亜哉の2005年4月の「写真日記」
亜哉が撮った4月分の「写真日記」をまとめたページです。
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Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 干し柿       栗原市 旧・栗駒町 〜

29.Apr.2005
 社宅の南側に干されていた。いつから干されていたのだろうか?
 まだ干しあがってないから、食べられるようになったら、自由に食べてくださいね。お世話様でした。と引っ越しの挨拶をしたのかもしれない。
 近所の人が場所を借りているのかもしれない。
主なき家の食べる人なき干し柿の・・・下の句がうかばない・・宮千代か〜なんてね。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 時計も止まって      栗原市 旧・栗駒町 〜

28.Apr.2005
 傾いた柱時計が、5時で止まっている。何か意味があるのだろうか?それともゼンマイを巻き上げる人もいなくなって自然に止まったのだろうか?ここも、レンズを窓ガラスにくっつけての、ガラス越しシリーズ?になってしまった。
 こういうときにいつも思うのだが、後、数カット撮っていればなぁと・・。気に入るカットが撮れたはずである。詰めが甘いなぁ〜と・・笑。
 でも、手前の白いのは何だろう?フトンの類ではないようだ。機器に被せてあるカバーだろうか?写り込まなければ良かったと・・笑。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 仮眠室          栗原市 旧・金成町 〜

26.Apr.2005
 レンズを窓ガラスにくっつけて、ガラス越しに撮した。
石油ストーブに、電熱器、押入には、フトンとマクラ、ホコリがうっすらと積もっていた。
 PLフィルターでも持っていけば、反射を押さえられたかもしれない。反射がなければ、使いたい写真だったのに〜。
 今日は、東京に朝の新幹線で向かいます。また日帰りで、夕方には、新幹線の中。時間があれば、本郷にも行きたいところなのですが、また機会を逃がしてしまいました。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 高砂堀(七郷堀)   宮城野区宮千代 〜

25.Apr.2005
 先日UPした、七郷堀なのてすが、いろいろ調べていくと、広瀬川の愛宕橋下の愛宕堰から取水された七郷堀は、六郷堀・七郷堀分水堰からへそれぞれ六郷堀、七郷堀に分かれ、分水される都度、高砂堀や中堀などと名前が変わっていくのでした。
 ここ宮千代付近は、現在の若林区役所付近から分水されて高砂堀と名前がついているところでした。
 その堀によって、農業灌漑用だったり、防火水利になったり、舟運だったりと、目的がいろいろあったようです。
 七郷堀をたどっていけば、分水されて若林区から宮城野区を走っているようです。こんなに細い堀でも、名取川
水系広瀬川に属しているのですから奥が深いです。
 さらに、貞山堀をUPしていますが、そこから、また細い堀に分かれていって、これまた大変な事になっていきそうです。舟が通れる水路をつくって、人が舟を曳いて米を運ぶ、舟曳き堀もありました。どこまで、深く入っていくか?水運ネットワーク改め、水運ライフワークになりそうです。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 くさむら塚         金勝寺 境内 〜

24.Apr.2005
 つつじが岡公園から、南へ坂を下ると、地下化された仙石線の榴ヶ岡駅跡の交差点の先、仙台サンプラザの裏手に、このお寺さんがある。
 私が子供の頃は、鬱蒼とした木が生えて、法定伝染病患者を収容する「榴ヶ岡病院」があり、お寺さんの墓地が続いて、昼間でも薄暗い感じのところだった。
 今では、そのお墓の、ど真ん中の地下を仙石線が通り、地上部は、宮城野通りとして、フルスタ宮城へ行く広々とした道路になっている。
 仙石線の地下化工事で、大量の人骨がでたというのが新聞に小さく載っていたが、計画から、丙申(天保7年)の飢饉で亡くなった人を大きな穴に葬った塚を通ることは予想されてたが、工事で数カ所の塚を通ったとあった。
 その塚が、この「くさむら塚」なのである。金勝寺の2つの塚と徳泉寺の2つの塚と会わせて2700人を葬ったと記録にある。その人骨が工事で出てきたのだ。
 金勝寺の二つの塚は、離れた所にあったものを、ひとつにまとめられて、今は、門を入った境内の左側にあり供養されている。
 まわりのお寺さんにも、「くさむら塚」は、あったが、仙台駅東口一帯の都市計画に基づいて、寺院、墓地共に移転しているが、ここら辺が藩政時代の宮城野の西端と考えていいのではないかと思う。

ZenzaBronica-S2 /NIKKOR-P 75mm F2.8
/PRESTO /D76



〜 キノウノサクラ          榴ヶ岡公園 〜

22.Apr.2005
 まだ満開になっていない仙台のサクラ。ソメイヨシノがやっと満開、シダレザクラはまだ花が小さい。
 「榴ヶ岡公園」と書いたが、本来は、古い文献にも載っているように「躑躅が岡公園」と書くのが正しいのだそうだ。もしくは、ひらがなで「つつじが岡」と書くべきという指摘の声もある。
 公園の隣に「榴岡天満宮」があるが、標石には「躑躅天(満宮は土に埋もれている?)」と書いてある。「榴岡」の「榴」とは、「ザクロ」のことを指すとのこと。誤字がいつのまにか、本当の漢字を押しのけた地名表示になっているところである。
 遠くは、源頼朝の平泉追討の時の、藤原泰衡の館跡が、つつじが岡天満宮付近であったと言われている。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜回廊跡と伊達正宗建立の鐘楼  若林区木ノ下 〜

21.Apr.2005
 陸奥国分寺は、聖武天皇の勅願によって今から1200年前に全国に建立されたとある。
 この本州北限の陸奥国分寺跡の建立年は、いつ頃か?素朴な疑問である。
 出土した瓦から推測された創建年代は、741年(天平13年)から767年(天平神護3年)の26年間の間であり、陸奥国府が多賀城にあった時期と重なる。更に、七堂伽藍が完成するまでは十数年から数十年かかった寺院であることが推測される。
 大きさは、建立当時の長さは、天平尺であり、もちろん尺との差がある。天平尺と尺とメートル・・何百尺・・どっから、とこまで?あ〜あそこの先から、ここの奥まで、広〜い。ん〜、空撮でもするか?前途多難、でも撮影は、続きます。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜宮千代の墓          宮城野区宮千代 〜

20.Apr.2005
 宮千代塚は、以前あったところから10m移動しているとのことである。碑の土台が雨で流され不安定になってきたので、平成13年からこの場所に建っているとのことです。(移動する前に撮っておきたかったです・・涙)
 宮千代塚の由来は、昔、松島寺(現・瑞巌寺)の高僧、見佛上人に仕えた宮千代とういう才色勝れた子供の坊さんで。ゆくゆくは和歌を上げて京へ修行にでるといわれていたが、ひそかに和歌の修行に京を目指した。
 宮城野原にさしかかったとき、折りからの月明かりに照らされた草原は、露の玉か宝石のように輝き、詩情を誘った。
 「月は露つゆは草葉に宿かりて」と上の句を詠んだが、下の句が続かず苦吟を重ねて病に罹り、里人に引き取られたが看護の甲斐無くして悶死した。
 里人は哀れに思い、懇ろに弔い塚を建ててやったが、夜な夜な宮千代の亡霊があらわれ「月は露つゆは草葉に宿かりて」と口ずさんだ。
 このうわさを聞いた見佛上人は、ある夜、宮城野原の塚のほとりにさしかかると「月は露つゆは草葉に宿かりて」と声が聞こえたので、「それこそそれよ宮城野の原」と下の句を手向けてやると、その後、亡霊もあらわれず歌を詠む声もしなくなったという言い伝えがある。
  宮千代の地名は、この亡霊伝説から生まれたものであるが、現代は、月明かりはあっても一面の草原はみられない。草原がみられたのは、藩政時代あたりまでかもしれない。(最近、キャプションが長過ぎ〜・・反省)

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜七郷堀          宮城野区宮千代付近 〜

19.Apr.2005
 仙台市は、杜の都として現在も例えられているが、明治以降は、学都、軍都としての顔も持っている。
 仙台駅の東側一帯が、かつては、萩が咲き乱れ、鈴虫の声が聞こえ、都人が憧れた宮城野であった。白河からこの宮城野を通り、多賀城、塩釜、松島、石巻、そして遠く平泉以北まで東街道が続いていた。そのため、奈良時代から、人々が行き来していたところでもあった。
 途中、病で命を落とす人もいたようで、原野の道の傍らに葬られた人もあったということである。そういう土地柄もあり、ホラー映画なみの話も伝えられている。
 この宮千代という町名も、亡霊伝説からついた町名なのである。
 そして、フェンスで囲まれているのが、近年、通念、通水・親水事業として護岸工事がされて生まれ変わった七郷堀である。藩政時代に広瀬川から愛宕橋下流の愛宕堰から分水し、田畑を潤し、船運や染め物などの地場産業を支え舟丁、南材木町、南染師町などの地名を残してきた藩政時代の水運ネットワーク、七郷堀である。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 陸奥国分尼寺金堂跡    仙台市宮城野区 〜

17.Apr.2005
 くりでんの写真の整理がある程度終わったので、次の「宮城野」に出かけた。
 平安時代の「宮城野」の概念は、白河から、多賀城へ続く「東街道」の途中にあり、仙台平野全体を指しているようだ。
 藩政時代になると、「宮城野」は、現在の「宮城野原」近辺、住所で言うと、宮千代、萩野町、宮城野、木ノ下、銀杏町、五輪、榴ヶ岡あたりのイメージができあがってきているようだ。
 「宮城野原」という駅名があるが、現在は、原っぱなどは皆無で、住宅地・商用地になっている。その宮城野の中で、広い場所といえば、明治に出来た練兵場跡にたつ、フルスタ宮城や陸上競技場のある場所と、陸奥国分寺薬師堂のあるあたりである。
 平安時代に建立された陸奥国分寺は、奥州攻めで源頼朝に焼かれたが、藩政時代、伊達政宗が陸奥国分寺跡に薬師堂を建てた。現在の陸奥国分寺である。
 写真の陸奥国分尼寺跡に、現在の陸奥国分尼寺が建って、前述の陸奥国分寺が陸奥国分寺跡に建っている。どっちがどっち・・なんて事になってしまう。
 ついでに、私の小・中・高の通学路をたどってみた。中学校は、陸軍幼年学校の跡だった。在学中は知らなかった。そういえば、宮城野を約9年間も歩いていたのだった。灯台元暗し・・である。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 破れた窓から         旧田町変電所 〜

16.Apr.2005
 栗原電鉄時代の旧田町変電所内部。破れた窓からレンズを出して撮ってみた。
 横になった急須が使われていない施設かな?と思うくらいに、今でも使われていそうな感じがする。
 津久毛の施設とは、大違いである。非電化になった理由の一つに、津久毛変電所の老朽化もあったと聞こえてくる。
 電鉄時代の最後の日に電車に乗った人は、3両編成でしかも満員、時々、室内が暗くなったというから、架線への供給も安定してできなかったのかもしれない。
 そう思うと、よくがんばったね。と、この変電所の機器達にエールを送りたくなった。
 仙台のサクラの開花宣言が出された。くりでん沿線のサクラ達も、もうすぐ咲き始める頃、また行きたいなぁ〜。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 そのままに        旧津久毛変電所 〜

15.Apr.2005
 栗原電鉄時代の旧津久毛変電所の作業小屋。 屋根は朽ち果てて、春の日差しが溢れている。
 夏の麦わら帽子と、普段の作業用の帽子が、釘にかけてあった。
 作業台の上には、当時の工具も置かれている。あの非電化になった時から、そのままに、残っていた。
 棚には、業務日誌が積み重ねられていた。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 役目を終えて        旧津久毛変電所 〜

14.Apr.2005
 前述の栗原電鉄時代の変電所のひとつである旧津久毛変電所に来ている。
 
入り口の扉は、破れている。変圧器にはツタが絡み、雑木までが生えている。この作業小屋の屋根は残っていない。変電室の入り口は、鎖状してあり当然立ち入ることは出来ない。
 当然、使われていないからといって、変電所敷地内への立ち入りなどは、とんでもなく危険である。機器から油漏れがあれば、PCBが漏れているということになるし、私の場合は、発送配電および鉄道電気を学んだ経験があるから近寄れただけで、安易な立ち入りに命の保証はない。
 この変電所は、直流750Vを架線に供給していたので、高速遮断機、変圧器、変流器が収まっているはずである。平成7年に非電化されてから10年、荒廃は更に加速しているようだ。
 外から建家内の窓越しに、コイルがまかれた電機部品が見える。おそらく、回転変流器の一部だと思うが、確信は持てない。なにしろ私の世代でもシリコンの時代ですから、回転変流器の現物は見たことがない。 

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 列車待ち         くりでん田町駅 〜

13.Apr.2005
 栗駒駅の隣に、栗原田町駅がある。駅の正面には、「たまち」とひらがなで浮き出し文字が取り付けられている。
 駅の隣には、東北電力の大きな変電所が建っている。そして電鉄時代の田町変電所が隣接されて建っている。
 電鉄時代の変電所は、沢辺駅の隣の津久毛駅から田んぼを隔てた津久毛変電所と田町変電所の2カ所であり、直流750Vを供給していた。現在の変電所の姿は、荒れており、さながら「産業遺構」というか、宿舎は、すごい廃墟になっている。このへんも「街道をゆく」ではどうするか?まだまとまっていない。
 変電所を撮影後、ホームへ戻ると、女子高生が列車待ちをしていた。毎日通っているとのこと。寒くない?と聞くと寒いですぅ〜と足をさすった。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 出札窓口       くりでん沢辺駅 〜

12.Apr.2005
 大きなガラス窓に小さく開いた開口部、現金と引き替えに切符が渡される。下には、石版が敷いてある。
 なんで石板が敷いてあるんだろう・・ふと思った。まぁ、どうでもいいや。
 この駅で販売される切符は、硬券である。硬券だから、日付印字機で日付も打たれる。自動改札に入れるペナペナの磁気切符とは違って味がある。
 切符の販売、駅の清掃、信号取り扱い、全て一人。くりでん存続のための徹底した合理化が行われている。
 それでも、これだけきれいな駅である。外壁が綺麗だとかペンキが新しいから綺麗だではない。物は古いが大切に使われているから綺麗な駅なのである。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 ベンチ       くりでん沢辺駅 〜

11.Apr.2005
 昨日につづいて、くりはら田園鉄道「沢辺駅」の待合室のようすである。ここにも、打ち水がされている。
 木製のベンチが向かい合わせで置いてある。窓際には
ぐるりと腰かけたり荷物を置いたりできるようになっている。どこの駅にもあった標準的なつくりである。
 真ん中に、おおきな灰皿がおいてある。冬には、円筒形の少し大きな石油ストーブが置かれていて暖を取れるようになっている。
 待合室に入って左側・・くりでん文庫が置いてある。タイムスリップしたような駅であるが、まだまだ現役で大切に使われている。 

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 時を待つ        くりでん沢辺駅 〜

10.Apr.2005
 昨日、細倉への行く途中の、くりはら田園鉄道「沢辺駅」。
 改札口も木製である。コンクリートが少し濡れているが、駅長さんが、打ち水をしているようだ。若柳駅が、東北の駅100選に選ばれているようだが、私は、こちらの沢辺駅の方が好きだ。
 土曜日なので、人がいないが、1両編成のKD95が、数名の乗客を乗せて春の日差しの中を快走している。しかし、後2年後の2007年には廃止と決まっている

FLEXARET U/MIRARU 80mm F3.5/
PRESTO /D76



〜 細倉鉱山(係職)住宅     栗原市鶯沢町 〜

09.Apr.2005
 4月1日から、新たらしく栗原市になった、旧鶯沢町細倉へ出かけた。くりはら田園鉄道の撮り残した部分と細倉鉱山の撮影である。
 旧鶯沢町細倉は、鉱山の町であった。今では、鉱山閉山に伴い、過疎の町になってしまったが、鉱山を中心に鉱山住宅が軒を並べ、学校、病院、共同浴場など町が形成されていた。鉱山資料館の館長さんによれば、鉱山住宅が各地区をごとに建っていたということだ。
 実は、私も最盛期に鉱山住宅の親戚の家に遊びに行ったときの記憶がわずかに残っている、しかし幼年期の記憶であり、どの地区の鉱山住宅なのかの記憶は全くない。 従兄弟から、川の橋から宙ぶらりんにされて怖かったのと、おばさんが従兄弟を酷く怒った記憶と、長屋が並んで賑やかな声が聞こえていたことだけである。
 館長さんに聞いて、唯一、残っているこの細倉鉱山住宅の場所を教えてもらった。佐野、湯ノ川地区である。
 更に、ここに住んでいる奥さんから話を聞くことができた。写真に写っている歩いてくる女性である。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 巫女さん        塩竃市塩釜神社 〜

07.Apr.2005
 午前中は、晴れていたが、午後から雲がでてきてしまった。久々に、塩竃市へ行ってみた。
 塩釜市は、本当は「塩竃市」と書くのが正当なのだが、塩釜市でも、通用する珍しい市でもある。
 全国一、寿司店が多い街でもある。目的は、寿司を食べに行ったのではなく、「街道をゆく」の塩釜の項に着手するためである。
 「しおがまさま」と親しまれている「奥州一ノ宮・塩釜神社」と「御釜神社」へいくことにあった。
 今まで、話したことのない巫女さんとも話せて写真も快く撮らせてもらった。シャッターを切ったら「恥ずかしいですぅ〜」 と言われて、こちらが、ちょっとデレテレ〜。
 御釜神社・・お釜さまの方は、本町(Moto-machi)という町中にあって、駐車場がない・・少しの時間だし、ロケハンのつもりで、路駐・・ごめんなさい。
 今度は、車を置いて電車で行ってみることにしようと思う。社務所の方が、「ここに入れてもいいよ」と車両進入止めを外してくれようとしたが、鳥居の下だし、良いことが続くと後が怖いし、光が弱くなったので、また来ますとお礼を言って帰途についた。
 巫女さんとも話すことができたし、お釜さまの社務所の方とも話せた。次回は、いろいろ教えてもらえるような感触を掴んだ・・・期待度大ですぅ〜。

NIKON 35Ti /35mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 梅一輪       仙台市宮城野区 〜

05.Apr.2005
 庭の花梅が、やっと咲き始めた。小さな梅の木に花一輪である。隣にある会津産の高田梅は、ツボミのままである。
 仙台のサクラの開花予想は、平年に比べて、昨年が、だいぶ早かったので、今年は、なおさら遅く感じるが、平年より5日遅いということである。
 そういえば、仙台市内から見える泉が岳の山肌も、スキー場の雪がまだ残っている・・ここ数日で、どのくらい融けるのだろうか。
 ちょっと、山の方に出かける予定もあるので、車は、まだスタッドレスを履いたまま、来週は履き替えようと思う。

NIKON 35Ti /35mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 福寿草        仙台市宮城野区 〜

04.Apr.2005
 春よ〜こい。今年は、やはり少し遅れているようだ。福寿草の花が咲いているのを見つけた。
 といっても、自宅の庭・・ネコの額ほどだが、クロッカスとサフラワーがいつも、同じ時期に咲き始めるが、サフラワーは、どこへいっちゃったんだろう。これから咲くのだろうか?
 ローアングルから撮ってみた。山の斜面のようにも見えるようにしてみたが、それっぽく見えるだろうか?
 福寿草の黄色の花は、やはりカラー向きだし、そして、マクロレンズ向きの被写体だと思うが、濃い緑の葉に、木漏れ日が当たって救われた感じがする

NIKON 35Ti /35mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 ボンレスハム       仙台市宮城野区 〜

03.Apr.2005
 4月に入って、D76現像液のボトルの下の方に銀が溜まってきたので、半分捨てて、新液を半分入れた。
 ついでにD76R補充液をつくり、Fuji QW、定着液、停止液を新しくした。停止・定着液は、私の場合二ヶ月で新液と入れ替えています。
 四月に入って、気温は、15℃くらいまでには上がってくるようになった。光は、3月よりさらに輝きを増している。
 放置されているいつものブイにフェンスの影が当たっている。糸で縛られているボンレスハムのようだ。
 関東から以西は、サクラの開花宣言がだされているが、こちらは、まだツボミである。
 さぁ、4月春がどこまで来ているか、春探しをしようと思う。

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