街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

〜「大崎八幡宮」より 八幡町界隈その1 〜

大崎八幡宮

司馬さんの書き出しは『「仙台の市内に、大崎八幡宮というお宮があるはずですね」と、編集部の藤谷宏樹氏にいった。』からはじまる。
 
 八幡町、伊達政宗が仙台開府時には、その大崎八幡宮が城下の最も北西の端であった。地形的にも、八幡町周辺は、広瀬川の河岸段丘上にあって広瀬川がV字に切れこんで蛇行しながら流れている。住宅地は、その段丘上にあり、坂道が多い。

 そして、昭和50年代までは、市電が走り石畳の軌道敷きを車と市電が共有し、雨の日は鋭角に軌道敷きに入らないとハンドルをとられるということもあり、なかなかおもしろい道であった。
 今でこそ、仙台市街から作並・山形方面へは、中ノ瀬橋を越えて西道路トンネルが段丘を貫き折立へでるが、西道路か出来る前は、八幡町を抜け広瀬川に沿って郷六から折立へいくのが仙台−作並−関山越え−山形へのルートであった。
 山形から帰ってくる時は、川内(Kawauchi)付近の段丘の崖を見ては、仙台に着いたなぁと思ったものであった。
 当時の八幡町界隈は、城下町の風情や門前町の風情を残す街並みであったが、近年はマンションが建ち並び、大きく急激に変貌をとげている。昭和の風情は今どうなっているのだろうか?八幡町のランドマーク大崎八幡宮からご紹介致します。
(05 .NOV .2010)



@ 大崎八幡宮前 国道48号線西向き                      八幡町4丁目

 観光用の市内循環、仙台市バス、>仙台」が走っている。かつては、市電が走っていた八幡町である。大崎八幡宮の参道入口の通りが、国道48号線、作並街道である。
 この先を左に折れれば、牛越橋を渡り、川内(Kawauchi)へ向かう、道なりに直進すれば作並街道である。

 大崎八幡宮は、伊達政宗が仙台を開府するにあたって、県北の岩出山城から移した神社で、仙台市中心部から北西(乾)の方向にあたる。この神社が「大崎八幡宮」であり、米沢にて代々伊達家が崇敬していた「成島八幡宮」も共に祀ったものである。

 それ以前は平安時代の坂上田村麻呂の東征まで遡る。武運長久を祈念すべく「宇佐八幡宮」を現在の岩手県水沢市に勧請し「鎮守府八幡宮」を創祀した。室町時代になって、奥州管領・大崎氏はこれを自領内の現在の大崎市田尻町に遷祀し、守護神として崇敬「大崎八幡宮」となった。大崎氏が滅亡した後は、伊達政宗が岩出山城に小祠を造りご神体を祀ったのである



A 一之鳥居(1988年建立)                            大崎八幡宮

参道入口に、大きな鳥居が建っている。一之鳥居であるが、くぐってから、以前からあったかな?と思って振り返ってシャッターを切った。

 1988年(昭和63年)に御鎮座380年記念事業として国道48号に面して一之鳥居が建てられたということである。確かに大きくて目立つ、扁額の大きさは畳4畳分、650Kgというが・・うやうやしく説明書きがないのが私にはかえって救いである。



B 二之鳥居(1668年(寛文8年)建立)                        大崎八幡宮

 参道入り口から、北へまっすぐ伸びる参道を進む。石の鳥居が見えてくる

1988年に、一之鳥居が建てられたので、現在は「二之鳥居」と呼ばれているが、かつての「一之鳥居」である。




C 二之鳥居(1668年(寛文8年)建立)                        大崎八幡宮

 四代藩主・伊達綱村によって寄進された鳥居で、伊達家の旧領であった東山郷(現在の岩手県一関市東山町)から産出された御影石が使われている。
 裏側に彫られて銘文は、仙台藩儒臣・内藤閑斎によるもので虎岩道説によって彫られたものである。ということだが、銘文よりも、前方に見える石橋と急角度で迫る石段が目に飛び込んでくる(宮城県指定有形文化財)



D 四ッ谷用水に架かる石橋                        大崎八幡宮

石橋の下には水が流れているのかな?・ひよっとして、これが四ッ谷用水?
 ビンゴ!伊達政宗が仙台開府する頃の仙台は、一部を除いて、湿地や原野であった。そこに人口5〜6万人の街をつくるには、湿地の排水と冬場でも枯れることのない井戸のために地下水を潤すことが必要であった。

 そこで登場するのが、川村孫兵衛重吉であった。広瀬川左岸、郷六に四ッ谷堰を築き、八幡町から北六番丁を通り、宮町の東を流れる梅田川まで7260mの用水を掘って本流とした。街中で更に支流に分け、地下水を潤し、生活、防火、農業用水として使われていった。用水の維持は、藩・町方・農民が1/3づつ負担したといわれている。

 これが、今後の四ッ谷用水本流の梅田川への序章につながっていくのである。



E 旧・四ッ谷用水本流(暗渠)                                大崎八幡宮

しかし、明治維新後は、四ッ谷用水の適切な維持ができなくなり、都市の近代化と共に、徐々に都市活動との関係か薄れ、次々に埋め立てられたり、暗渠化が進んだが、後の仙台市の下水道の礎を築いたのは、紛れもなくこの四ッ谷用水であった。
 
 現在、水路として残っているのは、本流と極く一部分で、本流も仙塩工業用水道となり水流を見ることは出来ないが、八幡町から柏木あたりは、当時の用水の石積みが残っており往時の姿をしのぶことができる。



F 大石段(仙台市有形登録文化財                            大崎八幡宮

 1607年(慶長12年)創建期からの石段で、緊張感のある急勾配のなかにも均整のとれた石段がつづいている。段数は98段とも100段ともいわれている。上りきったところに三之鳥居が見えてくる。

 石段脇の赤い手すりは、昭和10年に寄進されたものである。


G 三之鳥居                                           大崎八幡宮

 大石段を上ると1718年(享保3年)五代藩主・伊達吉村の寄進した三之鳥居(かつての二之鳥居)である。狛犬が1対出迎えてくれる。
 
 400年の歴史を持つ仙台の冬の風物詩、正月飾りをご神火で焚き上げる「大崎八幡宮の松焚祭」(どんと祭)は、左側の場所で毎年1月14日の日没頃におこなわれ、毎年10万人ぐらいが訪れる宮城県内最大規模である。
 また、藩政時代に厳寒期に仕込みに入る酒杜氏達が、醸造安全・吟醸祈願の参拝したのが始まりとされる「裸参り」は、御神火に、白鉢巻き・「含み紙」を口にくわえ、白さらしを巻き、注連縄を結んで、下は、パッチ(半股引) 女性はショートパンツ)、白足袋、わらじ履き、左手にカネ、右手に提灯を持って参拝する。女性は1枚、白判天を羽織ることが許されているが・・・。 例年100団体2500人が厳寒 の中参加する。平成17年仙台市の無形民族文化財に指定された。



H 三之鳥居篇額                                       大崎八幡宮

 この三之鳥居の篇額にある「八幡宮」の三文字は、五代藩主・伊達吉村自身の揮毫(Kigou)である。
 その後、幾度か建替・修復されたが、篇額の文字は創建当時のものであり、三文字の周囲には、伊達家の紋である「日の丸」、「竹に雀」、「丸の内に堅三ツ引両」、「九曜」、「蟹牡丹」、「l龍胆車(Rindou-guruma)」の六紋の装飾紋で飾られている。2004年(平成16年)、御鎮座四百年記念事業の一環として漆塗り修復された。



I 長   床 (国指定重要文化財)                            大崎八幡宮

 三之鳥居を過ぎて、左手に少し高くなった馬場を見ながら進み石段を少し上ると、社殿の前に建っている「長床(Nagatoko)」が見えてくる。
 創建年月は不明ながら社殿よりも遅く1660〜1673年の寛文年間といわれているが、社殿の一環をなす建物である。
 裄行9間、梁間3間、入母屋造、正背面中央軒唐破風付、こけら葺の構造であり、唐破風のある中央が通路になっている「割拝殿」様式である。



J 長床 正面の扁額                                大崎八幡宮

 長床正面に掲げられている扁額(五代藩主・伊達吉村の正室・冬姫の叔父、東大寺別当・安井門主道恕大僧正の筆による)の文字は「大崎八幡宮」である。三之鳥居を見てば「八幡宮」、仙台生まれの古老達は「お八幡さま」と呼び、私の年代になると「大崎八幡神社」と呼び、近年は、「大崎八幡宮」と呼ばれている。

 さて、正式な名称は?というと、「大崎八幡宮」なのだが、『奥州仙台城下絵図』1645年(正保2年)、『仙台城下絵図』1787年(天明6年)には「八幡宮」と記載されており、創建時より「八幡宮」と呼ばれていたと思われる。

 しかし明治維新を迎え神社は国家の管理に組み入れられ、社格制度が出来て「大崎八幡神社」と呼ばれるようになり、戦後、国家管理から離れても、そのまま「神社」と呼ばれ続け、平成9年、創建以来の社名については、歴史的経緯からも「大崎八幡宮」とする社名変更が行われたものである。



K 「長床」 西側から                                    大崎八幡宮

 長床の後ろに見えているのが、権現造りの社殿であるが、黒漆塗りで、極彩色の装飾とは対照的に、素木造りで、桁行九間、梁間三間の入母屋造り(四方に庇を葺きおろす様式)で、屋根中央部に軒唐破風が附けられ、伊達家の質実剛健の一面を覗かせる建物であると私は思う。

 この建物も、昭和43年〜昭和45年にかけて解体保存修理が行われているが、2004年(平成17年)「屋根柿板(Kokeraita)葺き替え工事」が行われ、3mm厚に手割りした秋田杉をずらしながら葺き重ね竹釘で止めていく手法をとっている。また葺き重ねた板の間に銅板を重ねて緑青による板の腐敗を遅らせている。

 柿板は、前回の修理ではサワラ材を使用したが、今回は社殿工事と同じ杉を使っているとのことであった。



L 「長床」 通路から左・・・神楽殿                              大崎八幡宮 

 長床内の通路の左側は、神楽殿9月14日に能神楽が行われる舞台である。右側は、かつての授与所として使われていたが、現在の授与所は別棟で建っている。

 司馬さんは、「彼は、もう拝観券を買おうとしている・・・」と書いているが、
拝観料は0円である。神官以外は、拝殿から先には立ち入れない。一般的に神社で祈祷・祈願を受ける場合は、初穂料を収めて拝殿で祈祷を受ける、大崎八幡宮であってもこれは同じである。

 左隅に置かれているのが、長床の「屋根柿板葺き替え工事」で使われた杉板で柿葺き(Kokerabuki)を伝える模型である。




M 柿葺き(Kokerabuki)
                                 大崎八幡宮

 こけら板とは、杉等の木を輪切りにして、赤み部分を薄板に、みかん割り(みかん房のように切断面が丸太の中心を通るように割ること)によって出てくる年輪が縦縞に並ぶ木目がでる。
 この木目を柾目といい(柾目材をとるときの手法)をして、更に薄くそいでいく作業(板へぎと呼ばれる)をして、こけら板ができる。この、こけら板をずらしながら、重ねていくのが「こけら葺き」である。



N社  殿 (国宝)                                    大崎八幡宮

 司馬さんは『有名な神社とはいえない。明治政府があたえた社格は、村社にすぎない』と書いているが、他県出身の人から見て、この大崎八幡宮が有名かどうかはしらないが、仙台人にとっては、別格の神社である。

 社殿は、伊達政宗が、仙台に開府するにあたって、新たに造営したもので、1604年(慶長9年)〜1607年(慶長12年)にかけて造営された。

 「本殿」と「拝殿」との間に一段低い「石の間」を設け、これらを一体とした「権現造り」の形式が採られ、現存する権現造りの建築物としては最古のものである。

 また、棟札や仙台藩の記録により、造営には京都や和歌山出身の当時上方で活躍していた工匠や絵師、錺師(Kazarishi)が呼ばれたことがわかっており、彫刻、彩色および錺金具(Kazari-kanagu)で彩られた社殿は、桃山時代の装飾的な様式を代表する優秀な建築の一つとして国宝に指定されている。



O 社殿(拝殿部) 西側より                                  大崎八幡宮

 お祀りしている御祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の御三神である。
 2000年(平成12年)1月〜2004年(平成16年)12月まで「平成の大修理」というべき、拝殿・石の間・本殿の半解体保存修理が行われ創建当時の豪壮にして華麗なる桃山建築が遺憾なく発揮され現代に蘇えったのが現在の姿である。

 残念なのは、拝殿より奥へ回り込むことは出来ないのは十分に承知しているつもりでも、もう少し玉垣がバックされていればと石の間の様子もわかるかと思うのであるが、御鎮座400年記念事業の一環として、2004年(平成16年)10月9日〜11月8日まで、拝殿・石の間・本殿が一般公開された。このことは、神社本来の聖域を軽々しく一般公開すべきではないが国宝建築物は国民の財産であり、文化財所有者の責務として公開したという神社側の配慮に感謝したい。



P 社殿 西側より撮影                                  大崎八幡宮

拝殿、
 桁行 正面7間、背面5間 梁間 3間、一重屋根、入母屋造り、正面千鳥 破風付、 向拝5間、軒唐破風付、こけら葺

石の間
 東西方向 桁行 5間、南北方向 2間 、一重屋根、両下造り、こけら葺

本殿
 桁行 5間、梁間 3間、一重屋根、入母屋造り、こけら葺

 社殿は、奥に見える入母屋造りの本殿と手前の拝殿とを相の間でつないだ石の間造りであり、後の権現造りといわれる様式である。
 外観は、長押上に鮮やかな胡粉極彩色の斗?や彫刻を施し、下は、総黒漆塗りとし、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には、軒唐破風をつけ、屋根は、こけら葺きとなっている。



Q 社殿 軒唐破風                                    大崎八幡宮

 カラフルな「鈴の緒」は、毎年、例大祭毎に取り替えられるそうである。
蛙叉付近にも「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という珍しい彫刻があるということで探してみると、上半身は髪を結った女性で、両手で蓮華(れんげ)を捧げ持ち、下半身は鳥の姿で天衣(てんい)や尾羽が後へ長くたなびき、前方へ優雅に飛翔する様子が彫られている。

 あまりにカラフルなので、好き嫌いが別れるところかもしれないが、正宗の命を受け、12年をかけて造営したのは、豊臣家召抱えの梅村日向守家次、梅村三十郎頼次、刈部左衛門国次、鍛冶雅楽助吉家といった第一級の工匠たちであった。



R 社殿 格天井                                    大崎八幡宮

 拝殿内部には、狩野派の絵師・佐久間左京による障壁画や、格天井にも彩色画が描かれているが、 昭和の修理で塗り直された外部の漆や彩色は劣化していることから、「平成の大修理」で、また塗り直しがされたが、内部の彩色は、剥落止めの処置が行われ現状で保存された。
 解体中には、慶長10年から12年までの年号、大工ら職人の名前や出身地を記した墨書が多数見つかり、棟札や仙台藩の記録を裏付けることができ、地名には「下京」「紀州那賀郡」「紀州海士郡」「近江国栗太郡」などが見られた。



S 授与所                                    大崎八幡宮

 神社の授与所といえば、お守り、お札などを初穂料を収めて受けるところであるが、この大崎八幡宮の授与所には、郷土史の出版物が多く販売されており、見ているだけでもあきない。そして、郷土史講座として「仙台・江戸学セミナー」が開催されるのも、この神社の特色かもしれない。




「北参道」と「北参道鳥居」                                大崎八幡宮

 社殿裏手横からの北へ抜ける参道が北参道である。うねうねと曲がっていく参道であるが鳥居が見える。「北参道鳥居」である。
 これも「御鎮座四百年奉祝事業」の一環として平成17年11月に建造された鳥居であるが、 使われている木材は、樹齢250〜300年の青森ヒバで、袴石には、茨城県産の御影石が使われている。高さ7m幅、8.4mで木造の鳥居としては、県内最大である・・・と、説明板が掲げてある。


 今回の大崎八幡宮は、文化財としての大崎八幡宮になってしまったことで、仙台に住む者として、もっとも親しまれている神社としての記載が不足していることをお詫びしつつ、冬の風物詩「どんと祭」についても後日紹介したいと思っています。

<<目次へ戻る   八幡町界隈その2へ >>
TOPへ戻る
>>>>>>>>>>