亜哉の2004年4月分の「写真日記」


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EOS 1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D-76



〜貞山運河 貞山堀 遠山地区〜

30.Apr.2004
 塩竃港から、貞山運河を戻り、牛生から多賀城市大代地区まで戻る途中の貞山堀である。
 左の護岸になにやら、カラータイルで絵が描いてある。貞山堀からの米の積み出しの様子である。右側の護岸は、岩盤を削ったままである。残念ながら、この岸辺には、原付バイクや自転車が数台投げ込まれている。盗難バイクかもしれない・・などと考えてしまう。
 貞山堀では、両側が小高い山の間を流れている遠山地区であるが、住宅地の中ということもあって独特の風景でもある。
 ここから、仙台新港へ逆戻りして、貞山堀をたどっていくが、どこが貞山堀かわからなくなった砂押川河口の大代地区がある。
 木曳堀から、まとめ始めているが、新堀、御舟入堀・・となかなか、貞山堀を一つにするのも、難しい。連日気温の高い日が続いており、野蒜築港へも足を伸ばさないと、草で見えなくなってしまう。ちょっと焦っている

EOS 1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D-76



〜貞山運河 塩竃港へ出る 塩竃市港町〜

29.Apr.2004
 塩竃市舟入から、塩竃港へ出る。この橋があるところが、「貞山堀運河橋りょう」のあったところである。
 左側には、見えていないが、第2管区海上保安本部、「二管本部」の巡視船が係留されている。保有艇には、船体に大きくコーストガードと書いてある小型の巡視艇もある。
 さて、これからどこへつながっていくのか・・・塩竃港から、松島湾へそして鳴瀬町(Naruse-cho)の東名運河(Touna-unga)へつながっていくが、すべて明治期の開削となっていく。
 東北地方の開発のために明治政府は、現在の鳴瀬町野蒜(Nobilu)に鳴瀬川河口に内港をつくり、野蒜と宮戸島の間の入江を外港とする壮大な計画を立てた。
 北上川から内港へ通じる運河・・後の北上運河の開削と、内港から貞山堀を結んで阿武隈川まで、野蒜港を拠点とした岩手・宮城・福島・山形県を経済圏とする構想であった。
 その港が、「野蒜築港」である。しかし、台風で一挙に壊滅し、「野蒜築港」は産業遺構として当時の壊滅したままの姿で現存している。
 その野蒜港を中心に開削されたのが、東名運河、北上運河である。野蒜築港跡、東名運河、北上運河をUPするのは、少し後になる。
 しかし、貞山堀もわからないところがあり、UPしていなかった部分もあったが、砂押川河口の宮城県中南部下水道事務所、宮城県土木部河川課のみなさんのご厚意により解明することができたことを感謝すると共に、撮ってきた貞山堀を阿武隈川側へ戻りたいと思う。

EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜貞山堀から貞山運河へ 塩竃市舟入〜

28.Apr.2004
 塩竃市牛生町から、舟入に向かって開削され流れていく「貞山運河」である。ところ狭しと個人所有のブレジャーボートが係留されている。河口や海とつながっている貞山堀は、海の干満の影響を受ける。そのため干潮時には、船の出入りは出来ないのである。もし出ようものなら、たちまち船底を破損する海難事故である。また、満潮時に大雨が降れば、降った雨が海へ流れず水害の発生である。蒲生地区の「御舟入堀」が埋め立てられ、排水機場ができたのも、こうした事もあるからで、私が複雑だと書いたのは、こういうことである。
 コンクリートが一部破損して、昔ながらの石積が露出している。フジツボや小さな牡蠣殻がびっしり付いている。このへんは、船舶の航行が多く、流石にバイクや自転車等の粗大ゴミはない。おそらく、海をよごす者がいないか、管理が行き届いているからだと思う。
 以前は、このあたりから、港地区を見ると、大きく異様な黒い塊が見えていた。「貞山堀運河橋りょう」である。鉄道用の可動橋で昭和7年に建造され、貨物輸送の最盛期だった昭和30年代から昭和50年始め頃まで、港湾活動を支え運河を通る船舶を見つめていた。しかし鉄道輸送の衰退、自動車輸送の発展により、平成5年には周辺道路の拡幅整備と共に取り壊された。近寄るのも怖いくらいの堂々とした無骨な黒い可動橋であった。これを記録していなかった自分が悔やまれることは言うまでもない。 


EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜貞山堀から貞山運河へ 塩竃市牛生〜

27.Apr.2004
「街道をゆく」から少し遠くなるが、司馬さんも『北は、とぎれつつも北上川河口の石巻付近までいたっている。そのあたりは明治につくられたもので北上運河という』広い意味での「貞山堀」も、狭く言えば、明治期に開削されたところと名称を区別して書いている。
 「貞山堀」が北上運河までどう流れていくかのか、右側から、ここ塩竃湾(千賀の浦)に入ってくる「貞山堀」の流れ。
 更に左側に開削されて、塩竃港・港町地区へ出ていくもう一本の流れ。2本とも広い意味での「貞山堀」である。
 しかし、土地の人は左側の流れを「あれは『貞山運河』だよ」と呼び名を変えている。「貞山堀」と「千賀の浦」と「貞山運河」ちょうど、船のT字路ともいうべくところが、ここ塩竃市牛生地区である。牛生〜舟入〜港町地区へと左側へ続く「貞山運河」、地元高校の挺艘部の艇庫があったり、新しいプレジャーボートが係留されているかと思うと、護岸が一部崩れて往時の石垣が露出していたり綺麗なところばかりではないが時の流れを感じさせてくれるのである。

EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜貞山堀、海へ出る 塩竃市牛生〜

26.Apr.2004
 司馬さんは、『米は本来、士農工商を養って藩を成立させている基礎で、身分算定の基準であり、いわば神聖価値が、どこかつきまとっている。それを仙台藩は、江戸初期から商品にした。この点、先進的感覚といってよかった』
 更に武功年表を引用し『江戸初期の寛永九年(1632年)「今年より奥州仙台の米穀始めて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州米(仙台米)の由なり」とあり、米の仙台の豪儀さをしのぶことができる。
 この米一筋の盛大が、仙台藩の経済観を単純にした。「殖産興業」という多用な商品生産の事業が、江戸後期、西国大名のあいだで流行のように活発になるのだが、そういう時代でも仙台藩は泰然として米売り一本槍であった・・・そうすることが江戸初期までの幸福をふやす道だった。江戸中期から日本の経済社会が変化し、諸藩は産業を思考した。中期以後の仙台藩は、それを怠った「沃土の民」だったのである』と結んでいる。
 仙台藩の経済を支えたのが、この貞山堀なのである。貞山堀なくして、仙台藩の米を江戸へ運ぶことは出来なかったのである。阿武隈川河口、名取川河口、七北田川河口、仙台新港、砂押川河口と4つの河川、そして港を横切って、藩政時代から幕末まで掘削された写真右側の「貞山堀」は写真中央に見える塩竃湾(千賀の浦)に出る。 この後、左側へ続く明治期に開削された「貞山運河」は、石巻、旧北上川河口まで、続いていく。私の貞山堀は、まとめにかかるが、これから、鳴瀬町の東名運河そして石巻市の北上運河へ向かっていく。

Canon A-1/FD50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜貞山堀(御舟入堀) 唯一原型をとどめず 蒲生〜

25.Apr.2004
 「街道をゆく」・・阿武隈川河口の亘理町納屋地区から、塩釜湾(千賀の浦)の塩竃市牛生地区へ、狭い意味での貞山堀の撮影を本日終えた。
 今日の写真も貞山堀の現実の姿である。七北田川閘門の対岸の小さな水門の裏側である。納屋地区では、水門の裏側は、葦原の中をゆったりとした貞山堀の流れがあったが、今日は全く違う。ご覧の通りである。私は今、貞山堀の真ん中に立っている。左のフェンス脇にコンクリートの排水路が通っている。ガイド板が立っていた「・・・・この付近は、当時「御舟入堀(Ofuneiri-bori)といわれ1658年(万治元年)〜1673年(寛文13年)にかけて開削され、年貢米、木材等が仙北地方から仙台城下に運ばれるのに利用されました。この運河は、仙台新港の建設にともない公園として整備され、現在は、周辺の排水の機能を果たしているほか、市民の憩いの場所となっています」とヒビが入って読みづらいレリーフに刻まれてある。
 なるほど、貞山堀が開削されたのが1658年だから、最初に開削されたのがここから千賀の浦までの区間になるわけである。今日は、日曜日、市民の憩いの場・・・誰もいない。近くの干潟には、バードウォッチングや散策をしている人が大勢いるのに・・。約600mでも埋め立てられていることは、わかっていても、非常に複雑だ。仙台新港に行くと、見えるはずの合流地点も、石油基地の敷地内のために立ち入り禁止・・ますます、複雑だ。
 しかし、こういうこともあった。仙台新港から多賀城市の大代地区で、砂押川と貞山堀が合流するが、どちらが貞山堀か、わからなくなった。「大代地区公民館」があったので、事務所を訪ねたところ、係りの方2名で「地図があったはずだけど」と探してくれたが、事務所の壁に貼ってあった地図をわざわざ外して「パンチの穴は開いているけど、良かったら使ってください」とさしだされた。流石に細かい所に手が届く地図で今後の撮影に非常に役に立つ地図であった。お礼を述べて撮影を続行できた。気分が晴れてきた。お天気も回復してきた。


ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mm F2.8
/ PRESTO /D-76




〜貞山堀 阿武隈川合流点 納屋〜

24.Apr.2004
 「街道をゆく」貞山堀は、ここにきて前後してしまうが阿武隈川河口の亘理町荒浜、納屋地区へ話を戻す。
 荒浜を司馬さんはこう紹介している『荒浜は、江戸期、仙台米を江戸へ積み出す港として、北の石巻とともに栄えた港である。ただし、遠望するだけにとどめた』司馬さんは、亘理大橋の上から見ていたからである。
 亘理町荒浜、納屋地区の貞山堀の入り口の現代の姿は、水門になっていることは今月の日記にUPしたが、その水門の裏側は、どうなっているか・・が今日の画像である。
 堤防になっているのかと思ったら、葦原の中をゆったりと流れている。水門と阿武隈川のコンクリートの護岸堤防がなかったら・・ゆったりと阿武隈川につながる貞山堀からの流れがあったのだろうと思う。
 明治期まで、掘削され、改修工事も幾度もあった中で、藩政当時の納屋地区の姿に一番近い風景なのではないかと思う。


ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P
75mm F2.8 / PRESTO /D-76




〜貞山堀 七北田川合流点 南蒲生〜

23.Apr.2004
 「街道をゆく」の中で貞山堀を司馬さんはこう書いている『南はこの荒浜付近から、北はどぎれつつも北上川河口の石巻付近まで至っている。その辺りは明治ににつくられたもので、北上運河という』
 亘理町荒浜の納屋地区から、一番はじめに『とぎれつつも』という場所が、ここである。私の家からは、直線にして3キロくらいだろうか、今立っているのが貞山堀の七北田川合流点の閘門(Komon)の上である。
 46年前に、ここには黒く塗られた木製の(おそらくケヤキが使われていたと思う)観音開きの扉の付いた閘門が2つ並んでいた記憶がある。
 七北田川閘門は、貞山堀と七北田川河口の水位の差があるため船舶の通過のために設けられたものである。そのため、閘門を開けたり閉めたりする人がいた。今では、1つのゲートしかなく、水位調整の役目以外にはないようである。
 写真正面右側に松並木、左にこんもりしとした森のように見える松林の真ん中、小舟が係留されている所、そこから貞山堀が続いていくはずであるが・・・その先の養魚場の脇を通りしばらく行くと貞山堀は姿を変える・・仙台新港の築港が昭和43年から始まったが、そのため貞山堀は現代人の手により、短い距離であるがとぎれるのである。しかし海でつながり多賀城市から塩釜市へと続くのである。
 船舶航行に使われなくなった貞山堀と国際貿易港として使われている仙台新港であるが、私が仙台を離れている頃であり、七北田川閘門も含めて当時の姿を自分が記録していないことは、非常に残念である。


EOS 1n /EF50mm f1.4 / KonicaPan 400 /D76



〜貞山堀とイグネ(屋敷林) 岩沼付近〜

22.Apr.2004
 「街道をゆく」から少し、話がズレルが、水田地帯に点在する屋敷全体をすっぽり包み込みような緑のこんもりとした森林を仙台市周辺でよく見かける。“杜の都・仙台”を象徴する貴重な原風景でもある。
 私が、中学生の頃には、伊達政宗の居城があった青葉山から、仙台の街を見ると森が点在して見えた。現在では、ビルが立ち並び水平線もよく見えないが、昔は、杜の都なんだなぁと実感できた。
 こんもりした緑の森は、何だろう。それは、農家等の屋敷の周りに、防風・防雪・遮蔽のほか、用材、食用、燃料など生活に密着した材料を得る目的で、主にスギ、ケヤキ、ヒノキなどのほか実のなる木が植えられている屋敷林なのである。

 このような屋敷林が『イグネ』(居久根)と呼ばれている。「久根」は土地の境の意味で、「家」あるいは「居(屋敷、宅地)」の境界につくられた樹木群が「イグネ」の起源だそうだ。
 政宗時代から、平野に水田開発が行われ、集落も水田地帯へ出来てくる。吹きさらしの平野に、強い季節風から家屋を護るために仕立てられたのがイグネなのだ。
 昔、中学の教師が言っていたのを思い出した。「藩政時代、石高や年貢を決めるため検地が行われたが、天守台(仙台城には天守閣がなく少し高くなっているところがある)から、検地をするとき、政宗は、頭が良いので屋敷林の後ろにも水田を作らせていたが、検地をする役人は森に見えるため、石高を過小評価したため、伊達は62万石になったのだ」と聞かされた。本当のようでウソのような話で、私にとっての真偽は今でもナゾである。

Canon A-1 /FD50mm f1.4 / PRESTO
/シュ氏標準現像




〜貞山堀へ 亘理町 納屋〜

21.Apr.2004
 「街道をゆく」の中で司馬さんは、『沃土(Yokudo)の民』という章で『じつをいうと、この大藩の経済活動は単純すぎ、徹底的に米に立脚しつづけたのである。むりもないことで、仙台平野という肥沃な穀倉地帯のおかげで、腹は十分養えるのである。しかも政宗以来、営々と新田を開拓しつづけ、実高は百万石を超えるといわれた。さらに江戸に近いという有利さがあり、仙台藩は余剰米を江戸送りして売った。江戸送りの米は、江戸中期には三十万石前後になった。巨大な米穀商ともいうべき藩だった』と仙台藩を分析している。なぜ「沃土の民」という章にしているかは、後日UPしていきたい。
 余剰米を出せるほどの新田開発と「貞山堀」が関係するかといえばそれほどでもない「貞山堀」は、海水が混じる汽水域で農業用水には不向きであるからだ。しかし貞山堀から水田へという水の流れではなく、政宗は、水田開発をするために、五間堀などの用水路も掘削して農業用水を水田へ導き貞山堀へと排水したのである。貞山堀は、排水路という役割もあったのである。
 もう一つの重要な役割が、『政宗のころ、仙台米を水上輸送するために掘った運河なのである・・・政宗以後も掘りつづけられ、これによって仙台平野の諸川はヨコ糸としてつながれ、南はこの荒浜付近から北はとぎれつつも北上川河口の石巻付近まで至っている。そのあたりは明治になってつくられたもので、北上運河という。全長47キロというなんとも長大な'遺跡'なのである』
 近代になって出来たこの水門が、貞山堀の入り口なのである。


Canon A-1 /FD50mm f1.4 / PRESTO
/シュ氏標準現像




〜貞山堀 亘理町 納屋〜

20.Apr.2004
 貞山堀と阿武隈川の合流点である。手前側は、新たに白っぽい岩石で整備されているが、対岸の突端は黒い玄武岩のように見えるが、まだ未整備のようだ。政宗の時代・・まぁ、そこまで、さかのぼらなくても水門が出来る前は、どうなっていたのだろうか。恐らく堤防と松林だけだったと思う。近代になってコンクリートの護岸がつくられたりしているが、現在の水門の反対側・・貞山堀はどうなっているのだろうか・・・。これは、中判で撮っているので、後日UPしたいと思う。
 ここのところ「街道をゆく」をここでUPしているような感じですが・・。どうまとめて良いやら、ちょいと悩んでいます。ありりりゃ、まぁ、本に忠実に・・とも思ったが、写すのは自分なので、忠実にも無理があるかにゃ〜で、ここを最終的にまとめれば、なんとかなるかにゃ〜です。←ファジィーなワ・タ・シ。

Canon A-1 /FD50mm f1.4 / PRESTO
/シュ氏標準現像




〜貞山堀 岩沼市仙台空港付近〜

19.Apr.2004
 貞山堀も、亘理町納屋地区から、岩沼市までは、比較的両岸は開けている感じだ。「貞山堀」という名前は、地図で確認してもらうとわかるが、阿武隈川を起点にして、石巻の旧北上川までの46.4Kmまでの広い意味での運河群の俗称である。慶長2年(1557年)伊達政宗が堀削に着手してから明治17年(1884年)まで掘るにほったり46.4Kmなのである。「貞山」というのは、『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』という伊達政宗の戒名よりとった伊達政宗の諡号であり、偉業をたたえて「貞山堀」と名付けたというのが通説である。
 運河群と書いたが「北北上運河(Kita-Kitakami-Unga)」「南北上運河(Minami-kitakami-Unga)」「東名運河(Tona-Unga)」「貞山運河(Teizan-Unga)」がつながっている。狭い意味での貞山堀は、阿武隈川の納屋地区から、岩沼市、名取市、仙台市、七ヶ浜町をまたいで、塩釜市の鶴ヶ浦牛生(giyu)まで、太平洋岸に沿っての全長33.38km区間である。この貞山運河、もっと小さく見ると「千賀の浦〜蒲生までの御舟入堀」「閖上〜蒲生までの新堀」「納屋〜閖上までの小曳掘」で貞山堀である。流石、日本一の運河である。奥が深い。
 写真は、貞山堀の中に建つ誘導灯である。ここから頭上をかすめて滑走路に航空機が降り立つ撮影スポットにもなっている。

Canon A-1 /FD50mm f1.4 / PRESTO
/シュ氏標準現像



〜阿武隈川 納屋地区を望む〜

18.Apr.2004
 
病院の帰り、仙台空港に行って、2年ぶりにターミナルビルに入って食事をした。支払いをして通路にでると、これまた2年ぶりに大阪への機内で出会ったフェアリンクのキャビンアテンダントのおねぇさんに会った。こういう時に、ロトシックスを買えばいいのかもしれない・・爆。
 岩沼市と名取市をまたいでいる仙台空港から、亘理郡亘理町荒浜の亘理大橋へ向かった。司馬遼太郎は、亘理大橋でタクシーを降り荒浜の町を遠望したと書いている。
 私は、そのまま橋を渡り、荒浜の町を背にして、貞山堀の起点である納屋地区を見ている。水門が見えるところが、貞山堀の合流点で ある。右側が太平洋である。貞山堀は、水深が浅いため、恐らく平底の船で米や物資を運搬し、ここから、外洋航行可能な船に積み替えられたと思う。
 今回、シャッター鳴き&巻き上げ鳴きのキヤノンA−1のレストア品とFD50mmf1.4の絞り羽根粘りのレストア後の試写も兼ねて撮ってみた。NFDレンズと比べて重いが、NFD50mmf1.4も絞り羽根粘りでレストア後の試写は行ってないのでどちらがウンヌンという話はできないが、使えるレンズが増えたのは、まぁいいかにゃ〜である。
 

EOS 1n /EF50mm f1.4 / KonicaPan 400 /D76



〜仙台空港〜

17.Apr.2004
 昭和15年、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として飛行場が建設されて以降、今日の仙台空港は、平成10年には、B滑走路が3000mとなり、国際線・国内線共にターミナルビルも新しくなった。航空大学校仙台分校。海上保安庁仙台航空基地。陸上自衛隊東北方面航空隊の一部業務もあるようだ。
 ターミナルビルも新しくなり、B滑走路の延長で、県道も一部地下に潜った。それでも、このゲートを見ると、空港というより、飛行場なんだと思う。レシプロ機の爆音が聞こえていた頃が懐かしいにゃ〜。 

EOS 1n /EF50mm f1.4 / KonicaPan 400 /D76



〜雷神塚古墳〜

16.Apr.2004
 雷神塚古墳、小さな小さな古墳である。サクラが咲いていないときは、見落としてしまうような古墳である。県道「塩釜亘理線」名取市下増田地区の道路脇にある。説明文によれば『この古墳は、浜堤の高まりを利用して築造された直径40m弱・高さ4mの円墳である。出土遺物はないが、付近に点在する経ノ塚古墳や毘沙門堂古墳などの古墳から5世紀頃の築造と思われている』ということである。
 10数段の階段があったので、登ってみた。ドーンと大きな石碑が建っていた「弔魂碑」である。後ろには、大東亜戦争戦没者の題字とこの地区出身者であろう数十名の名前が刻まれているやや小さな石板碑が立っていた。香炉には、御霊前と彫り込まれている。ぐるっと見回しても小さな古墳、低木も茂っており、完全な円墳の形には見えない。
 写真的には、どう写るかなというロケハンのつもりで撮ったが、絞らないとダメだね〜。中判か大判でキチッと撮るほうがいいにゃ。まだ散り始めていないので、明日も撮りにいけるかもしれない。
  

EOS 1n /EF50mm f1.4 / KonicaPan 400 /D76



〜貞山堀〜

15.Apr.2004
 昨日撮った「貞山堀」(Teizan Bori)である。いろんな人が、いろんな角度から撮って、Web上でも数多く発表されている。汽水域のため、フナ・コイだけでなく、秋になればハゼ釣りも出来る。
 司馬遼太郎著「街道を行く」シリーズの紀行写真を撮るためである。司馬遼太郎も、この風景は見ていないはずである。なぜなら仙台空港から運河沿いの道、それも、舗装のされていない、昔ながらの砂利道を私は走っているからである。
 司馬さんは、仙台空港から、亘理-塩釜線の亘理大橋へ向かっている。そして岩沼の竹駒神社で伊勢参りの犬、参宮犬について触れているが、一旦空港の脇まで戻ったのか、どのルートを通って国道4号線から入ったのかは、よくわからない。
  へそ曲がりな、私は、この日記では、司馬遼太郎が見ていないだろうと思われる角度からUPしてみたい。当然ながら、街道を行くシリーズは、別ページで忠実に再現してみたいと思う。           

Pentax Super A / M28mm f3.5 / PRESTO
/ シュ氏現像




〜ふぇ〜危なかった〜

14.Apr.2004
 今度は、スニーカーであります・・爆。シートから外れて、どっかと腰を降ろす。酔っぱらいのなせる技・・なんちゃって。
 このスニーカー君のご主人様は、女の子だったような。もう少しで、スニーカーがシート替わりになるところだった。
 これが、パンプスちゃんなら、もう一枚追加となったが、撮っているときは、パンプスちゃんでまとめようとは、おもってもいなかったので・・・。
 今日は、午後から仙台空港へ行ってみた。もう少し足を伸ばして、阿武隈川の河口の亘理町までいけばよかったのだが、仙台空港周辺の貞山堀を撮ってみた。「街道を行く」シリーズの開始である。
 夕方からは、東君と食事をして途中まで送ってきた。昼と夜では、情景が変わる。愛宕上杉通りまで話しながら歩いた。OM−2nブラックを持っていた。レンズは50mm1.8。カリカリでも好きな描写だという。

 5月の連休や夏休みは実家に帰るということだ。普段の休日は、まかせなさいね〜。行きたいところがあれば迎えにいくよ〜。
 街道を行くは、これから、現像・・・。はははっ、夜は楽しいね。

EOS 1n /EF85mm f1.8 / PRESTO / シュ氏現像



〜若いということ〜

13.Apr.2004
 若いね。こんなことを言えるのも、自分が年をとったからかもしれない。♪人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者の有るべきか♪
幸若舞『敦盛』の一節であります。謡曲かなと思ったら、幸若舞だそうです。
 そういえば、私も、♪五十年〜・・。わははは。少し、軽いなぁ〜。がはははっ、たまに壊れるなぁ、わはははっ、真面目に考えると疲れるなぁ。がはははっ、俺は、俺だなぁ〜。なんてね。
 サクラは、満開。まだ散りません。明日あたりが満開のサクラとの最後かな?まだ、カラーのサクラは、撮っていませんが、撮ってみようかな?お天気は、イマイチのようですが・・・。少し、遠くに行ってみようかにゃ〜。
サクラ見るたび節目かにゃ〜。

Pentax Super A / M28mm f3.5/ PRESTO
/ シュ氏現像




〜柔らかな日差しの下で〜

12.Apr.2004
 僕は、パンプス。ご主人様と一緒にお花見。芝生の上でゴロリン。柔らかな日差しで気持ちいいなぁ。ご主人様も、きっとゴロリンとなりたいんだろうなぁ?お〜い、ご主人様〜、背中がちょっと見えてるよ〜。ホラホラ。写真に撮られちゃうよ〜。でも、ご主人様も、春の日差しで気持ちいいんだろうなぁ〜。ゴロリン、僕は、もう少しゴロリンしてるよ。

EOS-1n / EF85mm f1.8 / PRESTO
/シュ氏現像




〜笑顔がいっぱい〜

11.Apr.2004
 みんなの視線の先には、デジカメがある。笑顔である。こうしてみると、このレンズ、コントラストがいいにゃ。ズイコーさんとは、だいぶ違う。 スキャンしながら、NFDレンズを見ていた・・あれれれ、絞りが動いていない・・・露出オーバーは、絞りのせいだった。絞り羽根の固着であった。旧FDレンズも見てみた、カビが少し・・ありりりゃ、これも絞り羽根の固着である。2個のレンズをレストアしながら、スキャン・・。
 今日は、郡山市で、後輩の結婚式だ。そろそろ、寝なくては・・と思いつつ、スキャン・・爆。
 やっぱり、寝よう・・・朝9時30分の新幹線・・・車内でも寝よう。

OM-2n / E.ZUIKO AUTO-T 135mm f3.5
/ PRESTO / シュ氏現像



〜頬ほんのりサクラ色〜

10.Apr.2004
 昨日のお花見の1コマ。50mm f1.8カリカリ・ズイコーは、嫌いだが、食わず嫌いも嫌いだ。望遠レンズで一番安い・・135mmの描写である。小さくて軽いレンズである。エッジもそう尖った感じもないし、周辺光量の低下も少ないようだ。自分的には、使える範囲だ。
 ところで春なんですねぇ〜。もともと、男所帯の花見に、今年は女性陣が加わっている。キャーキャーという感じでもないし、静かに酒を飲んでいる。逆に男のテンションが上がっているのかな?これは、女性陣から評価される以外にない・・・爆。
 20代の女性がわんさか・・・TVの取材も入った。ハットに黒いまあるいサングラスのカメラを持ったオヤジが写らなかったのが幸いである・・

Pentax Super A/ M28mm f3.5 / PRESTO
/ シュ氏現像




〜サクラ咲く〜

09.Apr.2004
 仙台市のシダレ桜の名所、榴ヶ岡公園。旧陸軍第二師団歩兵第四聯隊の跡地でもある。奥に見える白い建物が、残っている隊舎である。建物の位置は変わっているが歴史民族資料館となっている。皇軍の建物であるが展示物は、四聯隊関係の展示物は割合にしては少ない。平和を意識した展示となっている。私が中学生の頃は、同じ形の建物が数多くあった。公園化する工事が始まる前、入り口が閉鎖されたままの隊舎から、書類や飲みかけのコーピカップ、軍刀が部屋に転がって当時の混乱したようすの部屋が出てきてニュースになったのを覚えている。建物、施設は、そのまま警察学校に使われていた。現在は、すべて芝生の都市型公園になっている。
 シダレ桜の本数が多いが、ソメイヨシノが咲きはじめている。まだ花見客は少ないが、ビニールシートが並んでいる。後2〜3日過ぎるとサクラも見頃になってくる。今日も少し酒を飲み過ぎた。頭が痛い・・。


F.ZUIKO AUTO-S 50mm f1.8 / PRESTO / D76



〜雨降り〜

08.Apr.2004
 ポツポツと春の雨が降る。ポロポロと霰になった。そして、またポツポツと雨。コロコロと山の天気は変わる。来る時通ったこの先の下り坂。帰りは、ザーザー雪解け水が流れていた。まるでウォタースライダーだ。タイヤが水をかき分ける。ザーザーザー。
 やっと、サクラが咲き始めた。花見客も出始めた。まだまだ、ツボミのほうが多い。9日は、花見だ。花の下で静かにお茶でも飲もうか?


F.ZUIKO AUTO-S 50mm f1.8 / PRESTO / D76



〜雪解け〜

07.Apr.2004
 OM-2nで、コントラストを調整してみた。このぐらいだったら、まぁいいか。でも硬いなぁ・・・・・枯れ草のあるところは、予想がついていたので・・・爆。こんなところは、以外といけるかもしれないと、シャッターを切った。でも、ここまでいじらないとこうならないというのも酷な感じがする。
 でも、好みの問題なので、良しとしよう・・・このレンズは、冬眠だにゃ〜・・・爆。カラーならまた違った感じになるのかもしれないけど・・。
 こんな感じに、調整すれば2〜3枚の作例をUPしてもいいかにゃ?やはり、被写体を選ぶズイコーなのだと思う。ペンタックス、キヤノン、ミノルタの使用頻度が一層高くなりそうな感じがする。


F.ZUIKO AUTO-S 50mm f1.8/ PRESTO / D76



〜フキノトウ〜

07.Apr.2004
 OM-2n・・・枯れ草があって、ややオーバーのようで、まるで、アンシャープマスクをかけたような描写となった。紙焼きでなく、フィルムからのスキャンなので何とも言い難いが、こんなに硬いの?である。
 現像は、いつもと同じなので、特別変わってはいない。エッジがたっているようで、このレンズは好きになれない。コントラストを調整しようとも思うが、好みの描写とするには、かなりいじらないと・・・ということで、ちょっと、がっかりである。
 あくまで、好みの問題なので、このレンズが悪いということではない。コンパクト機のオリンパスECRの方が好きな描写だが・・。やはり好みが分かれるのがズイコーなのかもしれない。


EOS-1n / EF100 MACRO f2.8 / PRESTO / D76



〜高田梅〜

06.Apr.2004
 ここのところ、ポカポカ陽気・・桜のつぼみも赤く膨らみだした。日当たりの良い場所の桜は、咲き始めたが、仙台市気象台の標準木は、まだ咲いていない。もうすぐ開花宣言が出されそうだ。
 庭の梅が咲き始めた。他の種類の梅は、もう散り始めているが、この種類は、桜の咲く、ちょっと前から咲き始める。昨年剪定したが今年は、おおきな実がなってくれるだろうか?水仙も咲き始めた。水仙は、いろいろな種類があって好きな花だ。しかし、私の知っている女性達は、水仙が好きという人が少ない。さびしいというイメージがあるらしい。ん〜。どんな花の話題ならいいのだろう←オイオイ。
 ところで、升沢に、OM-2も連れていったが、1本撮りきっていない。
まだ10枚以上パトローネに入ったままである。水仙でも撮ろうかと思っている。クッキリ・カリカリ描写になるのだろうか?マクロ的描写が得意なのがオリンパスというイメージが自分にある。升沢のフキノトウは、どんな感じになっているか楽しみであるが、もちろん、オリンパスのマクロは持っていないから、F.ZUIKO AUTO-S 50mm f1.8の写りになるのだが、少しぽよよ〜んとした早春の感じが伝われば・・・でも、期待できないかも・・。30年前のテッサーと比較するのは酷かもしれないが、私の好みとしては、ピンがあるところはシャープで他はやわらかめ・・硬めでも、ニコンなら、まだストライクゾーンだが、エッジが立ったようなカリカリは、今の好みからは遠い感じだ・・・明日の夜は現像だ・・ワクワク。

EOS-1N / EF50 f1.4 / PRESTO / D76



〜雪解けの淵〜

05.Apr.2004
 升沢(MASUZAWA)地区の沢である。こんな上流まで来てしまった。まだ、残雪が残っていた。緑の季節になれば、沢の流れは、うっそうとした木々に隠れるのだろう・・。まだ冬枯れの景色である。
 フライフッシッングのおじさん達にであった。うまそうにビールを飲んでいる。ブドウムシのエサを付ければイワナも釣れるのだろうと思うが、フライの魅力は、よくわからない。私が以前釣りをしていたときは釣った魚を食べるためである。もちろんフライで釣った魚は食べる目的だとは思うが・・・もし、リリースすれば、魚は、死に至る・・以外と知られていない。スポーツとしての釣りは好きではない。命ある物で楽しむということが好きになれないからだ。釣れた魚に感謝しつつ、食べる。これが人間の縄文時代からの生き方なのだと思う。
 もっと水面近くに降りられたら・・奥入瀬渓流風な絵がとれるかもしれない・・。しかし、私の装備では、ケガをするのは間違いない。降りたかったけれども、淵の上の方から撮った。水の音、鳥のサエズリが時々聞こえる。ただそれだけの景色だった。

EOS-1N / EF50 f1.4 / PRESTO / D76



〜住んでいた証〜

04.Apr.2004
 大和町(TAIWA-CHO)升沢(MASUZAWA)地区のことは、昨日書いたが、撮った時は、ここに、家があったはずだよなぁ〜と思って、シャッター押した。
 現像を終えて、調べてみたら、全戸移転。すれ違う人は、フライフッシッングの釣り人、フキノトウを取りにきている人、彼女を連れてドライブにきている人、部落の人は皆無である。
 1本道、故に、追い抜いていった車、追い越してきた車と必ず対向する。カメラを持っていたのは、私一人だけだった。
 今回撮影はしなかったが、以前撮った廃屋も、まだあった。・・ますます、不気味で近寄る気さえ起きなかった。近づかない方がいいという直感・・・カメラを向ける気もしない。茅葺き屋根は朽ち落ち、張ってあったビニールシートもどこかに飛んでいる。ガラス窓だけが、妙に汚れもなく透明感があった。

EOS-1n /EF100 MACRO f2.8 /PRESTO /D76



〜春の訪れ〜

03.Apr.2004
 大和町(TAIWA-CHO)吉岡から舟形山への登山道へ向かう升沢(MASUZAWA)地区へ行ってみた。また民家が無くなっている。なんでだろう・・集団移転・・近くには、陸上自衛隊王城寺原演習場がある。 謎が解けた。沖縄駐留米軍の実弾演習のため、近接する升沢地区を「大規模緑地化」とするため、全戸移転が決まったらしい。結局は、日米両軍隊のために、土地を追われた・・ということである。私は、民族学とかは、良く知らないが、升沢地区の人々の生活、民具・道具類は独特の発展をしてきて貴重な資料だということである。
 私は、升沢に行けば、山菜料理やイワナの釣り堀で釣った魚を塩焼きにしてくれて、日帰りコースで、楽しめる所だった。どうりで、地形が変だと思った。道を間違えたと思って、分かれ道まで、戻って探してみても無いはずだ。あの真っ平らになっていた所、そこがイワナの釣り堀屋さんの跡地だったのかもしれない。
 そういえば、いたる所に防衛施設局・無断立ち入り禁止という看板が休耕田や空き地に目立った。その休耕田には、今年もフキノトウが顔を出していた。花の咲く前の小さなフキノトウを取って、天ぷらにして、ご近所にもお裾分けした。

NIKON 35Ti /35mm f2.8 /FOMAPAN /D76



〜二つの月〜

02.Apr.2004
 
お酒を飲んで、トボトボ歩いて、空を見上げる。二つの月があった。秋から冬の空気が澄んだ時、三日月を見ると、うっすらと丸い月に見える地球照も、春になってくると、空気が暖められて、輪郭がぼやけて、おぼろ月の季節になる。
 春の月夜の、代名詞・・おぼろ月、昼は、かすみ・・日本情緒だなぁ・・・そういえば、桜のつぼみも膨らみはじめたけど、今朝方は、ミゾレが降った。山沿いは、雪。車の屋根に雪を乗せた車が結構走っていた。今年最後の雪になるのかな?
 天気が回復してきたと思ったら、今度は、風がでてきた。今もビュービュー強い風が吹いている。
 少し桜もさむいかな?春の桜、今年は、カラーで撮ってみようか?でも、モノクロでも、また、撮ってみたいな。
 シャッター鳴きのA-1、修理に出していたのが帰ってきた。巻き上げ鳴きも無くなっていた。AE-1もA-1も露出制御は違っていても、同じFDマウントなので、同じレンズを使う・・明日は、フキノトウの写真を撮りにいってみようと思う。

NIKON 35Ti /35mm f2.8 /PRESTO
/シュ氏標準現像




〜怪しい手〜

cccc>01.Apr.2004
 左の方から怪しい手・・・札が握られている・・なんと・・・決定的瞬間?と、思うんでしょうが、実は、クレープ屋さんの前で、クレープ食べたい〜。しょうがないなぁ、ホレ、えっ、おごってくれるの〜ラッキーというのが真相なのです。登場人物は、全て、同僚であり、後輩・・タネを証せばなんてことはない日常なのです。
 しかし、これが、決定的瞬間!記者は見た!!なんてことになると、大変だ!写真が利用されると怖いなぁと思う瞬間なのだ。「今のテレビのNEWSは、ニュース・ショーだ」と言い切った元論説委員がいたけど、まさに、マスメディアが中立でもなければ、体制側のプロパガンダになっているという話だった。
 真実が報道の良心であるのだが、真実を書くと売れない。そこにヤラセがある。結局、売れれば良いんだ。ということだ。今回は、久々のシュテックラー氏標準現像である。ストロボを発光させないで、弱い街の光の方が良いと思われるカットがあった。ストロボでうち消してしまったのは、残念・・トホホ、である。逆に、うまくいったかなというカットもある。今日は、エイプリルフール、ジョークもでないほど不況の嵐、これからどんな世の中になるのか?はぁ〜タメ息。

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