亜哉の2005年5月の「写真日記」
亜哉が撮った5月分の「写真日記」をまとめたページです。
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Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 お釜社 狛犬      塩竃市 もとまち 〜

31.May.2005
 神社といえば、狛犬と石灯籠に目がいきますが、このお釜神社の狛犬さんは、小さいです。
 狛犬さん達の歴史は古く、狛犬さんの魅力に惹かれて全国の狛犬を訪ね歩いている方もいらっしゃるようです。
 口を開いた「阿」・口を閉じた「吽」の像が一対で、いろんな狛犬さん達がいるようです。
 子供の頃は、狛犬さん達に、怖い感じをもっていたのですが、最近では、写真に納めて来るときもあります。
 さて、この狛犬さんは、口を開けているのかな?歯が見えているから阿なのかなぁ〜。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 塩竃神社 表参道     塩竃市 一森山 〜

30.May.2005
 塩竃神社の表参道(表坂)の202段の石段を見下ろしてみる。かなりの急勾配・・。
 この石段を上ってくる観光客がいるのかと思うと、いるんですよ。周りは、杉木立、薄暗い中・・木の香りが漂ってきます。
 石段の両側には、少し歩きやすい、石段がついていますので、そちらを通られた方が、いいかもしれません。
 神社に来て、コケて怪我でもしたらシャレになりませんから。
 5月ももうすぐ終わりですね。こちらは、6月に入ると、いよいよ梅雨入りです。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 塩竃神社 随身門     塩竃市 一森山 〜

29.May.2005
 塩竃神社の表参道(表坂)は、急な202段の石段が続く。更に26段を加え、228段の石段を登ると、この随身門に出る。
 表参道の入口には、1663年(寛文3年)建立の石鳥居があり、「陸奥国一宮」の青銅扁額が掲げてあり、石段と鳥居を入れた定番カットが撮れる。
 しかし、202段である。地元高校の運動部じゃあるまいし、登る気力はない。
 車で社務所近くの駐車場に停める。そこから東参道(裏坂)を歩いて、随身門へ出る。まぁゆっくりだし、振り返れば、千賀の浦(塩釜湾)の眺め、ゆっくり歩く。途中に、七曲坂というのがあるが、創建当時からの参道である。
 この随身門も桜の季節の定番カットになる。古くは、朝廷、奥州藤原氏、伊達家の崇拝を受け、現在は、国の重要文化財として存在している。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 お釜社         塩竃市 もとまち 〜

28.May.2005
 塩竃は、塩釜湾(千賀の浦)に面した港町であり、街を見渡せる一森山には、陸奥国一之宮、塩竃神社がある。塩竃神社の創建は不明であるが、平安期の史料である「弘仁式」、「延喜式」には「鹽竈神を祭る料壱万束」と祭祀料を受けていたと記載されており、陸奥国府多賀城の信仰を集めていたと思われる。

 一森山にある現在の社殿は、仙台藩、四代藩主・伊達綱村が1695年(元禄8年)造営に着手し、五代藩主・吉村の1704年(宝永元年)に完成したもので、随身門を始め桃山様式を現代に伝えている。

 芭蕉の「奥の細道」に同行した曾良の書いた「曾良旅日記」によれば、1689年(元禄2年)5月8日に宮城野から塩竃に入り、『出初ニ塩釜ノかまを見ル』とある。

 『塩釜ノかま』とあるのが、このお釜神社のある4つの鉄釜のことであり、お釜社は、塩竃神社の末社となっている。塩竃の名前は、このお釜神社に由来している。現在は、商店街となっているが、かつては「浦出の浜(Hode-no-hama)」といわれた砂浜だった。

 7月10日に塩竃神社例祭に「神饌」としてお供えされる荒塩を調製するために、5日に花淵湾でホンダワラ(海藻)を刈り取る「藻刈神事」が、おこなわれ、5日に「水替神事」、6日に「藻塩焼神事」が行われるのが、このお釜社である。
 写真にあるのが、4つの鉄釜(神釜)が納めてある場所で、毎年以前の海水を残しながら新しい海水と入れ替える「水替神事」が行われる。
 「藻塩焼神事」は、この神社の境内の別の場所になる。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76減感現像



〜 養魚場           宮城野区 蒲生 〜

27.May.2005
 左側は、七北田川。右側が、干潟前面海浜になっています。
 私の立っている場所は、古い丸太で出来た杭が並んでいますが、昭和36年に作られてから、何度か改修工事も行われている導流堤です。
 この先が、平成9年に新規水門を3基つくって改修された部分になります。
 今でも、休日には、何人かの釣り人を見かけますが、昭和40年頃は、このあたりで、ハゼ釣りをした記憶がありますが、今は、何が釣れるのでしょうか?

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76減感現像



〜 養魚場           宮城野区 蒲生 〜

25.May.2005
 蒲生干潟の入口。乗馬倶楽部の馬場の隣が、この養魚場なのです。
 養魚場の水って、なんで緑色なんだろうとおもっていたら、着色しているとのこと、野鳥の宝庫、故のサギ類から商品である魚を守るために着色しているとの事だった。  
 養魚場の広大な池は、年に1回水を落として、入れ替えるとのこと、排水は干潟に流れるが、淡水故に塩分濃度を下げる。塩分濃度が下がると、ヨシ原の保護になる。近年、養魚場のひとつが廃業して、池を埋め立ててしまった。近年の塩分濃度の上昇の関係が少なからずあるらしい。
 汽水域のバランスがとれれば干潟の保護がされる。干潟が保護されると野鳥も住みやすい。自然との共生がとれているのである。
 
 しかし、地域住民が、困っている問題もある。鳥の糞害である。洗濯物が糞だらけになって困る。夜明けと共に、サギ類の声がうるさい。というものもある。
 「自然よりも、地域開発だ」「海岸を一部埋め立てて老人ホームでも伊豆沼にある『サンクチュアリ』施設でも建てた方がいい」という声もあるのも事実である。どのように自然と共存していくか課題があるのも蒲生地区で抱えている問題である。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76減感現像



〜 馬場             宮城野区 蒲生 〜

24.May.2005
 蒲生干潟の入口に、乗馬倶楽部の馬場がある。
干潟があって、住宅地もあって、古い蔵があったり、馬場の隣は、養魚場があって、海岸にはバービーまで落ちている・・。
 なんか、訳のわからない所にいるような感じがするかもしれない。
 記憶がある頃から、変わらないで残っているからなのかもしれない。新しいものが、古いものと同じところにあるからなのかもしれない。
 この馬場も、かつては牧場であった。乳牛のかわりに、今は馬がいる。そして隣は、あいかわらずの養魚場。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 あれま          宮城野区 蒲生海岸 〜

23.May.2005
 蒲生干潟から、長浜海岸の砂浜を撮ろうと思い、歩いていく。
 あれま、波の悪戯なんでしょうけど、えっちぃ〜。
でも、今時の人形って、スタイルいいですね。まぁ、それだけのことで、海岸に歩いていく。
 というのも、前回撮影したときに、ネガが眠い、アンダーなんですね。補正してやらないと、いけないようです。
 沖縄の海を撮るときはねぇ〜。Oさんと飲みながら話した時を思い出した。その時は、なるほどねぇ〜なんて、思っていたが、さほど、ギラギラしていない乾燥している砂浜でも、露出が難しいことを体験したからだった。
 ということで、今度は、補正するか、マニュアルで撮ってみようと思う。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 日和山と養魚場   宮城野区 蒲生干潟 〜

22.May.2005
 蒲生干潟の入り口にある日和山。標高6.05m、国土地理院の2万5千分の1の地形図に山名と共に、登録されてから、日本で一番低い山となりました。
 もちろん自然に出来た「山」ではなく、明治期に村人が人工的につくった「山」なのであります。
 1996年に、大阪の天保山(三角点が標高4.53m)が載ってから、日本で二番目に低い山となりました。
 登り口の階段隣にあった「日本一低い山」の看板は、現在は、「元祖・日本一低い山」となっています。
 更に、「日本一低い山」の話は、今日的にも続いているようですが、渡り鳥には無関係な話ですね。
 干潟を一望できる場所であり、道路を挟んで、トイレもあって、私は好きな場所です。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76 減感現像



〜 七北田川旧河道   宮城野区 蒲生干潟 〜

20.May.2005
 シロサギが干潟でエサをついばんでいる。バードウォッチングをしている人たちは、内湾と呼んでいる袋状になっている現在の潟湖は、七北田川の旧河道でもあります。
 
 正面やや左に見えているのが、仙台新港に停泊中の貨物船です。わたしが、漂流物を撮っている砂浜の延長が、右側のヨシ原の先の海岸線の砂浜へ続いています。
 
 かつて、ヨシ原の先の砂浜が、コアジサシの営巣地でしたが、4WDが走り回り、営巣をしなくなってしまいました。現在は、コンクリートブロックで車の立ち入りができないようになっていますが、渡ってくるのは確認されていますが、営巣は確認されていないようです。

 犬を放して散歩をする人もいますが、野鳥から見たら大迷惑。人が巣に近づくのも大迷惑なのです。営巣中の撮影などはとんでもない行為です。
 なぜなら、カラスに巣があることをわからせてしまうからなのです。
 フォトコンでも、営巣中の写真は審査の対象外にしているということです。コンテストのために営巣写真を撮る、慎みたい行為ですね。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76 減感現像



〜 七北田川河口      宮城野区 蒲生干潟 〜

19.May.2005
 
満潮になると一部水没する導流堤を渡っていくと、七北田川と仙台湾の合流点が見えてくる。
 河口は狭いながらも、砂浜が切れて波とぶつかり合い、波がくると水面が盛り上がり川を遡ろうとする。なかなか迫力がある。
 干潟の形成は、漂砂や潮流の影響で、河川の押送力が弱められ、1950年前後から、始まったといわれている。
 現在の河口は、1961年(昭和36年)に旧河口を締めきり、七北田川を直線的な現在の位置に掘削したもので、潟入り口に石積(稲井石)導流堤がつくられている。
 そのため旧河口は、袋状の潟湖として残り、潟湖の周辺が干潟となっている。潟湖と七北田川の水交換は、導流堤の3箇所の開口部でおこなわれ潟湖の塩分濃度の希釈が行われている。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76 減感現像



〜 導流堤       宮城野区 蒲生干潟 〜

18.May.2005
 昨日は、午後から七北田川河口に行ってみた。河口は以前に撮ったことはあるが、もっと近くへ寄ってみたかったからだ。
 太平洋と七北田川の合流点に、干潟の導流堤から行くことにした。潮が満ちてきているために、あまり時間がない。海は、うねりもあるために、河口にあまり近づくのも気乗りはしなかったが、どうせ行くなら〜、撮っちゃえ〜で近寄って行った。
 鶴巻御蔵場跡も、ここに来る前に撮っていたので、パシャパシャ撮る。でもなんか変だ〜。ゲロゲロ〜。ISO設定が、100になっていた。これじゃ、減感現像でフィルムを救う以外ない。
 フィルムはPRESTO、2段も違っている。とりあえず、D76、20℃、6分15でやってみた。後は、紙焼きで調整するしかない。(Webなのでコントラストを調整してみた)
 トホホの一日、まいったにゃ〜。

Ricoh FF-9S date /35mm F3.5 /PRESTO /D76



〜 地名の由来 Part2    宮城野区 田子 〜

17.May.2005
 七北田川を挟んで高砂地区の隣が田子(タゴ)地区である。いにしえの頃は、湿地帯で、湖沼がたくさんあったといわれる。実際、1967年(昭和42年)に仙台バイバスが開通する以前は、田んぼの中にまだ、所々に小沼が残っていた。現在は、全て水田になっている。
 田子の由来は・・・というと、二木(フタキ)神社が舞台になってくる。791年(延暦10年)坂上田村麻呂が多賀城にやってくるが、陸奥国分寺から宮城野を東に進み、二木神社で休息したときに西の方に、多数の湖沼があったので「今後は多湖(タコ)と称せ」と言ったという。←生意気〜!
 次に登場するのが、1189年(文治5年)平泉の藤原泰衡追討の時に、熱烈な坂上田村麻呂信奉者である源頼朝が、田村麻呂にあやかりたいとして多湖の神社に詣でた。そのとき、湖沼に、泉が岳が写りこみ、駿河の「田子の浦」によく似ていたので、田子と称せといわれるようになったという。
  多湖から田子へ、歴史上の有名人が同じ小さな神社の前で、イメージ遊びをしているようで、なんか滑稽な感じもするが、晴れた日には、泉が岳が見える風景が好きだという人も結構多い。
 リコーFF−9S、FOMAPANでの試写の一コマでした。

Pentax superA /M28mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 地名の由来        宮城野区 蒲生 〜

16.May.2005
 蒲生の由来は、いにしえの頃の、湿地帯に生えている蒲(ガマ)が、由来だった。多賀国府から、陸奥国府に遷る平安末期あたりの豪族の八幡氏の所領になってから蒲生(ガモウ)という土地の名前がつけられた。
 1889年(明治22年)に、蒲生邑、福室邑、岡田邑、田子邑、中野邑が高砂村となった。(1941年(昭和16年)に高砂村は、仙台市に編入された)
 この高砂(タカサゴ)の地名の由来は、この神社に始まっている。
 御舟入堀の開削が難航したため、神に祈ったところ、成就することができた。その神徳に報いるために社殿を建てた。その後、三代藩主伊達綱宗が巡視の際に、社名がついていなかったことから、播州高砂浦(東播磨港の一角:旧・高砂港)の景勝に似ているということで、高砂神社と公称するようになった。ということで、高砂村の名前も、この社名からとったということである。
 東北の神社というと、坂上田村麻呂の中央集権国家の押し売りなんですけどね。ここは違っていました。

Eos-1n /EF85mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 土台            宮城野区 鶴巻 〜

15.May.2005
 数日、調べものをしていて、更新をしていなかったが、前回の鶴巻地区の板蔵をまたUP。

 地面から基礎石が数段積まれて、その上に土台が乗っているかと思ったら、基礎石は、地面を掘って埋められているとは思うが、地面より、上にわずかに見えているだけであった。
 こうした蔵が、取り壊された場合は、どうなるのか?地表よりわずかに出ている基礎石が残るのではないか。
 全くの更地にする場合は、基礎石も掘り起こさなければならないと思うが、その必要性がなければ、基礎石は地面に埋まったままではないかと考えた。
 というのも、蒲生御蔵場での地面から出ていた石材が気になっていたからである。

Eos-1n /EF85mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 彫刻された持ち送り    宮城野区 鶴巻 〜

11.May.2005
 蒲生御蔵場から、平田舟に乗せ換えられ、高瀬堀を通り七北田川に出て3キロほど遡って、梅田川の合流点付近の鶴巻御蔵場に運ばれる。
  舟で運ぶと言うことは、舟溜まりが存在する。鶴巻にも舟溜まりがあったが、現在は、その跡をみつけることはできない。
 荷揚げされ鶴巻御蔵場に入り、そこからまた舟に乗せ換えられ苦竹御蔵場に入るが、川を遡っていくのではなく、「御舟曳堀」に入る。
 御舟曳堀は、空堀であり、堀として使う場合は、梅田川の水をひきいれて使い、堀として使わないときは、水をおとす「落とし堀」である。
 その舟を、2人がかりで引っ張って進む。それ故「御舟曳堀」ということである。
 鶴巻御蔵場周辺は宅地化が進み、現存している塩倉を探すのは難しかった。探しているうちに、この写真の板蔵に出会った 。
 鶴巻御蔵場のものではないが、あまりに、庇の「持ち送り」が立派なので撮してみた。瓦も大きめであった。蒲生御蔵場跡に放置されていたかわらけが気になった。

Pentax Me super /M28mm F2.8 /ACROS /D76



〜 変わらぬ道      宮城野区 蒲生 〜

10.May.2005
 江戸時代から、変わらない道である。藩政時代は「町蒲生」と言われ、今は、蒲生2丁目界隈である。
 やや左正面の民家も、建て直され新しくなっているが、当時とほぼ同じ場所に建っている。
 杭から左側の空き地が、埋め立てられた枡形の「舟溜まり」跡の南辺の境界である。そして私の建っている後方が、「蒲生御蔵場」になる。
 御蔵場からのメインストリートが、この道路なのであるが、御蔵場跡は現在は、住宅地になっている。堀や米蔵・塩蔵も残っていない。細い路地があり、民家の庭先になったりしている。
 御蔵場であったことの名残はあるだろうか。

Pentax superA /M28mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 藩政時代に迫る      宮城野区 蒲生 〜

08.May.2005
 貞山堀の今で言う「第二期開削工事」区間の「御舟入堀」、そこに舟溜まりがあった。その舟溜まりは、昭和50年の空撮写真に残っていた。現在は、埋め立てられ宮城県企業局が管理している。
 藩政時代には、閘門をつくる技術もなかったようだ。それ故に、貞山堀に舟溜まりを設け、一度陸揚げし、一時保管した。それが「蒲生御蔵」であった。
 そこから開削した「高瀬堀」を通り、七北田川へ出て、梅田川の合流点である「鶴巻御蔵」に陸揚げし保管、そこから「御舟曳堀」を通って「苦竹御蔵」へ陸揚げし保管、そこから、牛車で仙台の城下へ米を運んだという「米の道」があった。
 蒲生は、藩政時代からの細い道路が今でも残っている。そのため、「舟溜まり」跡や「蒲生御蔵」跡が容易に探すことができる。(後背地は、宅地化で様子はかなり変わっているが)
 その住宅地に高瀬堀が埋め立てられている。川から探してみると、このあたりになる。ちょうど中野小学校の東側、江戸期の道路の脇のあたりになる。。

OLYMPUS OM-2n /G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4
/PRESTO /D76



〜 桃花も散り始めて       河沼郡湯川村 〜

07.May.2005
 4−5日と会津に行って来た。いつもなら桃の花も散っているのだが、今年は、まだ花がついていた。
 OM−2nとズイコー50mmf1.4の試写をしてみた。f1.8は、カリカリでどうも好きになれなかったが、さて、1.4の方は・・、カリカリではないが、なんかしっくりこない。
 これでも、絞っているのだが・・AFに慣れてしまっているからか?それとも、やはり、カビ有りジャンクで入手したからか?抜けが悪いというか?ムムム・・・。
 カビがあったのは、プラレンズの部分、やはり、そこらへんなのかなぁ・・。
 ということで、6日は、ペンタックスで、蒲生界隈へ、道路は江戸時代とさほど変わっていない。こうなると、絵図と対比させてもだいたいの位置がわかる。昭和50年の空撮地図もある。また横道、仙台藩、米の道を歩いてみた。

Pentax superA /M28mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 旧・第四聯隊 雲形彫刻 歴史民族資料館 〜

02.May.2005
 階段部の雲形彫刻、通路の床面には、稲井石が敷かれている。石巻や野蒜築港でも書いたが、あの稲井石、宮城県内では、このような使われ方もしていたのである。
 宮千代のところで、亡霊伝説であることを書いたが、宮城野と怪奇・猟奇話が似合うところかもしれない。
 この四聯隊を舞台にした殺人事件を映画化したものがあった(フィクションとも実話をもとにしたとも言われているが真意は?あとで調べます)『憲兵とバラバラ死美人』という新東宝の映画です。井戸の中に投げ入れられた妊婦のバラバラ死体、何が気色悪いかと言うと、知らずに飯を炊いたり、みそ汁に井戸の水を使い、味が変だ。臭うという声が聞こえて、「きさま飲んで見ろ〜」「ゲロゲー」で発覚していくわけですが・・・水を飲んで吐き出すシーンとか・・ちょうど、中学生の時にテレビで見たので、四聯隊跡の井戸は怖いというのが、刷り込まれたのかもしれない。
 四聯隊の憲兵隊は、現在の宮城県庁のところにあったので、ここではないのですが、元ネタが実話なら嫌な話しですね。

Pentax superA /M28mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 旧・第四聯隊 菊花軒瓦  歴史民族資料館 〜

02.May.2005
 一見するとリゾートホテル風と見える建物も、1874年(明治7年)に造営された旧・陸軍歩兵第四聯隊の兵舎建築であり、現在は、仙台市歴史民族資料館として公開されている。
 建物は、瓦葺寄棟造り木造2階建で、外壁は漆喰で塗られており、建物角隅には、コーナーストーン装飾、ガラス入り上下窓、ポーチの柱は、洋風円柱、内部は、雲形の彫刻を有する階段の特徴を持っている。名古屋の歩兵第六聯隊兵舎とほぼ同じ造りであることから当時の兵舎として標準的な造りであるといわれている。
 敗戦まで60年間は、第二師団、歩兵第四聯隊の兵舎として利用されたが、戦後から昭和31年まで進駐軍が利用、その後は、東北管区警察学校として利用された。
 内部はその都度改造されたが、昭和53年仙台市有形文化財に指定されてから、明治37年の姿に復元された。
 尚、同様の兵舎が7棟、他の兵舎、本部建物については、昭和52年2月、榴ヶ岡公園整備事業で、全て取り壊された。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 旧・第4聯隊兵舎       宮城野区榴ヶ岡 〜

01.May.2005
 いよいよ5月、若草の緑に、こいのぼり、風もなんとなく、くすぐったい感じである。
 草が伸びてこないうちに、礎石のあるところは早めに撮らなければと思うが、非番の日は、なかなか動き廻る気にならない。
 街道・・・・の宮城野編を作成しているが、骨組みは出来たが、写真が不鮮明であったり、キャプションと合わなかったり、調べ直しもあったり、図書館にも足を運ばなければならないことも出てきたし、まぁ、すぐでなくても良いのだが、気になることは早めに調べておきたいと思う。
 明日は、午後から天気が崩れるようだ。午前中に撮りに行きたいと思うが、起きてみないと?
 距離的には、近いが、車で行くと駐車場探しが面倒だし、また車の所に戻るのも時間がもったいない
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