきます」と地元誌へ寄稿されています。



⑬ 騎兵第二連隊跡地                     宮城野区・西宮城野


 つきみやさんを背にして南側を見ている。前方の高層アパート手前まで、軍の敷地だった。1889年(明冶22年)、東街道を東西に分断するように置かれた山砲隊営は、軍縮により新潟県高田市に移転し、1925年(大正14年)、二の丸跡の川内(Kawauchi)から宮城野に移転、1940年(昭和15年)に、捜索連隊と改称され、騎兵中隊のほかに自動車軽装甲車隊が加わった。
 
 戦後、跡地の北側は、民有地となり、南側は、現在の東華中学校になった。1965年(昭和40年)頃は、敷地境界にカラタチの生け垣が残っていたが、軍で植えたものだということである。



⑭ 東街道脇に建つ騎兵・捜索第二連隊跡碑        宮城野区・西宮城野


 騎兵第二連隊の衛門が、東街道の両側にあった。この東街道も、連隊の敷地内であったが、現在では、そのことを知る人も少なくなってきている。

 「東街道」は、白河から多賀城の陸奥国府までの道であったが、この古道の名残が仙台市の中にいくつか残っている。そのひとつが若林区・木ノ下の「陸奥国分寺」を通り、宮城野原をぬけていくこの道である。

 通りの向かい側の工事用フェンスで囲われているのが、かつての仙台中央市場の2階建てのビルであったが、取り壊されて現在は、マンション工事が行われている。



⑮ 旧・仙台中央卸売市場跡                 宮城野区・宮城野2丁目


 右の道が、東街道から南側部分の騎兵第二連隊の東辺境界である。東華中学校の脇の道となる。南辺は、高層アパートの手前で右へ折れていく広大な敷地だった。

 「フルキャストスタジアム宮城」の西隣の駐車場となっているところが、仙台市の戦災復興事業で新設された旧・仙台中央卸売市場跡である。

 仙台の生鮮食品市場の歴史は、仙台開府から始まり、鮮魚海産物市場として「肴町」、青果物市場として「河原町」が以後300年にわたり市民の台所としての役割を果たしてきた。

 戦中・戦後の統制・配給の時代には、移転・統合を繰り返してきたが、人口増加とともに、流通量が拡大し、1947年(昭和22年)仙台駅の旅客と貨物の分離が打ち出され、宮城野原練兵場跡地に生鮮市場の新設が決定した。

 1960年(昭和35年)、長町-東仙台間に新たに、現・宮城野貨物線が新設され、翌1961年(昭和36年)仙台貨物駅(現・宮城野貨物駅)が誕生した。貨物駅から市場まで引き込み線を敷いて、水産・青果・花き部が一体となった仙台中央卸売市場が誕生する。

 しかし、1965年(昭和40年)頃になると、取り扱い量は1.5倍となり、荷車・リアカーは消えて、場内の車の駐車場の問題などから手狭になり、1985年(昭和62年)現在の卸町に移転以来、市民の台所を支えている。


 2005年の「フルキャストスタジアム宮城」第一期工事終了      宮城野区・宮城野2丁目

⑯ 2006年の「フルキャストスタジアム宮城」第二期工事終了     宮城野区・宮城野2丁目
 旧・練兵場の跡地に、1950年(昭和25年)野球場が設置され、順に、陸上競技場、サブトラック、自転車競技場、相撲場、硬式テニス場が設置され、1952年(昭和27年)総合的な運動施設になり、第7回国体のメイン会場になった。

 1959年(昭和34年)県立都市公園条例の施行に伴い「宮城野原公園総合運動場」と名称変更された。1990年(平成2年)には、インターハイの主会場として陸上競技場の本格的な改修が行われた。

 宮城球場は、1973年~1977年ロッテオリオンズの実質的なホームグランドになり、25~40試合が行われたがロッテの移転、老朽化のためにその後、プロ野球は年間10回程度行われる程度となった。施設の老朽化が著しく、プロ野球公式戦の開催数は大幅に減少した。改修や移転新築などが議論に上がるものの、県の財政難や都市公園法の問題がネックとなり、改善策について、2004年秋まで具体的な策を打ち出すに至らなかったが、日本野球機構に、ライフドア、楽天が加盟申請し、仙台を本拠地にすることにより、大規模改修に目処が付いた。

 東北楽天コ゜ールデンイーグルスの本拠地に決定してから、2005年(平成17年)3月に第一期工事が完成。シーズンオフと同時に第二期工事が始まり、2006年3月完成、現在の姿になった。


国鉄仙石線 旧・宮城野原駅(1982年(昭和57年9月)陸電会誌より引用   五輪1丁目
旧・宮城野原駅跡(2005年(平成17年)4月)            宮城野区・五輪1丁目

⑰ 2006年 JR仙石線宮城野原駅                 宮城野区・宮城野1丁目
 宮城電鉄・宮城野原駅として1922年(大正11年)1.1開業した駅で、国鉄に買収されJRになってからも沿線の育英学園の生徒達で、通学時間は、混雑を極めた。特に、宮城野原総合運動公園で行われた中体連・高体連の季節は、県内から電車利用の不慣れな生徒が集まり、ホームへ上がる通路の前を横断し、進入・進出の列車を停めるという事態がしばしば起こっていた。

 現在の駅は、仙石線地下化により、当時の駅より南にある東街道に面した地下部にあり、フルキャストスタジアム宮城側と国立病院側、育英学園側の3カ所から地上部に出られるようになっている。



⑱ 国立病院機構 仙台医療センター 旧脳外科病棟        宮城野区・宮城野2丁目

 現在の国立病院仙台医療センターの前身は、1937年(昭和12年)旧・「仙台陸軍病院臨時宮城野原分院」として、日中戦争に伴う傷病兵の収容病院として創設されたが、陸軍病院以前は、1905年(明治38年)3月~12月まで、日露戦争時のロシア兵捕虜収容所がおかれた場所であった。

 1945年(昭和20年)4月、本院に昇格、「仙台第一陸軍病院」に改称された。終戦直後の、同年11月GHQより「入院医療は傷痍軍人及びその家族に限定しないこと」の覚え書きによって、同年12月「国立仙台病院」として、民間医療機関に生まれ変わった。

 国立病院発足時は、緊急任務として、終戦による大量の復員軍人および一般引揚者の患者を収容救護にあたり、引き揚げ船に医師を乗船させ交代で派遣していたと初代病院長が回想を述べている。

 当時の建物は、現在では残っていないが、一番古い施設が写真の病棟であり、2006年1月、仙台で発生した乳児誘拐事件で、乳児が解放された場所がこの病棟の玄関から入ったところである。(2006.1月撮影)



⑲ 宮城野八幡神社(2006.1月撮影)                     宮城野区・銀杏町
 798年の坂上田村麻呂が勧進したと言われ、以前は、宮城野原運動公園の自転車競技場の場所にあり、昭和20年の戦災で全焼し、(昭和27年)現在の地に遷座された。

  かつて、宮城野原・木ノ下を領有してしていたのは、戦国時代からの地頭の国分氏であり、仙台周辺は、国分荘と呼ばれていた。
 伊達氏の勢力が及んでくると、国分氏は、現在の国分町へ移され、永野氏が、生巣原の野守を命じられる。

 宮城野八幡神社は、かつて野守だった永野氏の土地で、屋敷内には、天然記念物の乳銀杏がある。

 また、現在も永野氏は、和歌に詠まれている「宮城野の萩」を邸内で栽培保存しており、園芸種であるミヤギノハギとは異なり、一般の萩に比べると、葉が小さく丸みがかっており、花はひと月程早く立秋の頃に咲き始め、色は紫がかっているのが特徴だと言われている。



⑳ 乳銀杏と姥神社                         宮城野区・銀杏町

 言い伝えによれば、「国分尼寺を建てたときに「紅白女」という尼さんが、光明皇后の守本尊である正観音の尊像を護持してこの地に来て尼寺の本尊仏としました。紅白女は一緒に同行した白紅女という尼さんに「私は天皇の乳母となり今は80歳を越えたれば今日にも往生するかもしれない。死んだら必ず塚の上に銀杏樹を植えてしるしとされよ、されば世の乳の出ざる女に乳を授けよう」と言い残して亡くなった」と言われており、参拝すれば母乳がでるようになると言い伝えられている。「封内風土記」に「生巣原御野守勘四郎屋敷の内 一銀杏木廻り八尺五寸」と書かれている。

 宮城野の原野の一画に、大寺院が建ったのが、約1200年前のことだった。しかし、1200年間大寺院を維持することは不可能であった。律令制度の崩壊で衰退し、原野に飲み込まれそうになり、伊達政宗により再建される。それでも、原野の一画に過ぎないのである。
 しかし、現代の宮城野の姿は、仙台市東部の住宅地・商業地として大きく変貌し、宮城野の原野の姿はなく、コンクリートの街に変わっている。その姿もいずれまた変わっていくのかもしれない。人が生きていくことは街も生きていくことであり、輪廻転生という言葉が街の姿にも当てはまるならば、まさにそうなのかもしれない。

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