〜八幡町界隈その1〜では、八幡町のランドマーク的存在の「大崎八幡宮」を紹介致しました。八幡町は、仙台と山形を結ぶ作並街道(国道48号線)沿いにあって、大崎八幡宮、龍宝寺の門前町として賑わい、そして城下町仙台の西の出入口として、家数は、宮町、国分町につぐ、城下で3番目の賑わいをもった町でした。
かつては、愛子、熊ヶ根など西の地域から、薪炭を売りに行商人がやってきて、食糧や雑貨などを購入していったと言われています。その名残が、燃料店や米穀店の多さにあったようですが、現在は、大学病院、厚生病院を核として多くの病院、医院等が目に付きます。
そして、町の移り変わりは激しく、店舗の移転やビルへの建て替えが進み、黒塀が続く八幡町の景観をつくりだしていた「天賞酒造」も、2005年(平成17年)に創業200年を機に屋号の「まるや」を冠し、「まるや天賞」として、宮城県南部蔵王山麓の川崎町今宿へ移転してしまいました。かつては、大崎八幡宮へ御神酒を奉納し、「松焚祭」=「どんと祭」の「裸参り」の中心的存在でしたが、移転後の裸参りの伝統は、「仙臺伝統裸参り」として地域住民によって継承されています。
現在の大崎八幡宮の前の国道48号線は、昭和になって市電が通るようになって北四番丁からまっすぐ八幡町へつながりましたが、藩政時代は、土橋通りから覚性院丁を通り石切町を迂回する道でした。今回は、かつての石切町界隈をご紹介いたします。
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(21 .JAN .2011) |
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@ 国道48号線 土橋通り交差点、北向き 柏木二丁目
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国道48号線沿いにある仙台銀行八幡町支店から南北に伸びる道が、土橋通りである。この土橋通りから西側の住居表示が八幡地区である。
国見方面からの交通量が多い割には、道幅は、旧来より少し広くなったとはいえ狭い道である。 |
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A 「史蹟 林子平先生の墓」石柱 柏木二丁目
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よく見ると仙台銀行の前、土橋通りの角に石柱が立っている「史蹟 林子平先生の墓」とある。
銀行の敷地内にもこのあたりには墓らしきものは見あたらない・・「墓の入口」でもないし、「北へ」とかの文字もない・・・。
初めて訪れる人には、不親切というか、無ければ無くても良いと私は思う。だからといって撤去する必要もないが、脇にでも、案内板でも立ててくれれば親切ではと思うのである。
林子平の墓は、このまま土橋通りを直進した旧・半子町の「龍雲院」にあり、ここから土橋通りの端までいかなければならないのである。
なお、半子町の名称は、1967年(昭和42年)住居表示の変更で、林子平の墓に因み子平町に変更された町名である。 |
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B 国道48号線 土橋通り交差点、東向き 広瀬二丁目
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仙台市街においては、30年周期で発生する宮城県沖地震から、高層ビルは30階程度と言われてるオフィースビルはあるが、2003年32階建「ライオンズタワー広瀬」という超高層マンションが竣工した。
国道48号線を越えて、このマンションの脇を通る細い道も土橋通りで、住居表示は広瀬2丁目に変わるが、この細い道もバスが通る。この細さが本来の土橋通りの幅員であり、マンションを過ぎた北三番丁の交点までが土橋通りである。 |
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C ライオンズタワー前 土橋通り 広瀬二丁目
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歩道の反対側から、北方向を撮してみた。ギリギリに道路の端にいるが、ご覧のように車は、センターラインを越えて、私を避けている・・走行をジャマしてごめんなさい。
1台おいて、その後ろからは「ろーぷる仙台」が向かってきている植え込みの切れ目に待避したのは言うまでもない。 |
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D 突き当たり左は、「北三番丁」、右「十二軒丁」 広瀬二丁目
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私の立っていた場所は、かなりきわどい所のようだった。
るーぷるバスは、この先突き当たりを鋭角に右に曲がって更に鋭角に左折して澱橋へいくのであるが、思わず拍手したくなるような運転技量である。
さて、藩政時代は、突き当たり左の「北三番丁」と右の「十二軒丁」は、つながってはいなかった。つながったのは、明治になってからであった。
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E 十二軒丁 広瀬二丁目
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何の変哲もない道がまっすぐ続いて、国道48号線と合流するかつての十二軒丁の通りである。左折すると広瀬川に架かる「澱橋」に至る。
藩政時代には、武家屋敷が十二軒並んでいたことから十二軒丁といわれ、土橋の北裏は巴谷という岩の高い難所であったが、天和年間、岩を崩し十二軒丁に通ずる道を切り通した。
1882年(明治15年)鳥頭坂・有巴坂を埋め北三番丁と十二軒丁がつながる新道ができ、有巴沢町、姥ケ崎町とも呼ばれたが、旧十二軒丁が廃道となり、この道に旧町名が残されたのであるということだが、難所らしき谷もここから見る限り想像すらつかないのである。
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F 十二軒丁から国道48号線に出る 広瀬二丁目
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十二軒丁と国道48号線の合流点に、仙台城石垣に使われた石のモニュメントがある。現在の八幡二丁目、旧・石切町との関わりが書いてある。 |
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G 藩政時代から続く黒田石材店 八幡二丁目
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店構えは、新しいように見えるが、現在のご主人で18代目の老舗である。初代の黒田屋八兵衛は、泉州(現・大阪堺市)から仙台城築城のために呼ばれた石工のひとりであった。
屋号の「井」印は、平成10年から6年かけて行われた仙台城本丸石垣解体保全工事で1100点の石垣に「刻印されていたのは有名な話である。
また途絶えかけた「伝承すずめ踊り」の伝続を守るため、「仙台すずめ踊り普及会(現・仙臺すずめ踊り連盟)」が設立され、17代目の黒田石材店の伝承者、故・黒田虎男氏の指導を仰ぎ「新・仙台すずめ踊り」が作りだされ、「青葉まつり」をはじめとするイベントで「すずめ踊り」が行われている。
現在の「新・仙台すずめ踊り」は、「伝承すずめ踊り」の原型をとどめつつも、18代目のご主人をはじめ八幡町の「傳幡八幡井組雀踊り保存会」により伝承されているのである。
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H 新旧混在の国道48号線 東向き 八幡四丁目
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まだ、ところどころに木造家屋が並んでいる国道48号線八幡町地区であるが、平成13年の「国道48号八幡町共同溝整備事業」によって、電柱は取り払われ電線は地下へ埋設され、すっきりした景観に変わった。
それを機に、地域住民が門前町にふさわしい街作りに立ち上がり、街路樹も全国的に珍しい「ダイスギ」を植えたり、大崎八幡宮の「裸まいり」や「流鏑馬」など伝統文化を継承するとともに、様々なイベントが行われている。
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I レキシントンプラザ八幡 八幡三丁目
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宮城生協を核とした複合商業施設「レキシントンプラザ八幡」の前に、門と塀が見える。門と塀は、どう見ても、このRC造りの複合施設には、和食レストランの入口にしか見えないが、広大な敷地てあり、ひょっとして・・である。
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「丸や」、かつての天賞酒造の屋号である。門から続く塀は、途中で切れているために、私の記憶とは、異なって見えてしまう。門は、モニュメントとしてレプリカなのだろうかと疑ってしまった。
しかし、門柱に残されている「警察犬協会会員之証」などのプレート類を見つけ、かつての天賞酒造の門ということに確信をもてた。
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K 旧・天賞酒造店蔵 中島丁公園
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天賞酒造の南側敷地内には、藩政時代の武家屋敷の屋敷林を活かした「天賞苑」という日本庭園があったが・・・現在は、旧・店舗と共に、「青葉区」が南側敷地の一部を買い取り「天賞苑」を「中島丁公園」として整備され、かつての店蔵も「八幡杜の館」としてその一画に移築された。
管理運営は、住民が自主的に行うことで、公園は「中島丁公園愛護会」、建物は「八幡杜の館運営委員会」がそれぞれあたっている。
開館日は、週3日間で「金・土・日曜日」のみであるが、この日は、寄席が行われていた。 |
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L 庄子屋醤油店 八幡四丁目
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天賞酒造の門が残されている「レキシントンプラザ八幡」の向かいに、木造の建物が見える。江戸末期から創業している「庄子屋醤油店」である。
現在の店舗兼住宅は、昭和11年に建てられたもので登録文化財(建造物)になっている。
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M 国道から脇道へ入る 八幡四丁目
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国道48号線にある「杜の都信用金庫、八幡町支店」(旧・仙台信金・八幡町支店)の向かい側から、北向きに、車一台通れるような脇道に入ってみる。大正・昭和初期に建てられたような押縁下見の木造家屋が建っている。
正面の石垣の小高いお宅への階段が見えるが、暗渠になっている四ッ谷用水の本流が近くを通っているはずである。 |
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N 江戸町、坊主町 標柱 八幡四丁目
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カメラをぶら下げて住宅街を歩いていく。「晃福ハイツ」前に、標柱が建っている。坊主町の南、八幡町の北、石切町の西に当たる。仙台開府の頃、江戸から招かれた棟梁・黒瀬清四郎政則とその配下の大工衆が居住し、江戸から来たという誇りから町名としたという。黒瀬氏は幕末には約五十石の番外士とされ、町には大工衆が住んでいたという「江戸町」がこのあたりだった。
もちろん市制80周年記念事業で建てた物であるが、現在は、○○ハイツ、コーポ○○という名前の付いたアパート、マンションと戸建ての住宅が混在する住宅地となっている
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O 四ッ谷用水に沿って住宅街を歩く 八幡二丁目
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分厚いコンクリートの暗渠になった四ッ谷用水・本流の脇を併走するような道を歩いていく。通りを1本隔てただけで、これほど光景が変わるのも八幡町の特徴である。本当に静かだ。
しばらく歩くと小祠と鳥居が見えてくる。その先には石橋が見える。
四ッ谷用水は、この付近で、巴沢に流れる巴川を越えていくのである。
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P 石切町の守り神「瀬田谷不動尊」 八幡二丁目
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藩政時代、仙台城築城の際に、泉州・堺(現在の大阪府堺市)から呼び寄せられた石工たちは、この地の天然石で不動尊を彫りそれを守り本尊として崇め「瀬田谷(Setagai)不動尊」を創建し、毎年7月27日〜28日の祭りには近隣の住民ともに「はねっこ踊り」を奉納していた。
この「はねっこ踊り」、1603年(慶長8年)仙台城移徒式(新築移転の儀式)の宴席で、石工たちが、即興で披露した踊りにはじまるといわれている「仙台すずめ踊り」の原型である。
西国らしい小気味よいテンボ、躍動感あふれる身振り、はね踊る姿が餌をついばむ雀の姿に似ていたことと、伊達家の家紋が「竹に雀」ということもあり、いつからか「すずめ踊り」と呼ばれ、毎年、大崎八幡宮の祭礼には「すずめ踊り」を奉納するのが通例となっていたが、戦後は、次第に継承者を失い、瀬田谷不動尊にて、わずかに残った石工家にひっそりと受け継がれるだけとなっていた。 |
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Q 藩政時代から続く小梨石材店 八幡二丁目
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旧・石切町は、1660年代(寛文の頃)には、橋の東南部にお城出入りの石切御職人の屋敷があった。石切橋から八幡町に至るこの道は、城下と石巻・山形を結ぶ要路で人馬が絶えなかった。
六両十人扶持の石切御職人の子孫で、現在のご主人で16代目、初代は、現代の現場監督の地位であったと言われているのが、この小梨石材店である。 |
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R 石切橋 八幡二丁目
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このコンクリートの石切橋は、「昭和六年八月竣功」、現在は、水の流れはなく、小梨石材店の敷地内を通って流れていた「巴川」にかかる橋である。
実は、この小さな橋の下を流れる沢が、国道48号線あたりでも、V字形の渓谷「巴沢」、「蟹子沢」、となって土橋を越えると「ヘクリ沢」と呼ばれて広瀬川へ下っていくというのだが・・。
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S 石切橋南側を望む 八幡二丁目
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石切橋の南側は、巴川が埋め立てられているために、現在は、かつての沢跡が歩道になっている。その歩道へ下りていく階段が付いている。
橋から10mも行かないうちに、これだけの段差があるが、さて、これより下流側はどうなっているのだろう?
下流側のV字の沢を埋める一大工事は、明治〜昭和の時代を待たなくてはならなかったというのだが・・・
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21. 「覚性院丁」通りと「春日社」 八幡二丁目
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石切橋から土橋通りまでの間が覚性院丁通りである。「覚性院」は、1642年(寛永19年)、国分盛重の子・実永が現・東六番丁小学校の地に建てた寺であるが、東照宮造営のとき敷地が御旅宮(祭礼の時に社殿から出た御輿が一時とどまるところ)となったため、1654年(明暦元年)、現在の春日祠のあるところに移った。
町名はこの寺の存在に因むが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。春日社は盛重の氏神と伝えられる。
そして春日社の鳥居の先を四ッ谷用水本流が横切っているのである。
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22. 土橋通り 南向き 八幡二丁目
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覚性院丁通りを進んで行くと、土橋通りに出る。旧来の道幅よりも広くなったといってもかなり狭く交通量も多い。
城下町特有の交差点は直交せず、ご覧のように鈎型に「北六番丁」の通りが左側に折れる格好になっている。
直進すれば、今回のスタート地点の国道48号線・土橋通りの交差点に戻る。高層マンション「ライオンズタワー広瀬」が見えるが、土橋通りが直線で続いていることがわかる。
私が立っているこの土橋通りの北向き(後方)に進むのも、なかなかおもしろいがやはり道幅が狭いのは気になるところである。
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