亜哉の2004年5月分の「写真日記」
亜哉が撮った5月分の「写真日記」をまとめたページです。

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Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜大曲閘門           〜矢本町大曲付近〜

31.May.2004
 大曲閘門のゲートの上についている「歩み板」?である。
全体重をかけなくて本当に良かったと思う。ゲートは、開放のまま朽ちていくのを待っているような感じである。
 旧北上川から入る石井閘門と定川へ出る前の釜閘門との間が北北上運河である。それならば、定川から入る大曲閘門と鳴瀬川へ出る間の南北上運河には、この大曲閘門のみ造られたのだろうか。
 鳴瀬川側の閘門は、ないのかということである。結論的には、南北上運河の鳴瀬川側にも閘門はあったと記録に残されているのである。
 現在、鳴瀬川側の閘門は残っていないが、ちょうど浜市の「下の橋」あたりから野蒜築港の開削水路である新鳴瀬川が海に抜けていたと記録にある。そうなると定川側からみて「下の橋」へ行く手前に閘門があったはずである。このあたりは、まだ発掘調査がされていないが、おそらく何か埋もれているはずである。
 船舶航行用の水位調整をする必要性が無くなったと考えれば、閘門扉が朽ち果てようと何も手をいれないのも納得である。野蒜築港廃港の影響は、こんなところにもあるのかもしれないと思った。 

Canon AF35ML/40mm F1.9/PRESTO /D76



〜南北上運河           〜矢本町大曲付近〜

30.May.2004
 午前中、天気が良かったので大曲閘門(Omagarikomon)に出かけてみた。前回、なぜ、撮らなかったのか不思議だった。確かに、釜閘門(Kamakomon)を撮った時に、定川を挟んで見えていた。でも撮れなかった。確かに近くまで行っているのであるが、今日行ってみてわかった。
 北上運河に架かる橋と定川に架かる橋を通るのだが、車で移動すると道路から大曲閘門が見えなくて通り過ぎてしまったのである。北上運河沿いの道路は、片側が自転車専用道路となっていおり、橋で入れ替わるが、この閘門の片側は、更に私有地で柵が張り巡らされて通行止めとなっている。
 こうなると閘門へは、自転車専用道路を行くしかない。車を置いて、県道を歩いて、自転車専用道路の入口を探して、そこから運河沿いを歩いた。歩いていく途中にフェンスに白い網が干されていた。
 大曲閘門についた。荒れていて夏草が生い茂っている。ゲート上の歩み板に片足を載せると腐っていた。慌てて足を引っ込めた。閘門の扉は、全て開いていた。石巻の石井閘門と同じく手動式の設備であるが、もう何年も動かした形跡がない。
 反対側の釜閘門は、管理人さんがいて、少し話をした。油圧で扉が動作するようだ。「いい写真を撮ってください」と激励された。 

Pentax superA/M28mm F3.5/コニカパン400 /D76



〜「巻石」        〜石巻市住吉町〜

29.May.2004
 28日は、泊勤務で日記の更新はお休み。29日分を日渡りしてしまったが書いている。
 前回の撮影で、アンダーだった住吉公園前の雄島から撮影した「巻石」である。
 今日は、良いことが2つほどあった。2回目の住吉界隈撮影で、お世話になった方の住所とお名前がわかったのである。ヒントは「NPOスマートシニア」にあった。お会いしたときにお聞きしておけば良かったのであるが、大変失礼なことをしてしまったと自責の念でいっぱいである。さっそく、御礼の手紙を書くことにした。
 仮にSさんとするが、NPOの副代表もされている方で、良い人に巡り会えたことを感謝したい。
 もうひとつのいいことは、ミニラボに久々に行って、ついつい話し込んでしまったが、マミヤ6−KUに触らせてもらえたことである。私のはW型であるが、フィルム圧着板が蝶番式であったりと、なかなか使い易そうである。会社のカメラということで、おねぇさんと、これをこうしてなどとさわりまくってしまった。
 29日は、せっかくの休みであるが、また天気がよくない。北上運河をまとめはじめているが、定川の撮影時に、おろぬいてしまったところがあった。北・南北上運河が定川と直交するが、実は、釜閘門、大曲閘門と二つの閘門があるのである。片側が写真に写っていない。大失敗である。1回で撮影がうまくいくとは、考えていないが、素人ゆえのまた出掛ける楽しみかもしれない。
 今度は、住吉公園で、ゆっくり北上川を眺めながら缶コーヒーを飲むのもいいなぁ。そして携帯灰皿を忘れないようにしよう。 

Pentax superA/M28mm F3.5/コニカパン400 /D76



〜「石巻を救った」旧遊郭  石巻市横町 石巻市住吉町〜

27.May.2004
 旧遊郭である。小さめの窓、二階の手すりの飾り、小さく張り出した玄関、建物だけがまだ残っているのである。
 遊郭の話になると、大体の方は、顔が緩むか、厳しくなるか、どちらかであると思う。私は、どうだろう・・昭和33年に防売法の施行である。私が、まだ小学生にもならない時である。
 お二人に、いろいろな話をうかがうことができた。 終戦後の混乱期、石巻にも進駐軍がきていた。そうした中で、日本人だけでなく米兵も相手にしてくれる女性達がいたのである。
 サングラスをかけたおじさんがポツリと話した。『(遊郭の)女性達がいたから、石巻は、強姦の話がない。身をもって女性達が石巻を救ってくれたんだな』・・哀愁にも聞こえるし、誇りにも聞こえる。
 更に建物について「階段があり、入った人と帰る人が鉢合わせしないような工夫がある」とのことである。ますます、建物に興味がわいてきた。サングラスのおじさんとは、公園でわかれたが、私を案内してくれたAさんがこの家のおばぁちゃんに声をかけに玄関へ向かった。
 ピンポーンとチャイムの音、こんにちは〜と、おじさまの声、静かであった。「おばぁちゃん出掛けているようだね。残念ですね」の声。
 今度は、事前にお話をして伺おうとおもった。中を見れなくても、こうした建物を自分の目で実際に見ることが出来たことは感謝である。
  さて、女性達は、どんな様子だったのだろう。毎日11時頃にお風呂屋さんにいく姿があったということであった。 

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /シュ氏標準現像



〜舟板の家        石巻市住吉町〜

26.May.2004
 日渡りしてしまったが、野蒜築港から南北上運河の撮影と前回行った石巻住吉町の撮り直しのために石巻へ出掛けた。
 南北上運河は、鳴瀬川河口から、石巻門脇の定川河口までの流域となるが、護岸工事のため、大きく迂回しては、運河に出て、また迂回するという繰り返しの撮影となった。
 途中、空自松島基地があり、ここら辺は、運河と平行して走れるかと思いきや、ちょうど戦技研究班・ブルーインパルスの訓練フライトがあったため、側道、農道いたるところに車が止まっているため、農道から町道に出られず、バックで数百メートル行ったり来たり走るという体験を数回させられた。車を寄せておくのではなく道路を封鎖する置き方をする長玉オヤジには全く呆れた。更には「(フライトが)おわるまで待ってくれ」である。開いた口がふさがらない。バックする方がまだましだ。
 さて、滑走路エリアから離れていくと、また静かな運河と出会えた。このまま帰るのももったいない。石巻の住吉公園に寄ることにした。日和山もいいかもしれないが、巻石の撮り直しをしかった、迷わず住吉公園に向かった。
 公園で、ベンチにいたおじさんに「何を撮ってるんですか」と声をかけられた。前回撮影に訪れたこと等を話した。ここは、あそこは行ってみました?とポンポン地名や住んでいる人の名前が飛び出してくる。今まで疑問だったことを聞いてみた。「それじゃ案内してあげるから」ということになり、2時間くらい住吉町と横町界隈を案内してもらってしまった。申し訳ないという気持ちと感謝の気持ちが交錯してお名前を聞くの忘れてしまった。とんでもない失礼をしてしまった。
 氏は、住吉町に住んでおられる方で、NPOスマートシニア石巻の会員の方であった。千石舟の会にも関わっていらっしゃった、歩きながら貴重なお話を聞くことができた感謝・感謝である。(氏の写真を撮らせて頂いててたので、メールで問い合わせをした)
 この写真は住吉町内の木造家屋であるが、呼び名はわからないが、腰板?が舟板で出来ている。5cmぐらいの厚さである。「リサイクルだね」と氏が笑った。
 この後、旧遊郭へ向かうのであるが、「おばぁちゃんがいるので、声を掛けると中を見せてくれるから、・・いるといいけどね」・・なんと、旧遊郭の中へ入れてもらえる・・・初体験である。当然、今は住宅であるが、部屋割りもそのままになっているということであった。 

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /シュ氏標準現像



〜多賀城政庁跡 石敷広場        多賀城市高崎〜

25.May.2004
 多賀城跡は、市川・浮島の丘陵上にあり、900m四方の築地塀に囲まれた国府跡であり、神亀(Jinki)元年(724年)大野朝臣東人(Onono-ason-azumahito)によって創建され、発掘調査から、第T期の神亀元年の創建から天平宝字まで724年〜762年、U期の天平宝字の修造から伊治公砦麻呂(Koreharino-kimi-azamaro)の焼討まで、762年〜780年、V期の伊治公砦麻呂の焼討から陸奥国大地震まで780年〜869年、W期陸奥国大地震の869年〜10世紀中葉頃までと、奈良時代から平安時代まで続いた。その間、3回の大改修があり、奈良時代には、軍事担当の鎮守府もおかれたところである。
 朝臣とはなんだろう。天武13年(684年)にできた八色の姓(Yakusanokabane)制度で新たに創られた姓で、皇族以外の臣下では事実上一番うえの地位にあたるそうな。従来からあった臣(Omi)連(Mura)、首(Obito)、直(Atai)の上位に位置する姓(Kabane)を創ることで姓に優劣をつけ、待遇に差をつけることで、朝廷への忠誠の厚い氏(Uji)を優遇し、権力の掌握をはかったようだ。
 多賀城廃寺から約1.9Km、ゆっくり歩いて20分くらいの小高い丘にあるのがこの政庁跡である。玉石の縁石が並んでいる階段を登っていくと100m四方の基壇が見える。発掘調査前は、石碑が建てられ柵で囲われて保護されていたところが正殿跡である。
 正殿前にあるのが、この石敷広場である。奈良時代の天平宝字6年の改修で広場を石敷して造ったのである。ゴツゴツして尖った石もある極めて歩きづらい。なぜこんな石敷をつくったのか?私には謎である。今度聞いてみようと思う。そして、ここは、断然、中判以上、シノゴで撮るべき場所とつくづく思った。
 現在、正殿後ろの「後殿」部分が発掘調査中である。シートがかけられていたが、作業中に是非行ってみたいと思う。

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /シュ氏標準現像



〜多賀城廃寺 塔跡        多賀城市高崎〜

24.May.2004
 日渡りしてしまったが、昨日は、天気予報が午後から雨!石巻まで、行こうかなぁと思っていたが、取りやめて隣の多賀城市に行ってみた。
 多賀城市には、「街道をゆく」に登場する多賀城政庁跡や壺の碑がある。しかし、まだまだ、歴史的遺構がある街である。多賀城廃寺もその中のひとつである。多賀城の文献には出てこないが、多賀城と同一期に建造された七堂伽藍を備えた寺院である。福岡県太宰府の観音寺にきわめて類似している伽藍配置であると記されている。
 多賀城は、40年間に渡り発掘調査が進められ、過日、竹製の完全な横笛が出土している。また、舟も半分朽ちていたが出土し、この近くの東北歴史博物館(多賀城市)に保管されたとのことである。
 この多賀城廃寺も発掘調査が行われた後は、埋め戻されて公園化されているが、3mの基壇上の塔跡の礎石は、調査の結果、建造当時のままの位置にあり、移動された痕跡がみつからなかったのである。発掘時と異なるのは、礎石の上面を残して埋め戻されていることと、その上に着色モルタル状のもので塗り固められているだけである。
 中央の心礎の穴も16個の礎石もそのままである。心礎の穴の中に松ボックリや石が入っていた。おそらく子供が遊んだのだろうが、大人が教えてやってほしいものである。
 6月に入れば梅雨である。晴れの日は、また石巻へ行ってみることにするが、多賀城も魅力的である。ただし、書籍等において多賀城を説明する記述にまだまだ「蝦夷」が「当時の律令制度に従わないため」等、「蝦夷征伐」正当論的な記述が残っていることは残念なことである。 

Eos-1n/EF50mm F1.8/コニカパン400 /D76



〜北上運河        石巻市門脇〜

23.May.2004
 定川を横切る北上運河である。この橋を堺に、北北上運河と後方南北上運河に区分される。車から降りて撮れば、もう少しはまともかと思うが交通量が多いところであり、「やっつけ」では写真は撮れない。 晴れたら、ここから運河沿いに進みたいのであるが、自転車専用道路は、右岸か左岸か調べないとならない。
 トランクに折りたたみ自転車でもいれておけば、もう少し楽に撮せるのだが・・・。最近、折りたたみ自転車が走行中に折れるという事故が多いそうだ。安い価格は魅力だが、走行中に折れたらたまらない。
 うっそうと両岸に松の木が茂る。樹齢120年。北上運河を開削した時に自然に生えた松だということだ。東にたどっていけば、石井閘門にでる。西は、鳴瀬川にでる。走りたいが天気が悪い。
 和船を持っている友人と昨日会った。天気の良いときで、波が静かなら舟を出してくれるという。「俺は、釣りッコすっから」(私は釣りをするから)と笑ってくれた。
 実現すれば、奥松島から、東名運河に入り、鳴瀬川河口から南北上運河を通って野蒜築港の橋台を新鳴瀬川の水路内から撮る、そして石井閘門までの運河の旅である。ワクワク!

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜サウナ石巻第2駐車場        石巻市住吉〜

22.May.2004
 サウナ石巻第2駐車場である。立派な米蔵もある。このサウナの経営者はお金持ちだなぁ。旧家出身みたい・・・・と、思いつつ、まぁ、当時の住吉米蔵の雰囲気が出るかな?と思ってシャッターを切った。 しかし、本当に立派である。立派な黒塗りの車も止まっている。でも、気になるなぁ。と家の周囲を回ってみた。
 後で、気づいた。旧相馬藩別邸なのである。おそらく、子孫の方が現在のサウナ他の経営者の方なんだろうなぁ・・と勝手に想像しているが、手入れもされていて、いい感じである。
 石巻は、宮城県で仙台市に次ぐ、第2の都市である。ここに、旧相馬藩別邸とか・・教育委員会で案内板でも近くに設置してもらえたらと思うが、これも私の勝手な話である。
 旧毛利邸を前に紹介したが、ボロボロに朽ちていくのは寂しい限りである。個人所有だから、難しいのかもしれない。しかし、ここ住吉地区は、幕末から明治にかけての歴史の宝庫であると思う。
 財政難で地方は大変であるが、規模こそ小さいが登米町の明治村のように、現存する建物を残しながら町おこしをしているところもある。現存しない建物をレプリカで造って観光地化するのは嫌だ。しかし、登米町は違う。移築した建物もあるが、レプリカではない。
 この住吉地区も同じである。現存しているのである。レプリカではない。失ってから、○○跡では、悲しい。現存しているから、文学も、歴史も生きてくると思う。ちなみに、この住吉地区には、市長公館がある。前市長は、汚職疑惑で辞任されているが、現石巻市長には、かげながら、歴史の町・石巻を守って欲しいと思うのは私だけだろうか。

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜石巻市住吉地区住宅         石巻市住吉〜

21.May.2004
 民家である。いつごろの出来た建物だろうか。住宅なんだろうか?隣の建物の屋根は、雄勝石のスレートである。とっても気になる。歩いている人もいないので聞くこともできない。
 ちょうど、堀割跡の道路に直交している道路脇なので、幕末か、明治に建てられたのではないかと勝手に想像したが・・・。わからないので、これ以上書けない。
 北上運河をまとめようとしているが、北上川があまりにも、スケールが大きい。坂上田村麻呂、阿弖利為(Aterui)、安倍頼時、藤原三代、葛西氏、山内首藤氏らが、古代の北上川 の改修に関わっている。個別にどんな改修をやったのか調べてみたが、まず凄い、河道がすっかり変わるくらいの改修であった。
 北上運河の導入部で、すでにモタモタしているのである。
 外は、強い雨が降っている。写真の撮り直しは、台風が過ぎてからになると思う。今頃は、北上川も増水しているのだろう。鳴瀬川は、増水で砂が押し出されて、野蒜築港の遺構が顔を出すかもしれない。そんなことを考えながら、コーヒーを飲んでいる。

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜旧北上川          石巻市水押〜

20.May.2004
 救助用の浮き輪である。鳴瀬川の北上運河の合流点にも、こんなのがあった。使わないに越したことはないが、今まで、使われたことがあったのだろうか?
 ゆったりとした流れの、この北上川であるが、実は、原始以来、北上川流域は、洪水とのたたかいであったのである。
 旧北上川は、この辺で大きく蛇行して石巻湾に流れている。現在の北上川の河口は追波湾(Oppawan)に流れている。私は、よく「現在の」と付けて書いているが、河川名は「旧北上川」・「北上川」というのが正式名である。旧建設省の時は河川名板に「旧北上川」と漢字で表記されていたが、国土交通省になって「きゅうきたかみがわ」とひらがな表記になっている。河川名称の「旧北上川」は「旧北上川」であって、現在も過去もないのである。
 しかし、北上川の河川改修の歴史をさかのぼれば、坂上田村麻呂に始まり、安倍氏、伊達政宗、白石宗直、川村孫兵衛の大改修、そして、明治44年から昭和9年にかけての、追波湾への開削、河道付け替えいう歴史をたどっているのである。時の権力者の舟運の重要性と、洪水・治水の歴史でもある。
 伊達政宗以来の、穀倉地帯として発展してきた河川流域は、古代からの治水工事によって、生み出されたものである。

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜巻石          石巻市住吉公園 雄島〜

19.May.2004
 志賀直哉の生家を探して、歩いたところが住吉公園である。住吉神社があり、歌枕の碑ほはじめ石碑が多くある所である。
 小さな赤いタイコ橋がついている小さな島がある。「雄島」である。  カモが羽根を休めている四角な岩があった。これが「巻石」(Makiishi)であり、「石巻」が地名になったのは、この巻石であるという説がある。大淀三千風の「松島眺望集」の中で「石巻。川中に大きな岩あり、このかげ浪巴(Tomoe)をなせり。ゆえにこの名あり」と書き記してあるためである。
 近くには、歌枕の碑がある。「袖の渡」(Sode-no-watari)が、住吉神社の前なのである。源義経が頼朝に追われ平泉に向かう途中、ここから船にのり、一関に向かうが、船賃の替わりに袖を船頭に渡したという伝承がある。

 司馬さんの「街道をゆく」にも芭蕉や、藤原氏の話がでてくるが、石巻も、後日、まとめてみることになる。自宅から、有料道路で片道30分1100円の距離である。
 天気も悪かったが、この後、少し明るくなる。松をシルエットにしたのはうまくいったが、これじゃ夕暮れ・・トホホ。

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜石井閘門 旧北上川−北上運河合流点  石巻市水押〜

17.May.2004
 貞山堀を石巻へ向かって目的地である、旧北上川と北上運河の合流点にある「石井閘門」にやってきた。
 あいにくの雨だが、やった〜という感じである。レンガもすばらしいが土台の石がすばらしい。宮城県沖地震、昨年の宮城県北部地震と大きな地震にびくともせずに耐えてきている。明治の土木技術もたいしたものである。野蒜築港は、江戸時代の土木技術と外国の土木技術の両方が使われているが、ここも同じである。なにより現在でも遠隔操作ではなく、人の手による開閉作業なのである。そのため扉へのリンクもすばらしいのである。扉だけは鉄製に変わっているが、明治の建造物が現在でも現役というのが、すばらしいと思う。
 レンガの刻印は、フェンスの切れ目から入るしかないようで、あきらめた。フェンスの隙間から入ることは出来そうだが、入るな!というところへ入るのはマズイのである。
 さて、北上運河も旧北上川まで、でてしまったが、鳴瀬川河口からここまでの区間がない。ゆったりとして、夕ぐれは、最高の景色になるはずである。
 途中の撮影は、後日行うとして、なかなかいい街である。ブラ撮りもいいかと思った。こんどは、もう少し調べてから歩くようにしたいと思う。

Eos-1n/EF50mm F1.8/PRESTO /シュ氏標準現像



〜旧毛利邸         石巻市住吉町〜

16.May.2004
 雨は、降っていたが、北上運河の撮影のために、石巻まで出掛けてみた。小降りであるが、レンズに水滴が付いたカットもあった。
 さて、日曜日・・NHK大河ドラマ「新撰組」が放映されているが、この旧毛利邸は、石巻での榎本武揚・土方歳三・星恂太郎等が、二階座敷に陣取った場所なのである。二階の部屋には、激昂した土方歳三が柱に斬りつけたという刀傷が残っているということである。
 ご覧のように、一階部分は、以前店舗(毛利醸造株式會社とうっすらとガラスに残っている)に改造されているが、二階部分の床の間、違い棚、天袋、面皮柱、面皮長押など、高級材でつくられており、当時が偲ばれるということである。一般公開は、されていないようだが、外から見ても二階の屋根部や格子が痛んでおり、保存について石巻市に再考をお願いしたいものである。
 このあたりは、江戸廻米のため18棟の米蔵があったといわれており当時の堀割と思われてところも残っている。志賀直哉の生家があるという事で、雨の中を傘もささずに歩いてみたのだが、市の案内板には「志賀直哉の生まれた場所は諸説があり・・・住吉一丁目地内といわれています・・、直哉自身も『白い橋』のなかで「探してみたが跡形もなく」「石巻時代のことは記憶がなく」という記述をしており、石巻の生活や家の様子などは覚えていないようです・・石巻は数回訪れています・・」とある。
 仙台藩の住吉米蔵跡は、現在住吉小学校が建っているが、敷地内に当時の門柱らしきものが残っているが、学校脇の道路に案内板があるだけである。旧相馬藩の別邸も残っているが、地図があるのみで、どの家が別邸なのかは、はっきりしない、おそらくここが立派だから、ここだろうなぁと思うだけで、ちょっと不親切な感じがした。

Canon A-1/FD50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜阿武隈川河口の町         亘理町荒浜〜

15.May.2004
 サクラの咲く頃の荒浜の町である。荒浜小学校のある街中は、もうちょっと賑やかであるが、川沿いのこの場所は、静かなところである。
 なにしろ、町中は、車を止めるのに苦労する。ここらへんなら、20分くらいなら、防潮提への上がり口などは、迷惑がかからないのである。当然、漁業関係者優先であり、車がきたら、とっとと動かすのが礼儀である。
 荒浜から、仙台藩の米倉のあった深川へ・・・地図を見ているだけで大変である。古地図が欲しいところである。東廻り航路は、直行便だから、わりと楽であるが、それまでの内川廻りが大変である。海路・陸路・霞ヶ浦・河川である、JFC河川ネットワークでも考えないと無理かもしれないが、できる限りやってみようと思う。まず史料調べである。
 宮城のレンガ遺構は、遠慮して、函館のレンガ産業遺構を見られるようになった。私にとっては最高なのだが、さてどのようなコースにするかである。五稜郭は有名だけど、隣の四稜郭の土累遺構も見たいし、函館だけでも広い〜。美瑛の町には、今年も行けないにゃ〜。

Canon A-1/FD50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜亘理大橋より 納屋地区を望む   亘理町荒浜〜

14.May.2004
 
野蒜築港が、まとまって、北上運河へ行こうか。それとも、赤レンガのある品井沼へ行こうかなどと、考えていた。
 品井沼は、松島湾から高城川をさかのぼっていくと、鹿島台町の広大な水田地帯となっている。しかし、藩政時代から、大きな沼があり、洪水により、多くの犠牲者を出していた沼である。
 元禄時代から、沼の水を排水して松島湾に流すという壮大な工事が行われていた。元禄潜穴というのがあって、縦坑を何本も掘って、底を横につないで排水トンネルにするという大工事であった。その元禄潜穴も工事中に犠牲者をだした。なかでも「お墓山」の伝承では、殿様が巡視に来るとき大雨となり、責任を感じた7名が自刃をして、土まんじゅうが7つ並んでいる山とか・・横溝正史が聞いたら喜びそうな伝承がある。また、「おまん地蔵」があり、当時、工事をさせた悪い親方が、工賃を払えなくなって、16才の歌の上手なおまんを雇い、騙して人夫と共にトンネル内で酒宴を開かせ、酔ったところを見計らって、土嚢をきって、トンネル内で溺死させたという伝承もあるところで、更に、明治になってレンガ造りの明治潜穴をつくったが、ここでも犠牲者がでて墓や慰霊碑がある。更に、天明の飢饉もあり・・・いくら興味があるレンガ遺構でも、ためらってしまった。
 そんなわけで、今後の石巻を考えていたら、荒浜から江戸までの海運の記載が抜けているということで、荒浜の亘理大橋の登場になってしまった。

EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



北上運河より 野蒜築港市街地跡を望む    鳴瀬町浜市

13.May.2004
 野蒜築港と東名運河をまとめてみた。測候所跡などは失敗作である。いずれ、北上運河の撮影では、もう一度行くところなので、できたら撮り直してみたいとも思う。
 野蒜築港を、どうまとめようかは、悩みに悩んだ。悩んでも、これだけのことだが・・。字が多すぎる。写真よりも活字のウェイトが多い。削った。削っても、ここは、残したいなどとも思う。
 連休明けに、中南部下水道事務所のN次長さんから、手書きのお手紙を頂いた。「宮城県の土木史」という本のコピーも同封されていた。手書きで地図への書き込みもされていた。Nさんも、仙台港と砂押貞山運河の関係が気になって調べてみて送ってくれたのである。 塩竃港や仙台港のことが詳しくでている本であった。HPも見に来てくださって、楽しみにしています。とも書き加えられている。
 適当に書こうなんて出来なかった。野蒜築港もそうである。この日記に書いてあることだけでは、不十分と思った。最大の難関の野蒜築港部分を終えて、東名運河は一挙にまとめた。つぎは、北上運河である。更に自宅から遠く、車が使えないような市街地にも入る。ゆっくり進めていきたいと思う。
 仙台駅周辺は、撮ってあるが、北上運河が終わらないと、しっくりこない。でも、今日からゆっくり眠れそうである。

EOS 1n/EF100mm F2.8/PRESTO /D-76



〜野蒜築港 市街地跡   鳴瀬町浜市樋場〜

12.May.2004
 野蒜築港、市街地跡に建つ民家の裏手になる。住んでいる建物はこの建物の前に別棟で建つ。
 道路の周りが更地になっている。この更地の部分にも家が建っていたはずである。ここが集団移転地区になっていると気づいたのは、2回くらい通った後のことである。
 私が、始めて、この市街地跡を訪れたときのことは、日記に書いた。今日まで、いろいろ調べて、この地面の下にも、当時の下水道の遺構や工事に使われたローラーなど当時の遺物・遺構が埋まっているかもしれないと思うようになったのは最近のことである。
 この市街地跡、国家事業として始まった野蒜築港が廃港に決まった後、当時、官有地は、払い下げになるのが普通であったが、北海道での官有物払い下げ事件(一連の汚職事件)があり官有地の払い下げが問題視されたことから、貸し下げになったと推測されている。貸し下げになったことは、「野蒜築港市街地拝借払下願書(明治13年)」の存在でわかる。当然、多くの資本投資を望めるはずがない。それ故、急速にさびれていったのではないかと思われる。
 現在この地に住んでいる方は、そうした120年という時の流れの中で生活を営んでいたのかもしれない。こいのぼりが五月の風に舞っていた。

ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mmF2.8/
PRESTO/D-76




〜アーチ型レンガ遺構   鳴瀬町浜市樋場〜

11.May.2004
 
北上運河沿いの新鳴瀬川「下の橋」橋台の脇にあるアーチ型レンガである。敷いてあるように見えるが、研究者の方も謎であるということである。
 ここだけ、レンガのアーチ橋とは、考えにくい。なぜなら川幅に対してスパン間隔が開きすぎており、川の真ん中に橋台がなければ、支えきれないと思うからである。円弧も緩い、地面に敷いてあるようにしか見えないのである。
 真ん中の橋台と左側の橋台の間に川岸から木が生えている。野蒜築港120年委員会のフォーラム報告書にある写真には、この木より左側にアーチ型のレンガが写っている。
 草が伸びてきていたため、私は、フォーラム報告書(H11.6.11浜市小学校で開催)にあるアーチ型のレンガは見ていないので何とも言えないが、このレンガで出来たアーチをこちら側に移動したとは考えにくい。移動してあるとしたら、とんでもないことだ・・・。
 もし真ん中の橋台と対象に、このアーチが存在するなら・・どう考えればいいのだろうか?スコップを持って、ここら辺の草の下の土を掘ってみたくなる・・・。もし、発掘の機会があれば参加してみたいと思うのである。

EOS 1n/EF100mm F2.8/PRESTO /D-76



〜東突堤   鳴瀬川河口〜

10.May.2004
 鳴瀬川河口の台風により1/3破壊された東突堤の現在の姿である。竣工当時は何メートルあったか・・・東突堤173間、西突堤は、148間、両突堤の間隔は、300尺、干潮面以下では、265尺。航路の水深は、18尺〜14尺である。工費は、88742円である。石の大きさは、最大で200〜300才・・「才」?「1才」は「1立法尺」である。
 ちょ、ちょ、ちょっと、尺貫法じゃわからない・・でも、当時は、尺貫法が使われていたのだ。
 尺貫法だと区切りがよい、メートル法に換算すると、173間だから約314.5m、148間だから、約269.1m、300尺だから約91mとなるのである。
 尺貫法をメートルになおし、さらに四捨五入をしたりすると、当たり前の話だが数値が変わる。それが資料に、加筆がされたりして、「○○さんは、□メートルといったが、○△さんは、○メートルと言った。本当の長さは、どちらなのか?」という疑問がでてきてしまうのである。
 私も、今回、そういう疑問に引っかかってしまった。竣工当時から現在という時間の流れの中で、地形は変わってしまう。当時を忍ぶには、当時の尺貫法しかないと思うのである。
 市街地跡に残されている橋台の寸法も、調査報告書によれば、高さ2m45cm、長さ6m80cm、3つの橋台の端から端までの幅、10m08cm、両側の橋台の幅、1m13cm、真ん中の橋台の幅90cmとなっている。半端な数字に見えるが、尺貫法なら、何間何尺になるのである。
 しかし、石の単位である「才」これだけは、イメージが湧かなかった。
長さの単位の「間」、「尺」、「寸」は、馴染みがあったが、「才」だけはイメージが湧かなくて苦労した。「1立方尺」、なるほど、このぐらいか?ついでに禄高を表す「石(Koku)」1石のイメージは、一人、一日三食、米を食べて1年間一人が食べる米の量だという。わかりやすいと思うか思わないかは、生活習慣によると、つくづく思うのである。

EOS 1n/EF100mm F2.8/PRESTO /D-76



〜西側突堤   鳴瀬川河口〜

09.May.2004
 野蒜築港が廃港となる原因にもなった台風により1/3破壊された東突堤の外洋に面している反対側の西突堤(竣工当時は約270m)である。
 現在の西突堤の見えている部分の先端部である。突堤の上に乗ったから崩れるということはないと思うが、突堤の下は外洋である。これ以上は、怖くて先に進む気にもならない。
 この大きな突堤に使われている石が稲井石と言われ、北上運河を通って石巻の北側の稲井から運ばれてきたものである。北上運河は、資材運搬用に開削されたのである。
 土地の人からの話によると、チリ地震津波の時に、海が干上がり、突堤が続いているのが判ったと話している。この先にも突堤が沈んでいるのである。
 では、この突堤が当時のままなのかと言えば、そうでもない。なぜなら、明治以降の台風で度々、築堤から石がもっていかれ、その都度、修復しているという土地の人の話を聞いたからである。
 外洋への築港の成功例は、国内では鹿島港が始めてである。ファン・ドールンのとった工法は、オランダ式工法(粗朶沈床工)であり、波浪を伴う外洋での使用には耐えられない工法であったといえる。
 しかし、突堤工事は、難航するものの竣工し、内港機能を果たしていく。小型蒸気船が運行され、石巻−野蒜港−東名運河−塩釜港と水運が確立していくのだが、台風で突堤が破壊、砂の流入により内港が浅くなり、廃港へという悲運の歴史をたどっていくのである。

EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜北上運河  川平田船  鳴瀬町浜市漁港〜

08.May.2004
 野蒜築港跡を撮影しているときの、北上運河の浜市漁港付近である。明治14年頃は、野蒜築港の船溜まりになっていたようである。
 私は、運河沿いの岸辺に沿って歩いていた。ふと見上げると、薄暗い松の木々の間に、この木造船を見つけることができた。
 私が小学生の頃に貞山堀や河川で使われていた和船である。阿武隈川から、ここまで来るときにも一艘も見つけられなかった。岸辺にも、水底にもなかった船である。よくぞ、原型を保ちつつも、残ってくれていたと思う。
 船の材質は、今見れば松のようだ。黒い色も少し残っている。黒い色は、防腐剤なんだろうけど何だったんだろう。などと考えて、また歩き始めた。
 フィルムをスキャンしながら、野蒜築港を調べてみた。明治11年に着工して、明治15年第一期工事(内港完成)市街地には、測候所があり、三菱商事等の商社や銀行、米取引所等が立ち並び、「野蒜新町,ほうきはいらぬ,若い娘の裾で掃く」、ほうきで掃除をしなくても、お酌をする娘さん達の着物の裾できれいになる。それほど賑わっていたということである。
 その後、明治17年9月の台風により、突堤が破壊された。内港に大量の砂が入り使用不能、外港工事が始まる時に、当時の内務卿大久保利通が暗殺、更に財政不足から廃港とされたというのが概略である。
 そして、現在の市街地跡は、大正初年の地図では、すでに、荒れ地と針葉樹林だけとなっていた。そして昭和、平成と時がうつり、ここに住んでいる人は、平成17年までに移転することになっているそうです。更地の謎が解けた。またしても防衛庁の施策だそうだ。

ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mmF2.8/
PRESTO/D-76



〜北上運河 新鳴瀬川 合流点  鳴瀬町浜市〜

07.May.2004
 昨日撮影した野蒜築港跡である。5月3日に行ったときには、余裕がなくて、市街地跡をグルリと廻られなかった・・ここの場所は、自転車専用道路を通らなければ行けないからだ。行くのに3キロ、帰りに3キロ・・合計6キロ・歩いてみた。
 市街地跡には、イギリス式のレンガ橋脚が、3箇所架かっているがこの場所は、北上運河の側にある。対岸には、当時の道と同じ場所に現在も道が続いている。
 「兵共が夢の跡」鳴瀬川河口に作った外港・内港を併せ持った夢の港が明治期にあった。レンガ橋脚と開削した新鳴瀬川・・市街地跡には建物の礎石すら見ることができない。小樽や函館のようなレンガ造りの建物も当然ない。どんな市街地だったのだろうか?ヤブの中に、木造の家が建っている・・失礼な言い方かもしれないが、まるで開拓地のようだ。 ブルトーザーが動いている・・ヤブを切り開いているようだ・・腐葉土の湿った土の匂いがする。
 人が行き交い賑やかな街であったとある。想像すら出来ないが、このレンガ造りの橋脚が当時の一番ハイカラな建造物だったのかもしれない。

ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mmF2.8/
KonicaPan100/D-76



東名運河 松島湾(鳴瀬町東名浜)合流点   鳴瀬町東名

06.May.2004
 亜哉が天国に旅立ったのと、同じ勤務パターンだった。5日は、泊まり勤務、そして6日明け番で埋葬。今年も、泊まり勤務の明け番だった。ただ違うのは、今日の明け番は、職場から帰ってきて、写真を撮りに、また鳴瀬町の野蒜築港跡に行ったことだ。
 連休のコースと違って、最初から三陸自動車道を通った。なんと、家の近くのインターから、奥松島インターまで、たったの20分弱・・石巻の河南インターまでなら30分弱の計算なのである。それをGW中は、2時間もかけてしまった。
 私は、「高速交通機関の通行料は時間を買っている代金だ」と思っている。何でもゼニカネの時代かよ〜と思わなくもないが、確かに、短時間で行けるのはメリットである。
 ツメタ貝被害の松島湾東名浜である。木製の船が朽ち果てるに任せていた。何年ケ後には、鉄の部分だけ残るのかもしれない。それでも今のグラスファイバーの船よりましだ。グラス製の船は、いつまでも腐らずに幽霊の如くも漂っているのだから。


ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mmF2.8/
KonicaPan100/D-76



〜東名運河防潮水門  鳴瀬町東名〜

05.May.2004
 今年も子供の日、亜哉の命日である。やはり、この時期ちょいと辛いなぁ。
話を戻して、コンカパン100をD76、6分現像処理したのが、この東名運河防潮水門を撮ったものです。
 この時期、この水門の外側の東名浜は、潮干狩りで賑わうはずですが、今年は、潮干狩りができないのです。アサリの天敵であるツメタ貝が大量発生して、被害が出ているため漁協が潮干狩りを中止にしたということです。「徹底駆除をしていきます」という漁協の案内がありました。

ZENZA BRONICA S2/Nikon NIKKOR-P 75mmF2.8/
KonicaPan100/SD-20




〜野蒜築港跡 市街地入口 鳴瀬町野蒜〜

04.May.2004
 
明治になって開削された東名運河(Tona-unga)と野蒜築港跡(Nobiruchikuko)のフィルム現像を行った。
 ちょうど、プレストが切れていたので、コニカパン100を持ち出して撮ってきたのだが、D76の現像時間は、概ね6分でいいはずだが、SD-20は・・6分半でよかったようなと思ったが・・、プレストとは、全くトーンの出方も違うが・・生焼けのようになってしまった。若干コントラストの調整をして、UPした。
 司馬さんの「街道をゆく」では、野蒜築港には全く触れていないが、北上運河や東名運河は、この野蒜築港の構想があって開削されたものである。
 現在残っているのは、このレンガづくりの橋脚と工事の際に使った石のローラーと、日本初の測候所跡と鳴瀬川に突き出ている突堤だけである。現在の地図と案内板に描かれている図を重ね合わせると、大がかりな工事であったことがわかる。
 完成後に台風により突堤が破壊され、復旧よりも廃港を選ばれた内港・外港を併せ持った悲運の港でもある。外洋への築港工事の始めての成功例が鹿島港というから当時の技術に無理があったことは否めないが、しかし、完成させたことは、すばらしいことである。

EOS 1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜貞山堀 多賀城市大代地区〜

03.May.2004
 5月に入って、1日から時間をつくっては、今まで、撮ってきた貞山堀をまとめてきた。今日、阿武隈川から塩釜湾までの、狭い意味の貞山堀をまとめた。
 明け休みとつづくので、鳴瀬町の東名運河と、野蒜築港跡を撮ってきた。平日なら、さほど時間がかからないのだが、GW中、なんとかいけるかなと思ったのが、誤り・・・松島を抜けるのに1時間10分になってしまった。それでも、帰りは、有料道路を通って午後4時頃には、家に戻った。
 明日あたりには、UP出来るかとは思うが、ブローニーはコニカパンを使ってみた・・現像液はSD-20の自家調合である。どんな結果になるか・・始めからD76で処理したほうが無難かにゃ?
 写真は、貞山堀を撮っているときに、脇を通った小学生・・あっ、カメラもってる。何とってんだろう。あなた撮られるんじゃない。エッ、ウソー・・ケラケラと笑って行ってしまった。
 

/EF50mm F1.4/PRESTO /D-76



〜貞山堀 多賀城市大代地区〜

01.May.2004
 初夏を思わせる陽気が続いている。貞山堀の岸辺も、急に緑が増えてきたように感じるこの頃である。
 塩竃港から、貞山運河を戻り、牛生から多賀城市大代地区まで戻ってきた。砂押川(Sunaoshi-gawa)の河口近くに立っている。
 さて、どちらが貞山堀なのかである。左側は、宮城県中南部浄化センターの前を通って、砂押川河口に続いている。右側も、やはり砂押浄化事業所の後ろを通って、砂押川水門の近くに出る。両方とも河口に出る。さて、困った。開削の時期は異なっても両方が貞山堀なのか?
 当然、「街道をゆく」には、一切触れられていない。しかし、貞山堀は、砂押川河口から仙台新港へ続いているのである。
 県浄化センターと県土木部河川課へお聞きすることにした。浄化センターは、本来管轄違いであるが、資料を探して説明をしていいただいた。河川課でも、丁寧に図を書いて教えていただいた。ありがたいことである。
結論的には、左側が貞山堀(砂押貞山運河)で、右側は旧砂押川ということである。
 もともと、七北田川は、現在のJR多賀城駅辺りで、砂押川と合流し塩釜湾に流れていたが、1600年頃に七北田川を現在の河口(蒲生)に付け替え、その後、貞山堀の開削時に、当時の砂押川河口である塩釜湾から砂押貞山運河、現在の仙台港を横断し七北田川まで開削したということである。
 更に、昭和40年代後半に仙台港開削に伴い、砂押川を現在の河口である仙台港に掘削して付け替えたのが大代地区の開削歴史であった。

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