亜哉の2004年6月分の「写真日記」
亜哉が撮った6月分の「写真日記」をまとめたページです。

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Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜HAKODATE DOCK       函館市弁天町西埠頭〜

30.Jun.2004
 今回の凾館の旅での一人ブラ撮りの最西端が、ここ西埠頭である。赤と白に塗り分けられた凾館ドックの門型クレーンが眼前に見える。 そして、箱館戦争の激戦地、弁天台場があった場所も凾館ドックのちょうど船が係留されているあたりに見えていたはずであるが、明治期に、港湾整備で埋め立てられている。
 何が釣れるのだろうか?コマセを使っているので、サビキで小アジかサバを釣っているのだろうか?誰も竿を上げないのでわからない。ただ、竿先を凝視しているので、声も掛けずに通り過ぎた。
 そろそろ、腹がすいてきた。凾館の地ビールとパスタでも食べようか?また、海岸線に沿ってトコトコ歩く。振り返れば、凾館山が近くに見えた。午後には、ビュッカーさんと二人オフ会を行った。午前中の疲れはビールで吹き飛ばした(日本酒飲んでいたら、坂を這っていっただろうなぁ・・なんてね)

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜十字街の路面電車            函館市末広町〜

29.Jun.2004
 そろそろ6月も終わりに近づいたきたので、日記の日付を修正することにした。
 凾館の元町から、トコトコ電車通りを歩いて駅前へ向かっている。路面電車も新しいタイプかやら古いタイプやハイカラ号まで、脇を走っていく・・懐かしいなぁと思った。
 凾館の市電は、専用の軌道敷を走っているが、たまに甲高い汽笛が聞こえる。右折車が軌道敷に入ってウィンカーをチカチカいわせている。短急汽笛が、ピョ!ビョ!。それでも車は動かない。市電が停まった。車が曲がっていって、また市電が何事もなかったように動きだす。
 凾館の市電に乗った。運転士のみなさんが親切だ。おばぁさんが道を尋ねると、ドアから身を乗り出して、「あそこの道をまっすぐ進んで、今、車の出てきたところを右に行って、まっすぐ行くといいよ」「ありがとうございました」とおばあさん。そしてまた市電は動き出す。
  交差点をよく見ると、「操車塔」が見える。市電の線路のポイント切替や信号を制御するところであるが、自動制御されているらしく、人の姿は見えなかった。これまた懐かしかった。

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜テディベア              函館市末広町〜

25.Jun.2004
 通りに面したウッドデッキから大きなテディベアがこちらを見ている。
凾館ベイエリアから、凾館山に向かっていくと八幡坂になるが、ちょうど八幡坂を下ったところに、テディベア達が集まっている「はこだて西波止場美術館」がある。テディベア作家の高橋ミチ&ヒロのテディベアが展示されているテディベア専門の美術館である。
 私自身、テディベアに興味はないが、この巨大な、ぬいぐるみに惹かれて入ってみた。美術館展示スペースは有料であるが、ショップ内は写真撮影禁止以外(この巨大なクマさんのうしろ姿だけは撮らせて頂いた)自由に見ることが出来る。
 修学旅行の小学生の女の子達が、ショップに入ってきた。テディベアを見回していたが、値札を見て、スーッと出ていってしまった。手には、しっかり旅行のしおりと凾館市街の地図が握られていた。
 愛のテディベアだが、金を持っていなければ、愛は買えないのである。かわいそうな気がしたが、これも社会の現実なのである。

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜市民オペラ        函館市末広町 相馬倉庫〜

24.Jun.2004
 凾館の倉庫群というと、金森倉庫が定番という気もするが、隣の「BAY凾館」は旧日本郵船の倉庫であるし、周辺にも、実際に現役倉庫として使われている赤煉瓦造りの倉庫が多い。
 また、海岸沿いに、西埠頭に向かっていくと、石造り、レンガ造り、コンクリート造りの各社の倉庫群に出会うことができる。
 この倉庫も、コンクリート製であるが、現在は、倉庫としての役目を終えて、イベント等に利用されているのである。
 倉庫の中は、どうなっているんだろうか?ただ広いだけなのかと思うと、中で仕切られているのである。外からみると外観の造りだけが目に付くが、内部は用途によつて多種多様と言っても良いのである。
 たかが倉庫、されど倉庫・・奥が深い、物流の歴史がある。

Pentax superA /M28mm F2.8/PRESTO /D76



〜凾館スタイル             函館市大町〜

23.Jun.2004
 凾館の和洋折衷の木造建築様式の特徴を残す町家である。1階が和風の格子窓、2階が上下窓にペンキ塗りの下見板という独特のものである。
 しかし、住む人もなく荒れている。路地の方に入口がついているが、荒れ方がすごい。大町あたりから西埠頭へ向かう道には、こうした「凾館スタイル」の町家群が多く残っている。凾館山に向かって通りを数本越えていくと観光客が溢れる元町へ続いていく。
 十分に手入れのされている元町の建物群に比べて、大町のこうした住む人もなく朽ちていく建物が哀れである。
 函館市は昭和63年「函館市西部地区歴史的景観条例」を制定し(平成7年函館市都市景観条例に改定)、市民と行政のタイアップで、保護がされているので、簡単には取り壊されることはないだろうが、固定資産税の減免、改修費の補助であり、物件所有者に対する制度である。保有者の改修の意志がなければ、建物は朽ちていくのかもしれない。こういう家に住みたいという願望はあるが、実際住むとなると・・仕事はどうするか・・宝くじが当たらないかなぁ・・?

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜旧近藤商店               函館市末広町〜

22.Jun.2004
 旧近藤商店(海産物商)茶房・旧茶屋亭である。建造は、凾館市「伝統的建造物リスト」によれば、この建物とレンガ造りの防火壁のみ「明治期」とある。この建物が残った経緯を知ったのは、つい最近のことである。
  函館の街並み条例である「函館市西部地区歴史的景観条例」は、昭和63年に西部地区の歴史的文化的な環境を後世まで伝え残すために制定された。
 この景観条例では、単に重要な歴史的建造物をひとつひとつ保存・整備するだけでなく、一定の区域を地区として指定し、全体の景観を良好なものへと導くことを目的としている。
 景観条例で指定した歴史的景観地域の中でも特に重要な地区を、文化財保護法に基づき、伝統的建造物群保存地区として重ねて指定しているのである。
 今でこそ、こういう建物が残っているが、凾館もバブル期、条例施工前に多くの建物の駆け込み解体申請があったという。その都度、建物群を守ったのが凾館の市民運動なのである。
 この旧近藤商店も、平成3年12月、札幌の不動産業者からホテル建設のため、重伝建地区内の指定建造物である旧茶屋亭の解体申請が出されたのである。
 これに対し、函館市西部地区歴史的景観審議会は「ホテルのデザインが周囲の景観と調和しない」と、この計画案を差し戻した。二ヶ月にわたる討議の末、住居解体によるホテル建設が認められることとなったが、歴史的建造物の保存・再生の困難をまざまざと見せつけられた建物であるということである。

Pentax superA /M28mm F2.8/PRESTO /D76



〜末広町界隈             函館市末広町〜

21.Jun.2004
 函館市末広町・・明治・大正時代の建物が残っており、さりげなく昔のたたずまいを残している街である。
 一軒一軒、単独で撮すより、街並みを撮してみる。深谷米穀店は現役のお米やさんである。大正6年に建てられた木造2階建ての店舗は、一階部分が格子を持つ純和風で、2階は、ペンキ塗りの下見板と上下窓の付いた凾館に多い和洋折衷型の造りになっている。
 中国からの観光客が、路地をデジカメで撮影していた。何があるのかな?と思えば、路地である。なんで路地をとっているのだろう・・そういえば、自分も撮っているなぁ〜苦笑した。

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜旧函館郵便局舎            函館市豊川町〜

20.Jun.2004
 北海道の郵便制度の発足は、1872年(明治5年)で、北海道最初の郵便局が、現在の函館市大町の「海関所」内に「凾館郵便役所」として開設されたのが始まりであった。その後、大町に庁舎が建設され、1875年(明治8年)「凾館郵便局」と改称、移転を繰り返して、現在の豊川町に、1911年(明治44年)建造されたのが、この「凾館郵便局舎」である。約50年間、郵便業務が執り行われ、1962年(昭和37年)に民間に払い下げられた。
 正面は、旅行ガイドに必ず登場する、赤レンガの壁とツタの緑が鮮やかで、いかにもカラー向きな被写体であり、現在は「はこだて明治館」として、「金森倉庫群」と並んで、ベイエリアの観光名所になっているところでもある。
 左脇にまわってみる。華やかさはないが、質実剛健という明治気質そのままの重厚さが漂っている。
 ここもイギリス積みである。下部は、小口積みが延々と続いており、その上に石材がのって、イギリス積みでレンガが積まれているのである。窓のアーチ部分が重厚さの中で曲線の美しさを感じる。
 レンガの刻印探しをするつもりであったが、圧倒され、しばらく建物の前で時間が過ぎていった。

Nikon 35Ti /35mm F2.8/PRESTO /D76



〜ブラッケリー砲             〜五稜郭 郭内〜

19.Jun.2004
  凾館戦争当時の代表的大砲2門である。手前が、昭和36年、函館市内豊川町で発見された。旧幕府脱走軍が湾内に入ろうとする新政府軍艦を攻撃するために、築島台場に設置したイギリス製の「ブラッケリー砲」(射程推定:1000m)である。
 奥が、昭和7年七重浜、埋め立て工事の際に発見された、旧幕府軍艦「蟠龍」に撃沈された新政府軍艦「朝陽」の艦載砲で、五稜郭や箱館市内を砲撃したドイツ「フリードリヒ・クルップ商会」製の「クルップ(カノン)砲」(射程推定:3000m)である。
 1868年(慶応4年)暴風雪により、江差で座礁沈没することになる開陽丸にも16サンチ・クルップ砲18門が装備(榎本釜次郎・赤松大三郎の働きによる)されていたが、クルップ砲は建造当時の世界的な火砲の本流であったが、甲鉄艦に装備されていた射程・命中率の高いアームストロング砲は、性能が上であった。
 ブラッケリー砲Vsアームストロング砲、先込め式のゲペール銃Vs米国の南北戦争に使用されていたスペンサー銃という装備の面でも榎本軍と新政府軍の差は明かである。
 そして、戦後、会津戊辰戦争の白虎隊もそうであったように、賊軍としての榎本軍戦死者の遺体を埋葬することすらゆるされず、放置されていたたのも事実である。五稜郭の造営で請負業を営んでいた柳川熊吉は、実行寺の僧と共に、榎本軍の遺体を集め弔った。そのため新政府軍に捕らわれ斬首される直前に田島圭蔵によって救われたのである。(柳川は、明治4年、凾館山中腹に土地を購入し、「碧血碑」を建てた)
 榎本軍への協力者は、39人が捕まり、裁判によりその内24人が死罪、残党狩りでは斬罪となった。
 しかし、一番の被害者は、凾館戦争に巻き込まれ、通行税や、視界確保のために、家を焼かれた函館の民だったのである。そのため、新政府軍に協力する住民も出てくるのであった。
 野蒜築港計画で大久保利通内務卿の考えの中で、東北は賊軍であり、賊軍と言われてきた旧士族が沢山いると、いつまた反乱をおこすか分からない。それで東北に産業を興して、没落した士族に就労させて、あるいはその東北の産物、生糸、その他の産物を直接海外へ送る、いわゆる富国強兵、殖産興業を起こすためであったが、同時に北海道でも屯田兵として開拓と北方警備にあたるという旧士族の救済は、榎本脱走軍の義への答えであったのかもしれない。
 しかし、その苦労は、想像を越えるきびしいものであったと云えるのではないだろうか?

Eos-1n /EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜裏門側 見隠塁石垣             〜五稜郭跡〜

18.Jun.2004
  1854年(安政元年)幕府がアメリカと結んだ「日米和親条約」により下田と箱館が海港する。そりから1ヶ月半後ペリーは黒船と共に凾館の港に姿を現すことになる。開港後も、英・米・独・仏・露の船が入港して国際化が進んでくる。
 五稜郭築造前夜の背景には、こうした外国人居留に対する警備、列強に対する北辺警備、国内に吹き荒れている朝廷を擁して外国人を排斥しようとする攘夷の考え方があった。
 1802年(亨和2年)に「宇須岸(Usukeshi)河野館」跡地(現.弥生町)に箱館奉行所が設置されていたが、外国人居留地からも近く、海からの攻撃にも無防備であることから、箱舘奉行所の移転・新築が必要になってくるのである。
 幕府は、箱館奉行支配諸術調所教授役、武田斐三郎成章(Takeda Ayasaburo nariaki)に命じ、1857年(安政4年)から、7年の歳月と18万両の予算をかけて完成したのが五稜郭である。
 西洋式城郭として、死角がなく、火砲に対しての防御から天守閣は砲撃の的にさらされることから作られていない。フランス海軍から幕府へ献上されたフランスの築城書(築城家ヴォーバンの系統を引く、フランス式城郭)を武田が研究したということである。
 駐車場から「三の橋」を渡り、「裏門」から入ると「見隠塁」が正面に見える。この石垣は、函舘山の安山岩を使用しているが、「隅角」や「はね出し」などの重要な部分は備前産の花崗岩が使われている。
 石垣の積み方は、従来からの技術が用いられている。隣接する石の接合面をきれいに切り揃えて隙間なく積む、「打ち込みハギ」が採られている。 隅方は横目地を通す「切り込みハギ」で積まれているが、堀の石垣には安山岩と河原石が使われ、石面を加工せずに野面積みされている。裏門側の積み方は、やや雑である。このことは、予算不足による苦肉の策であると考えられる。
  同時に着工された、艦船に対する防御陣地が「弁天台場」(現・凾館ドック手前)である。大林組の広報誌「季刊大林」46号によれば、当時の工法の単位面積あたりの工費が五稜郭1に対して8倍の工費が、弁天台場にかかっていると言われいる。
 箱舘山から土砂を運んで、基礎部分は、海底の暗礁を削り、満潮時水面より1.2mまで野面石を積み上げ、その上に高さ10mまで盛り土をし、外周を高さ9mの厚い石垣で固めたのが弁天台場である。(1896年(明治29年)港湾改良工事のため埋め立て取り壊された・・一部、凾館漁港の岸壁として現存)
 埋立てと盛り土の推定土量(25万4千立方メートル)は、五稜郭の盛り土量にほぼ匹敵する。平坦地を掘削して、残土を土塁とし石垣も4〜5mに抑えた五稜郭との差であるといわれている。現在の工法を用いれば、五稜郭も弁天台場もどちらも60数億円で出来ると大林組では算出している。

Nikon 35Ti /35mm F2.8/PRESTO /D76



〜屋台             〜函館市松風町〜

17.Jun.2004
 小さな店が並ぶ松風町である。ホテルで聞いたお寿司屋さんへ行く途中の一コマである。
 柳の木が風に揺れているかすかに潮風が気持ちがいい。確か昔、夏と冬に、このへんを歩いた記憶があるが、よく思い出せない。松風町の電停に雪が積もっていたのを思い出した。
 しかし、今は、食い気である。あのころの凍てついた空気の中を海に向かって歩いていた自分は、どこに行ったのだろうか。海辺にあった網小屋は、もうないかもしれない。一ヶ月入院した病院も今は、どこにあるかさえ思い出せない。何か忘れ物をしたような、そんな想いが湧いてくきた。
 歩いていくと、屋台が出ていた。なんとなく懐かしくなった。少しづつ記憶が戻ってきた。待合室を病室に急遽変えて入院させてくれたドクターを思い出した。待合室から倉庫のような建物が見えていた。映画か演歌の興行のようなポスターが見えていた。
 ドクターの親父さんが仙台の東北大医学部出身だったというだけで、入院させてあげろ、食べ物も函館らしいものを食べさせてやれと、特別扱いだったということが退院の日にドクターから聞かされた。
 朝は、イカ売りのおばちゃんの声、夕方になると、お寺の鐘と教会の鐘が一緒に鳴っていた。そして夜は、流しのギターの音と立ち小便をする音が聞こえていた。そんな遠い日を屋台が思い出させてくれたのだった。

Nikon 35Ti /35mm F2.8/PRESTO /D76



〜四稜郭             〜函館市陣川町〜

16.Jun.2004
 本当に、しばらくぶりの更新である。6月8日〜10日、北海道函館市へ行ってきました。帰ってきて、即、現像したのですが、スキャンする時間がなくて・・・。やっと4本分が終わったところです。
 さて、明治元年、石巻の折浜から出航した榎本脱走艦隊は、直接、函館港ではなく、現在の森町、鷲の木浜へ上陸をするのである。
 今回の函館行きの目的の一つが鷲の木浜へいくことであったが、仙台−函館間の航空便は、1日一往復のみ、そのため函館に入ったのが、午後となり、距離的に鷲の木浜は、遠く断念した。
 しかし、函館戦争関連史跡としての四稜郭、五稜郭は時間をかけてまわることができたのである。
 その四稜郭が、この場所である。レンタカーのナビにまどわされながら、同じ所をくるくる回ってしまった。本当は直進なのに「やや右方向です。右です」って言われたら、曲がっちゃうよね。本当は直進なのに!プンプン!
 1869年(明治2年)五稜郭に立てこもる旧幕府脱走軍は、新政府軍の攻撃を想定し、各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるために、五稜郭の北へ約3キロの神山村(現、函館市陣川町)の緩斜面台地に、蝶が羽根をひろげたような形の稜堡を築いた。
 ここがその四稜郭である。周囲は、土塁と空壕をめぐらし、郭内の広さは、2300平方メートルである。4隅に砲座をもうけたが、建物はつくっていない。
 夏草が少し伸びているが、左奥の砲座へのスロープが見える。 小さな屋根が見えているところが郭内への出入口である枡形の虎口である。
 地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は、士卒以下200名、付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちに四稜郭を完成させたと言われている。
 同年5月11日、新政府軍は、函館総攻撃を決定した。同日未明に赤川村を出発した新政府軍(岡山・徳山藩兵)は、四稜郭を攻撃し、松岡四郎次郎率いる旧幕府軍は、四稜郭の防衛に努めたが、新政府軍に福山藩兵が加わり、更に、四稜郭と五稜郭の間の東照宮のあった「権現台場」(現、神山稲荷神社・神山3丁目)が、長州藩兵に占領されたため、退路を断たれることを恐れた旧幕府軍は、五稜郭に敗走したのである。
 尚、現地説明板の四稜郭の図を前日の過去の日記にUPしておきますので、よろしければ見てね。 

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜四稜郭 説明板の図        〜函館市陣川町〜

15.Jun.2004
 こういう図表の説明板の撮影は、デジタルが良いなぁとつくづく思いますが・・・。

Eos-1n/EF50mm F1.4/コニカパン400 /D76



〜多賀城廃寺 三重の塔跡 心礎     〜多賀城市高崎〜

05.Jun.2004
 多賀城廃寺である。誰だぁ〜。心礎の穴の中に、松ぼっくりや、石を入れたのは〜!である。周りにもこぶし大の石も落ちている。どこから持ってきたのか?材質は安山岩である。嫌な予感がする。
 さて、この心礎「厚さ3尺(約90cm)の安山岩の巨石の3/4を地中に埋め1/4が地上にあらわしたもので上面は平らに磨かれ、中心柱を受ける径2尺(約60cm)、深さ3寸(約9cm)の円孔がうがたれてある(宮城県昭和37年発掘調査報告)」である。
 昭和37度の発掘で、重弁蓮花文鐙瓦等の多数の多賀城創建時と同一の瓦が出土したため、宮城県は、多賀城の付属寺院として、ここを「多賀城廃寺跡」と呼ぶことになったのである。
 ところで、この多賀城廃寺跡の説明板に『多賀城は延暦21年(802年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営に移されてから後も陸奥国府として、また11世紀の前九年、後三年の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治5年(1189年)源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良(Noriyoshi)親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめている・・・昭和40年3月、文化庁、宮城県、多賀城市 昭和60年8月書替 多賀城市教育委員会』となっている。
 「街道をゆく」の中でも、司馬さんが『富士と政宗』の中で、北畠顕家について『奥州で顕家は多賀城にいた・・当時も、奥州の鎮所だったのである・・・・(第一次西上から)顕家はふたたび奥州へもどったが、・・・平野のただなかにある多賀城にいることすら危険になり・・』と北畠顕家が多賀城にいたとしている。
 多賀城がいつ廃絶したのか『続日本後紀』等の文献からも不明であるが、発掘調査から、造営第W期の陸奥国大地震(869年)から、10世紀中葉まで、1回の造営だけで、その後造営された形跡がないのである。なぜ、わかるのか。十和田火山帯噴火時の降灰地層である。
 北畠顕家の生きた1318年〜1338年と多賀城が廃絶したといわれる時代差は約350年である。350年の間、1回も造営跡がないというのは考えにくいのである。
 この疑問が、私の「街道をゆく」の第一章「富士と政宗」が未だに未完也という理由なのである。しかし、このまま未完にしておくことは、出来ないのである。「富士と政宗」の項では、この疑問を描きたいと思うのである。

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜多賀城政庁 石段      〜多賀城市高崎〜

04.Jun.2004
 多賀城政庁跡である。玉石の縁石で階段がつくられていが、このままの形で出土したわけではない。発掘後整備されて現在の形になっている。土は赤土を用いているが、当時から、赤土だったのかは、疑問である。「整備」されてという言葉は、埋め戻しなのか、レプリカなのかわからないからやっかいな言葉である。
 観光で訪れる方が多くいる中で、ボランティアで説明をしてくださるシニアのみなさんが、ここでも黄色のジャンパーを着て、説明をしてくれる。
 一番困るのは、私のような者が聞かれることである。私は、「あの黄色いジャンパーを着ている方に聞いてみてください。詳しく教えてくれますよ」と答えている。「この上には何があるんですか」「正殿跡があります。もう少し上ですから、ゆっくり登ってみてください」「ここは、当時からあるのですか」「発掘調査の後で整備されました」「そうでしょうね。レプリカですか」ギクッ、私と同じことを聞いてくる人もいるなぁと思いつつ「発掘した時は、こういう玉石で階段がでてきました」「そうですか〜」「どうぞ、ゆっくり見ていってください」オイオイ、いつから私は説明員になってしまったのだ・・。事前に調べているから、なんとか聞かれたことには、答えられたが、仙台人は聞いたことに答えてくれない。不親切だ!などといわれたら大いに困るのである。
 でも、私って、声を掛けやすいタイプなのかなぁ?・・・人畜無害!

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜カマ神様のいる家      〜石巻市住吉〜

03.Jun.2004
 カマ神様がこちら側を向いている。カマ神は、旧仙台藩領に相当する土地のみに伝えられている竈の神である。特に集中して存在しているのが、中世の葛西氏・大崎氏の勢力範囲と一致するというのも興味がつきない。カマ神がつくられていた年代は、1780年代から、1800年代に作られているのである。
 木彫りであるならば、制作者は、その家を新築した大工であり、土製であるならば、その家をつくった左官屋と云われている。
 土製のものは、竈近くの柱に、直づけされているのも多いが、煤で真っ黒である。目にアワビの貝殻がつけてあったり、杯の糸尻がついているのもある。
 竈の神として、屋内の竈付近の柱に祀ってあるものが多いが、屋内に悪病が入り込まないようにと戸口にむけられていることもある。
 特別展示として民族資料館に展示されるカマ神は、見たことがあるが、こうした街中で出会うのは驚きである。
 ナマコ壁に直づけされているのならば、このお宅も相当古いものである。なにより、この住吉界隈の歴史の古さの証明でもあるのだ。

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜旧毛利邸内部 土方歳三による刀傷  〜石巻市住吉〜

02.Jun.2004
 前作に続いて、石巻のSさんに、案内していただいた旧毛利邸の内部である。
 土方歳三、怒りの刀傷である。窓が閉まっているのと、この二階部分の部屋のすべての柱が、角ををとってある面皮柱が使われているため、見づらいかもしれないが、道路に面した東南の部屋の角に付いている。
 面皮柱は、建築でいう、ワビ、サビの世界を表現するために必要なものということである。面皮柱となる原木は、最低でも35年以上の良質なものでなくてはならないそうで、現在でも、鴨居等との寸法を合わせるため、現地で磨いて削るという作業が必要であるため、職人の技が必要だということである。
 近年では、面皮をだすために張り合わせをして面皮柱風の柱材もあるようであるが、それでも高価である。
 こうした贅沢な部屋をつくった毛利氏は、藩政時代から、この住吉米蔵の管理を代々行ってきた旧家であり、現在でも、住吉町の別の場所にお宅があり「毛利コレクション」は有名である。
 話を戻すが、何故、土方歳三は、怒って刀傷を付けたのか?仙台藩が奥羽列藩同盟の中にあり、今後の幕軍の一員としての対応をどうするのか、煮え切らない態度にあったのではないかという説もあるようだ。
 この刀傷は、畳面からさほど高くない位置についている。恐らく窓が開いていたのだろうと思うが、大上段に構えて、振り下ろして付けた傷ではないように私は思う。会津若松市にある旧会津本陣に付いている刀傷とは、位置も角度もだいぶ違っている。殺傷のためについた傷とは明らかに異なるようだ。
 私の勝手な想像だが、土方歳三は、座って開け放たれた窓から、この界隈を見ながら、榎本武揚らと話をしていたのかもしれない。じれんまに陥り、立てかけていた刀を抜いて、くそったれ!と、まぁ、その程度の怒りだったのではないかと思うが・・、これだけは、土方本人に聞くしかわからないし、彼は、函館戦争で終焉を迎えている。
 誰かが書いた手紙等が見つかれば、あるいは、この時の土方の心境がわかるかもしれないが、専門に研究している方の成果を待つ以外にないのかもしれない。

Eos-1n/EF50mm F1.4/PRESTO /D76



〜旧毛利邸内部 階段        〜石巻市住吉〜

01.Jun.2004
 石巻のSさんに、案内していただいた旧毛利邸の内部である。狭く急な階段であるが、外光を受けてやさしい感じがした。
 幕末、この階段を上り下りした人物がいる。函館へ向かう途中石巻に滞在した榎本武揚、土方歳三、、星恂太郎らである。かれらは、この階段を登り、東南の角部屋に陣を取った。
 この建物は、毛利氏が売りに出したものを、現在ここを管理している方が30年前に買い取ったものである。管理をしているおじいさんに話を聞いた。
 この建物に、土方歳三の刀傷があることを知らずに購入したそうである。親戚の方から、はじめて聞いてびっくりしたという話であった。
 そういう私も、刀傷を見たくて訪れたのである。
 そして、案内してくれたSさんと二階で3人で話した。
榎本脱走艦隊に追っ手が迫っていることを教えたのが仙台藩士細谷十太夫直英で、大量の食料その他物資を渡したという本の記述は、あるが、その中に毛利氏の名前が全然出てこないというのである。榎本艦隊は、仙台藩の外港である寒風沢に終結後、折浜に停泊し、陸路を通って石巻へ入った。
 石巻から折浜までの陸路を大量の物資を運ぶためには、物資だけでなく、輸送手段である荷馬車や荷車が大量に必要だったはずである。相当の力がなければ短期間に物資なり輸送手段の確保は困難であったと予想が付く。
 では、それらを用意したのは誰なのか、当時の毛利家当主であった毛利理惣治であったのである。歴史には、までまだ埋もれていることがある。歴史の紐をほどいていくのはワクワクするのである。

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