街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

4.宮城野と世々の心より 〜「陸奥国分寺」界隈〜

 905年の奈良時代、勅撰和歌集の古今集に「宮城野の本荒の小萩露をおもみ 風をまつごと君をこそ待て」という歌がある。荒涼たる宮城野に咲き乱れる萩、都人の憧れる宮城野がそこにあった。

 しかし、現代の宮城野の姿は、仙台市東部の住宅地・商業地として大きく変貌している。それでも狭義の宮城野は、古老の話によれば、1945年(昭和20年)アジア太平洋戦争の終戦頃までは、面影がまだ残っていたと言われている。

 遠く、宮城野の中心であった陸奥国分寺は、多賀城U期に同様の瓦が使用されていることから、741年(天平13年)以降、762年(天平宝字6年)頃までに相次いで建立されと考えられている。

 ただし、現在の「陸奥国分寺」跡は、伊達政宗が再建した「陸奥国分寺・薬師堂」が建っており、天平時代に建立された陸奥国分寺・国分尼寺は、礎石が残るのみである。

 そして、ややこしいのは、現在、「陸奥国分寺」(真言宗智山派)と呼ばれる寺院は、藩政時代の別当坊の後身であり、国分尼寺(曹洞宗)を名乗る寺も1570(元亀元)年に尼寺を禅院としたと伝えられるのみで、由緒は明らかでなく、天平時代のあった寺域に建っているのである。
                                             (06.May.2006)

図−1 宮城野周辺

※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図名:仙台東北部 [南西] を使用しました

 仙台市若林区木ノ下にある「陸奥国分寺」跡は、仙台駅東口から新寺小路を東に進み、フルキャスト宮城の南側に位置している。また、同区白萩町にある「陸奥国分尼寺」跡は、陸奥国分寺跡から東に宮城野貨物線を越えたところに位置していが、「陸奥国分尼寺」にあっては、金堂跡と掘建柱列の一部が発掘されているだけで、伽藍配置等は解明されていない。

 陸奥国分寺・陸奥国分尼寺は、741年(天平13年)2月14日に発せられた聖武天皇の詔に基づき、国家鎮護を目指して諸国に建てられた国分寺・国分尼寺の陸奥国版にあたる官立寺院の遺跡である。


図-2 陸奥国分寺跡 創建時−江戸期建物平面比較図

 赤が、創建時の建物群を、青で江戸期の建物を表してみた。仁王門・鐘楼・薬師堂は、伊達政宗が建て、準邸観音堂は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗が建てたものである。
 
 2006年現在、寺域内にあった清和学園の建物等は移転し、更地が増えてきているが、これは、周辺地区の宅地化から史跡保存のために、1968年度(昭和43年度)から土地の公有化が開始されたことによるものであり、 陸奥国分寺より東にある陸奥国分尼寺跡の金堂跡の周辺も公有化が進んでいる。今後の発掘調査が行われることを期待したい。



図-3 陸奥国分寺跡 現地説明板写真より引用(加筆)         仙台市若林区 木ノ下


 陸奥国分寺は、かつての陸奥国府・多賀城跡から、西南、9.5キロの宮城野に、一辺800天平尺(1天平尺を曲尺の9寸9分として計算・237.6m)の方形の寺域に創建された。

 黄色の線は、1961年の発掘調査報告書をもとに私が書き込んだもので、陸奥国分寺の創建当時の寺域である。西側は、掘建柱列跡が続いていた西方境界線である。

 時は移り、律令国家の衰退と共に、陸奥国分寺は荒廃していく。室町時代、観応の頃にこの附近を通った宗久の「都の苞」には「草堂一字より外は見えず」とあり、大寺院ではなくなっていることが書かれている。

 「奥州餘目記録」は、1514年(永正11年)に書かれたと見られているが、その中に「国分薬師堂かやくよう」という言葉が見えている。これが中世における薬師堂の存在を示す唯一の史料となっている。

 そして伊達政宗によって、1605年〜1607年(慶長10年〜12年)にかけて薬師堂、仁王門、白山神社、学頭坊、別当坊、院主坊のほか二十四坊を修造し、多くの寺領を寄進し、寺格を着座格としたが、国分寺周辺は、萩の花が咲き乱れ、スズムシの声が響く原野であった。

 このような藩の保護により徳川時代は繁栄をつづけたが、明治維新の変革により、寺禄を失って衰微し、各坊も別当坊以外は廃絶してしまった。

 現在、「陸奥国分寺」と呼ばれている寺院は徳川時代の別当坊のあとで、昭和10年に現在の寺號にあらためたものである。


 
@ 南大門跡に建つ仁王門                    若林区 木ノ下(2005.7月撮影)


 天平年間に建てられた「陸奥国分寺」跡の南大門跡に建っているのが、1607年(慶長12年)に伊達政宗が薬師堂・鐘楼と共に再建した「仁王門」である。

 現在の仁王門(単層入母屋・茅葺屋根・間口3間八脚門)は、無粋にも、倒壊防止の支えがされている。今後の宮城県沖地震が心配であるが、左右に安置されているはずの運慶作と伝えられる密迹金剛・那羅延金剛像も現在は、別の場所に保存されている。



A 2006年5月の南大門跡                   若林区 木ノ下(2006.・5月撮影)


 1607年(慶長12年)にから建っていた「仁王門」も、修理のため解体されていた。昭和30年から5年間発掘調査では、仁王門が建っているために、建物下の調査は完全には行われていなかった。今回の解体修理で、南大門の調査が行われることを期待したい。



B 南側境界線上の土累(築地土塀)                   若林区 木ノ下


 何の変哲もなく、土が少し盛り上がっている。訪れる人もほとんど気が付いていいないが、これが創建当時からの土累状の築地土塀の名残である。
 幅3.1mの掘込み地業の上に基底幅2.7mの版築による築地で、創建当時は、高さはあっただろうと想像が付く。

 前方の住宅の前を走る宮城野貨物線を越えた南辺境界構造である。



C 仁王門礎石                        若林区 木ノ下(2005.7月撮影)


 現在の仁王門の柱と比べると、礎石が大きいことに気付く。この礎石が創建当時の南大門の礎石を利用したものである。

 創建当時の南大門の大きさは、間口34天平尺(10.09m)、※1天平尺=0.297p)×奥行24天平尺(7.12m))と推定されている。全体としては縦横1.416の比=ルート2の比率になっている。

 そうなれば、奈良時代の例として現存する法隆寺東大門(31×18.8天平尺)は、陸奥国分寺より、やや小さく、東大寺転害門(54.9×27.5天平尺)は、陸奥国分寺より3倍弱の大きさになる。



D 中門跡                              陸奥国分寺跡

 基壇の上に建つ南大門跡(現在の仁王門)をくぐると、石畳の参道に中門跡の基壇がある。

 但し、この基壇、1935年(昭和10年)の遺跡整備で造られた基壇であり、創建当時に基壇があったかどうかは解明されていない。
 
 3列の礎石が並んでいるが、中門から金堂に取り付く複式回廊跡の礎石が続いていく。 

 中門跡の礎石は、全て移動されていたが、根石の存在から、間口60天平尺(17.8m))×奥行24天平尺(7.1m))の建物と推定され、縦横比2.5倍にあたる。間口5間、中3間が出入り口となる五間三戸(Go-Ken San-Ko)の南大門を少し長くした門になる。扉は、中列の柱に取り付けられる為に、この線を左様に延ばしていくと、回廊の柱の中列、櫺子(Renji)のはまるところになる。


   ※ 回廊の西側は、道路で切れているが、道路を越えて続いていく。   回廊跡
     
 ※ 回廊の東側は、東へ延びて北方へ折り返して西へ折れて金堂へ取り付く  回廊跡
 ※ 回廊の東側、北方への折り返し部分    回廊跡

E 回廊跡                              陸奥国分寺跡
 中門の左右から複廊の廻廊がつながり、東西に延びる。中庭から見ると数えて、7間の所で折れて15間、北行し、更に折れて金堂の左右に連なり、最後の柱は金堂基壇上にのっている。

 廻廊の桁行は、10尺ずつに柱がたち、梁間は8尺ずつ二間で合せて16尺である。ただ廻廊の折れまがる所(東南隅・西南隅・東北隅・西北隅)では、梁間の長さが桁行に現われて8尺ずつとなる。

 凝灰岩粉末土・黄褐色粘土積土上に自然石礎石を据えるが、基壇化粧は認められず、凝灰岩粉末土に瓦片が混入することから、金堂・中門の竣工後に回廊が建設されたと推定されている。

 おもしろいのは、廻廊に残る礎石で、金堂の東辺より延びる部分にあるものが金堂に近づくにつれて、高さを増してくる。このことは回廊の床面に傾斜がついてくることであり東大寺大仏殿に接する部分とおなじである。



F 中門から金堂跡基壇を望む                        中門中庭 跡

 陸奥国分寺の伽藍配置は、南大門から北へ一直線に中門、金堂、講堂へと至る伽藍中軸線上に配置されて、更に、金堂の東側に七重の塔跡があり、西側に経堂跡がある、東大寺式伽藍配置である。

 陸奥国分寺より早い時期に建立された陸奥国府・多賀城の附属寺院である「多賀城廃寺」の伽藍配置(九州・観音寺と同じ)を受け継がなかったのは、なぜだろうか。



G 金堂跡                                          

 金堂跡である。正面から、やや右に見えているのが、「薬師堂」であり、陸奥国分寺の伽藍中軸線より、政宗の建てた「仁王門」、「薬師堂」の軸線か右寄りになっていることがわかる。

 金堂跡は、凝灰岩切石の羽目石(Hame-ishi)の外に地覆石(JIfuku-ishi)を置き並べもので、105.6×66(天平尺)(31.4m×19.6m)の上に自然石礎石を据えた「疑似壇上積構造」で、縦横比は1.63であり、唐招提寺金堂基壇の118×73(天平尺)縦横比1.61と基壇構造は別として、大きさは酷似している。

 建物は、間口83天平尺(24.65m)×奥行44天平尺(13.06m)であり、奈良に残っている唐招提寺の金堂よりわずかに、間口で9尺、奥行で4尺小さいだけであり、唐招提寺金堂と同様の建物と想定される。多賀城廃寺金堂跡と比較しても、その2.27倍の面積になる。

 金堂基壇化粧が比較的良く遺存した東北部の基壇周辺では瓦堆積層上に灰白色火山灰が堆積することから、10 世紀前半までに金堂は退転し
たと見られる。

 陸奥国分寺の建物は、すべて瓦葺・丹塗(Ni-nuri=酸化鉛による朱色の顔料)の唐風の建築物であって主要な建物は基壇の上に建てられていた。建物の重要さによって、基壇の築成にも違いがあり、塔基壇は、4尺あり、金堂は3尺、講堂は2尺ぐらい、僧坊は1〜1.5尺と順に低くなり、鐘楼、経楼になると基壇の存在はみとめられない。



H 「伊達政宗の袴腰(Hakomakoshi)付き鐘楼」      
                          
 陸奥国分寺の「鐘楼」跡は、金堂の東側になる。この鐘楼は、金堂跡の南東、回廊に囲まれている内陣に建っている。

 陸奥国分寺の「鐘楼」、政宗の建てたのも「鐘楼」、形が残っているのが江戸期のもの、一番戸惑うところかもしれない。



I 七重塔基壇                                    

  国分寺の塔跡は、全国各地の国分寺の遺跡で、最も多いが、初層の一辺が30尺(8.9m)前後のものがもっとも多く、陸奥国分寺の33尺(9.8m)の塔は、十指を屈する位である。

 その高さは、190尺(56.43m)位と推定され、奈良時代の塔で今日まで残っている薬師寺東塔の1.7倍位であった。

 陸奥国府・多賀城からも西南方向に見えたであろう陸奥国分寺の七重塔は、黄金色に輝く西陽に照らされシルエットとして浮かび上がっていたはずである。赴任していた都人は何を思ったのだろうか。


 「日本紀略」承平四年正月十五日の「陸奥国分寺七重塔雷火の為に焼かれ了んぬ」との記事によって七重塔があったことが知られるところであり、心礎ほか10個の礎石が残っていることによって早くから、陸奥国分寺の遺跡として知られていた唯一の場所である。

 そして、発掘作業で、もっともドラマチックなところであり、相輪(Sourin)の擦管(Sakkan)の先端が真逆きまに地中につきささって発見され「七重塔雷火による焼失」が証明されたのである。 

葛石(Katura-ishi)の存在がない疑似・壇上積基壇(塔跡西側北半分)

壇上積基壇には、羽目石上段を葛石(Katura-ishi)が覆う
 深さ60cmほどの掘込み地業を伴う基壇は16.5m四方で、金堂・講堂と同様に高さ約1.2m×幅0.3〜0.6m×厚さ15pの凝灰岩切石を立て並べて羽目石とし、外側に地覆石を並べた「疑似・壇上積構造」で、基壇の高さは約1.2mである。

 「壇上積構造」の特徴である羽目石上端を覆う葛石(Katura-ishi)の存在がなく、基壇上面には凝灰岩切石の敷石(長さ60×幅45×厚さ15 p)が敷き並べられ。形だけは「壇上積構造」に似せてあるのである。


J 七重塔心礎
  武岩質安山岩の心礎は1.9m×2.2m×厚さ76 pの巨石で上面中央に径54 pの円形彫込みがある。心礎と同質の自然石の礎石は3間四方11天平尺で等間隔に配列されるので、塔初層の面積は多賀城廃寺塔跡の2.47倍に相当する。七重塔に相応しい規模である。

 塔基壇の階段は、後に設置された痕跡かと見られるものが南辺・西辺の各中央部で発見されたが、創建時の基壇には設置されていない。基壇周辺の旧地表上に8・9世紀の瓦が堆積し、その上を10 世紀前半に降下した灰白色火山灰が覆い、瓦・鉄片・青銅片の混じる934(承平4)年の雷火による焼土層が覆う。

 さらに塔基壇周辺では相輪の擦管・水煙等の青銅製品、九輪・露盤・釘等の鉄製品が発見された。



K 七重塔 回廊跡
  塔に廻廊をめぐらすことは東大寺など中央の寺院では、見られるが、地方の寺院の塔に廻廊が設けられていることは従来想像もつかないことであった。

 それが地方である陸奥国分寺にあったことが、この発掘によってはじめて明らかになったのである。

 塔の周囲には、廻廊がめぐり、中庭をつくっている。その中庭の東西幅は10間、南北幅は11間である。

 塔回廊は、単廊で幅も間口も10.5天平尺(3.1m)で、内庭東西は105天平尺(31.18m)、南北は115.5天平尺(34.3m)となる。金堂廻廊が複廊であるのに対して、塔回廊は単廊であり、法隆寺の回廊と同じく、外側の柱間に櫺子格子がはまっている姿であると推定される。



L 鐘楼 跡(東西対称建物:東側)                        陸奥国分寺

 金堂の背面、講堂の前面左右に三間二間の基壇を持たない建築跡が、向い合っており、柱間は10天平尺(2.97m)等間隔になっている。

 両背面は各々金堂の東西廻廊外側の延長線上にあり、鐘楼跡と経楼跡であるが、どちらがどちらという決定打はない。東大寺においては、西が経楼として復元されている。

 ただ、確実な例として、法隆寺においては現存する経楼は西にあり、興福寺も同じく、経楼として復原されている。
 
 しかし、宋より輸入した鎌倉建長寺の経蔵は西にある。陸奥国分寺においては、発掘調査報告書では、東側建物を「鐘楼」としているが、現地の説明石には、経堂跡となっている。



M 講堂 跡(薬師堂)                               

 講堂跡は、現在の「薬師堂」の下に当り、当初の礎石はすべて移動され薬師堂に転用されていたが、薬師堂床下と基壇周りの遺構調査で規模が判明した。

 講堂基壇は柱筋だけを掘り込み地業とした東西34.4m×南北20.35mで凝灰岩製・羽目石(Hame-ishi)前に地覆石(jifuku-ishi)を並べる一種の壇上積基壇(Danjouzumi-kidan)で化粧されている。

 建物は、桁行97天平尺(28.8m)×梁行48天平尺(14.2m)で、武蔵国分寺講堂(122×56天平尺)、相模国分寺講堂(116×56天平尺)に次ぐ大きさであり、多賀城廃寺講堂跡の約1.2倍の面積をもっていると推定される。

 基壇周辺に木炭層があって焼失を裏付け、灰白色火山灰の存在も報告されているが、木炭層と火山灰層との前後関係は、報告されていない。



N 桃山建築として見た薬師堂

 薬師堂は、伊達政宗が、泉州(現在の大阪府)の工匠・駿河宗次等を招いて再建し、1607年(慶長12年)に完成した。柱間5間の素木造りで勾欄(Kouran)付の縁をめぐらせ、四面とも、桟唐戸(Sangarado)・櫺子窓(Renji-mado)をもうけてある。

 屋根は、入母屋造本瓦葺きに向拝をつけて、廻り縁を設けている。組物、装飾とも極めて簡潔であるが、素朴な力強さを持ち、同時代の八幡町にある大崎八幡神社の華麗さは好対照であり、仙台を代表する桃山建築の一つである。



O 僧坊跡                                陸奥国分寺
 僧坊は、講堂跡に建つ薬師堂の北側のスギ林の上に存在している。
戦中の軍馬の待避壕などの掘削で破壊が著しかったが、講堂跡から軒廊跡が判明して、北へ向かって発掘作業を進めて、発見に至ったのが僧坊発見の経緯である。

 東西73.6m×南北14.8m の周囲に瓦積基壇が回っており、瓦積は、4段まで遺存するが、平カワラの破片を積むので補修時の基壇であった可能性が高い。

 僧房建物は中央に幅15 天平尺(4.45m)の馬道(Medo)を通し、その東西に房を並べた構成で、東西とも桁行、110 天平尺=32.67m(10 尺等間)×梁行40天平尺=11.8m(8尺等間)であるが、北側は、約0.5天平尺ほど低くなっている。

 各房の規模・配列は明らかになっていなが、馬道の南には同じ幅の軒廊(Nolirou)が講堂まで続いており、僧房跡の北方で数ヶ所の掘立柱痕跡が発見されており、小子房が僧房の北に並列していた可能性がある。
 また、僧坊から、北辺境界線の間には、食堂、厨、浴場、倉庫などが、おかれたであろと推測されている。



P 白山神社本殿                          陸奥国分寺
 白山神社は、陸奥国分寺創建に地元の守護神として祀られた神社であり、1573年〜1591年の天正年間に国分氏により再興され、後に、伊達家においても崇敬された神社である。

 現在の本殿は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗によって、1640年(寛永17年)に再建された、素木の「一間社流造柿葺屋根」を持つ、江戸初期の神社建築の秀作で、破風板の流麗な曲線や、古雅な懸魚の美しさに、江戸初期の優れた手法が見受けられる。

 社殿の位置は、しばし、移動したようであり、近年までは、七重塔跡の礎石上に建っていたが、現在は、塔跡の北方に移築・修復されている。

 一間社流造(いっけんしゃながれづくり)とは、正面の柱と柱の数により、一間社(柱が2本)、三間社(柱が4本)があり、「流造」は、神社本殿の一形式で切妻照屋根(反りのある屋根)が前方に長く伸びた形をいい、伸びたところに向拝が付く。



Q 準胝観音堂                                若林区 木ノ下

 現在の準胝観音堂(Junteikannon-do)は、1719(享保4年)に仙台藩・五代藩主・伊達吉村の夫人長松院が建立した小堂を、六代藩主・伊達宗村が1745年(延享2年)新たに建立したもので、陸奥国分寺とは関係がないが、平安前期以後、江戸時代以前に何らかの建物があった場所で、江戸時代の准胝観音堂の建設の際に破壊されたとみられる、四個の礎石が確認されているところである。 


向拝(Kohai)軒裏につく植物文様の「手挟(Tabasami)」

R 桃山建築として見た準胝観音堂                      若林区 木ノ下


宝形造(Hogyozukuri)、二間四方の堂宇で一間の向拝(Kohai)が付き、外装は朱塗で四方に浜縁(Hamaen)が付く。
 
 向拝の植物文様の「手挟」(Tabasami)の彫刻が目を引く。木鼻は、禅宗様(Zenshuuyou)のシンプルなもので、虹梁(Koryo)の真ん中で、鰐口(Waniguchi)の綱の付け根のところに見えるのが、蟇股(Kaerumata)で彫刻が施されている。



S 西辺境界線を北から見る                         若林区 木ノ下


 「多賀城廃寺」の伽藍配置を受け継がなかったのは、なぜだろうか。国分寺は、官営寺院であり、都からの技術者が造ったと見がちである。当然、都から派遣された技術者もいただろうと想像が付くのである。

 しかし、国分寺造営の費用は、地方の国々の負担であり、陸奥国分寺を建てたものは、陸奥国の富であり、それは陸奥国の住民の租税と力役である。陸奥国の民力がこのような壮大な寺院造営の負担に耐え得るまでに成長していたと見るべきである。陸奥国は26郡からなり、みちのく産金と関わっており、造営技術も発展してきたと見るべきである。

 そのことは、金堂跡や塔跡に見られる「疑似・壇上積構造」である。都の技術者であれば、形だけの物まね的基壇構造を採用するだろうか。壇上積を知らなかったと見るほうが自然である。

 瓦につては、特徴のある鬼瓦にふれてみたい。陸奥国分寺の鬼瓦は、鬼面ではなく、蓮花文鬼瓦である。蓮花文鬼瓦は、中央では白鳳時代に流行したもので、天平時代になると鬼面鬼瓦が支配的になる。

 諸国の国分寺のうちで鬼瓦の発見されているのは、山城、伊勢、遠江、甲斐、相模、武蔵、美濃、上野、下野、陸奥、伯耆、阿波、筑前、肥前、肥後、薩摩の16国分寺であるが、蓮花文鬼瓦の出土は陸奥だけで、他はすべて鬼面である。

 陸奥国分寺の蓮花文鬼瓦は、先行する多賀城の蓮花文鬼瓦の意匠をとり入れ、これに若干の新味を加えたもので、奈良時代には中央ではこれに近いものは、つくられていない。その原型を造ったのは都から来た瓦工ではなく、陸奥国在地の瓦工であったと推察される。当時の陸奥国はこれらの技術者を自らのうちに所持していたのである。

 また、『日本紀略』は、934年(承平4年)閏正月15 日に国分寺七重塔が落雷により焼失と伝えているが、塔跡の発掘調査により一致した。

 しかし、1189年(文治5年)の源頼朝の平泉征討の際、兵火に遭い、陸奥国分寺の「数百の院宇一日にして燼く」と現在の国分寺が伝える『奥州国分寺縁起』については、講堂跡からの木炭層の出土があって焼失したことはわかるが、真否は定かでない。ただ、準胝観音堂にあった建物跡と見られる礎石や、西辺境界線上にある掘建柱列の遺構について、奈良時代以降徳川時代以前に造られたとすれば東北で、財力・支配能力共に持ち合わせているのは、平泉の藤原氏だけであろうと推察はできるが、真否は定かでない。 

 8世紀中葉の時代は、東北では、蝦夷(Emishi)と中央政権の戦の時代であり、桃生城、今治城なとの城柵がつくられた時代であった。しかし、これだけの大寺院をつくりうるまでに、経済的にも文化的にも成長していたという事実も浮かび上がってきたのである。

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