亜哉の2005年6月の「写真日記」
亜哉が撮った6月分の「写真日記」をまとめたページです。
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Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



瑞巌寺への通路      松島町 陽徳院

30.Jun.2005
 
陽徳院の総門を出て、瑞巌寺へ続く道がある。瑞巌寺側とは、違って、陽徳院側は、凝灰岩を掘ったままの姿になっている。
 地面は、舗装されているものの薄暗い、岩の開口部には大きなケヤキの根っこがからみついていて、やはり鬼気迫るものがある。
 写真を撮ってそそくさと、出てきてしまった。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



陽徳院への通路      松島町 瑞巌寺

29.Jun.2005
 
瑞巌寺は、三方が奇岩に囲まれていると書いたが、僧達は、隣の陽徳院へは、岩を掘った、ここを通る。
 この瑞巌寺側は、このようになっているが、陽徳院側から見るとどうなっているのだろうか?
 ネコにでもなったつもりで、行ってみることにした。といっても、呼び止められるのも嫌だし、陽徳院に行ったときに覗いてみようと思う。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESRO /D76





遊覧船          松島町 観光桟橋

28.Jun.2005
 
昨日UPした御座船を模してつくられたのが、下の小さな画像の遊覧船、龍凰丸で三階建てです。(所有会社から、借りてきた画像です)
 好みが分かれるでしょうね。色といい形といい・・爆。上の鳳凰丸は、冬季「松島湾かき鍋クルーズ」にも使われる鳳凰丸です。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



竜頭鷁首(Ryutogekisu) 塩竃市 観光桟橋 〜

27.Jun.2005
 
竜頭鷁首(Ryutogekisu)の遊覧船を見て、司馬さんは、『身が外国にあるような感じがした』もちろん誉めたのではなくて、ボロクソな松島批判の序章です・・・爆沈。

 その、遊覧船の元になったのが、この「塩竃みなとまつり」の時に、塩竃神社の御輿をのせて、100隻の御供船を従え松島湾を神幸するこの御座船なのです。手前が塩竃神社の御輿を奉安する「龍凰丸」で、うしろが志波彦神社の御輿を奉安する「鳳凰丸」です。飾り付けは、まだされていませんが、今年のみなとまつりは、7月18日になります(17日が前夜祭の花火大会)

 私が小さいときには、御供船として参加している遊覧船に乗って海からこの船まつりを見ていました。海保の消防艇が、赤・青・黄色など着色した水を放水したり、なかなか綺麗でした。ここ数年は、花火大会が目玉になっています。海保、漁船、プレジャーボート、ヨットもいたかなで100隻の船があったかは覚えていませんが、所狭しと走っていたような記憶はあります・・笑。今年は、行ってみようかな?

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 瑞巌寺 参道         松島町 瑞巌寺 〜

25.Jun.2005
 
瑞巌寺の総門をくぐると、杉木立が続いている。参道脇には、建物の存在が全くない。違和感を覚えるが、そのまま進むと拝観受付所(拝観料自販機)があり、その先に瑞巌寺の中心をなす太鼓塀で囲まれた伽藍がある。
 天麟院の五郎八姫御霊屋が、明治2年『解体』された事由が友人の「廃仏毀釈」でヒントを得た。
  『明治維新を迎え王政復古の政策は廃仏毀釈を惹起し、さらに伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃が瑞巌寺を始め松島の諸寺院を直撃し、零落・廃絶・焼亡等の憂き目を見た』その後、1876年(明治9年)に天皇が東北巡幸された折に本堂「上上段の間」で、明治天皇に説法をしたと伝えられるのが、住持太陽東潮(眞壁太陽)と伝えている。

 真偽のほどは、と思って調べると、利府町にある瑞巌寺の末寺、揚岐寺住職の眞壁道鑑氏が曾孫にあたっており、このことを書いている。
 観光客が、ただ、ふぅ〜んと見ている「法身窟」内部に東潮和尚のお墓があることも道鑑氏が発見した。野蒜築港の話も東北発展のためにと大久保らに明治4年に進言していたことも明らかになった。歴史は、どこでどう繋がるかわからない。実感!!
 この参道脇に、かつては、6坊が並んでいたが「廃仏毀釈」で「憂き目」にあったらしい、まだ、はっきりしていないが、更に、調べてみたい。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 天麟院 洞窟群    松島町 天麟院 〜

24.Jun.2005
 天麟院(Tenrin-in)の五郎八姫(Iroha-hime)御霊屋の背後に洞窟群があります。
 かなり薄暗い、写真で見ると、洞窟の内部へも入れるようでありますが、実際はかなり暗く「鬼気せまる」という感じであります。残念ながら、これ以上進むことを身体が拒否しているように感じる。
 石窟は、5つ、凝灰岩の岩盤を掘ったものであります。松島は、氷河期以降の地球温暖化による海水面の上昇に伴う沈降によって起きたもので、人が住み始めたのは縄文期になります。その後も、海が近づいたり退いたり、小刻みな地形変動は続きまが、現在のマツの景観ができるのは今から1000年〜500年前に形成されたようです。
 第1窟は、政宗の3男の伊達河内守宗清の供養塔をはじめ、寛永年間の伊達一族の供養塔、第2窟は、4男の伊達三河守宗泰の供養塔と殉死者10名の供養塔があります。
 入口に、1284年(弘安7年)の板碑があるといわれていますが、読みとるまで近くへは、近寄りたくない嫌だ〜!
 昨日、友人のKanさんより、「廃仏毀釈」のヒントを与えてもらった。瑞巌寺もかなりの影響があった寺であります。Web上ながら感謝いたします。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 五郎八姫 仮御霊屋    松島町 天麟院 〜

23.Jun.2005
 瑞巌寺の西隣には、光宗の円通院御霊屋があって、そのまた隣には、天麟院五郎八姫の御霊屋がある。
 1606年(慶長11年)松平忠輝に嫁ぐが、忠輝が大阪夏の陣に遅れたため改易されると、離縁させられ1616年(元和2年)伊達家に戻った。
 その後は、再婚せずに天麟院と称して、天麟院を建立、1661年(寛文元年)に68歳で没した(法諡:天麟院殿瑞雲全祥尼大姉)
 1663年(寛文3年)年に四代藩主・伊達綱村によって御霊屋が建立、脇にハリモミが植えられた。1869年(明治2年)に解体され1889年(明治22年)に伊達宗基氏が墓が建てて現在に至るとある。
 仮御霊屋とあるが、御霊屋は復元されるのか?復元の史料はあるのか?なぜ解体?五郎八姫はキリシタンであったといわれているが寺で何をしていたか?などと思ってしまう。
 しかし、自分で建てた寺なので、宗光の廟所(1646年(正保3年)完成)の厨子を見れば、生涯、隠れキリシタンとしての五郎八姫の姿も想像できないわけではないなぁ。  尚、裏側に洞窟群があり、藩政時代の五輪塔や弘安時代の板碑もあるが、近寄りたくない雰囲気がする場所であったのでパス!!

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 陽徳院 総門         松島町 陽徳院 〜

22.Jun.2005
 瑞巌寺の東隣の陽徳院です。伊達政宗の正室であり、二代藩主・伊達忠宗の母である愛姫(Mego-hime)の菩提寺として忠宗が建立しました。境内裏山には、愛姫の御霊屋がありますが、現在、陽徳院は、一般公開はされていません。
 瑞巌寺は、この日も観光客がたくさん訪れていましたが、陽徳院で合ったのは、私の他に2名だけ・・、更に、政宗の長女、五郎八姫(Iroha-hime)の仮御霊屋である天麟院(円通院の西隣)は、誰も訪れていませんでした。
 天麟院は、無料なのですが、ちょっと寂しい気もしました。

RF-45 /YASHNON 127mm F4.7 /TXP /D76



〜 円通院本堂「大悲亭」     松島町 円通院 〜

20.Jun.2005
 瑞巌寺の隣の円通院、RF45で撮ってみた。フィルムは、ついにTRY−X、プレストの感じとは、やはり異なるようだ。でも、これからは、トライを使うしかない〜。早く、なれなくっちゃ。
 境内のバラが咲いていた。昔は、バラ寺として公開されていたが、近年は、コケとバラの寺として公開されているが、この寺の良さは、やはり秋の紅葉かもしれない。
 ピンは手前で絞り込む・・。35ミリのAF機とは、撮すテンポも違う。もうちょっとスローテンポで廻りたかった・・トホホ。でも、カメラだけは、しっかり目立っていました・・がはは。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 方丈中庭から見た廻廊   松島町 瑞巌寺 〜

19.Jun.2005
 昨日は、寒気がすると思って、部屋の温度計を見たら、24℃、なぁ〜んと、熱があった。夏風邪ひくのは・・なんとやらで、そのうち、頭痛と吐き気、まいった。
 フトンに入って少し休んだ。なんとか復活・・。でも、不調の域・・・。トホホ。
 写真は、国宝指定の廻廊です。右側の出っ張っているところが登竜門(玄関)になります。この回廊も、外から眺めるだけで、一般公開はされていません。
 鼻先に、にんじんをぶらさげられている馬の気持ちがわかりました  

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESRO /D76



〜 庫裡へ通じる高麗門    松島町 瑞巌寺 〜

18.Jun.2005
 庫裡へ出入りするための門の裏側です。門扉を支える主柱2本があって、後ろ側に控え柱2本があって、4本の柱を貫でつないで、切り妻屋根をかけたものです。
 戦国期に書かれた「築城記」という、今で言う築城設計のマニュアル本ですが、その中に、城門内の柱の間隔を開けてつくると書いてあるそうです。
 瑞巌寺が、城としての機能を持つならば、この門の柱の平面図は、台形になっている可能性があります。逆に、寺社建築であれば、図面は長方形になるはずです。
 台形と言っても、角度は、5度〜10度、目視では、わかりませんから、採寸には、分度器も必要かもです。
 煙り出しが、見張り櫓の機能を持つといわれている庫裡ですから、門にも、そうした工夫があっても不思議ではありません。期待度大!!  

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESRO /D76



〜 登竜門            松島町 瑞巌寺 〜

17.Jun.2005
 登竜門です。太鼓塀が、コの字になっている奥にあります。以前UPした小さな鬼瓦の付いた塀が手前にあります。
 この門も閉じていますが、残念ながら、内部は非公開(涙)になっています(修行の場として現在も使われているエリアということです)
 この門を入ると階段があって、回廊に上がる構造になっています。「登竜」の扁額のあたりを見ると、「無双窓」(前枠と後ろ枠がそれぞれスリットを開けた板が打ち付けられている窓)になっているようにも見えます。
 玄関と言うより、櫓門のようですね。ここらへんも出城説がでるところです。単に、寺に藩主が来ているときに攻められないようにということかもしれませんが・・。  

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 中門            松島町 瑞巌寺 〜

16.Jun.2005
 瑞巌寺の太鼓塀です。わかりにくくて申し訳ありませんが、左側の杉枝に隠れているのが御成門、中央が中門、これまた右の杉の木に隠れているのが登竜門です。
 ちょっと水平がとれていないのでは?と思われた方は、大正解です。
 三つの門をつないでいる太鼓塀ですが、御成門から登竜門へ右下がりに高さが低くなっているのです。身分に対する格付けなんですね。 

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESRO /D76



〜 庫裏            松島町 瑞巌寺 〜

15.Jun.2005
 瑞巌寺の庫裏(台所)です。屋根の上に大きな「煙り出し」が特徴です。1609年(慶長14年)完成したもので現在・国宝に指定されています。(昭和の時代に大修繕が行われました)
 内部は、玄関の土間までは入れますが、内部は、立ち入り禁止、撮影禁止です。・・写真撮りたいです〜涙。
 立派な「煙り出し」ですが、見張り櫓としての機能も備えているとのことです。・・・やっぱり出城!
 方丈(本堂)から庫裏までは、回廊で結ばれています。なかなかマニアックですね。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESRO /D76



〜 過去・現代        松島町 瑞巌寺 〜

14.Jun.2005
 奥へ奥へ進むと、観光客がますます少なくなります。
ここはどこ?サクラダ・ファミリアの日本版かぁ?ガルディも真っ青!なんてことはないのですが、瑞巌寺の北側の岩盤です。
 ここも瑞巌寺です。学芸員の資格を持つお坊さんがいたり、武道(空手)の修行しているお坊さんとか、普通に修行している坊さん達がいるところです。書院とか大書院のあるエリアで、これ以上は進めません。
 この岩盤の隣には、政宗の正室、愛姫の菩提を弔っている陽徳院へ行く道がありますが、非公開だそうです。

Eos-1n /EF50mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 コロボックルはどこ?    松島町 円通院 〜

13.Jun.2005
 蕗が山野草の庭に大きな葉っぱをひろげていた。
お〜い、コロボックルさんは、いないのか〜。なんて呼びかけて見たくなる。
 うさぎが顔をだしてくれてもいいなぁ〜。秋田蕗なのかなぁ〜。などと、蕗と生き物の組み合わせを考えてみたりする。
 庭と言うより、山の一部、植物を持ち出さないと、こんなにも、いろいろな植物の共存が見られるのかもしれない。

Eos-1n /EF50mm F2.8 /PRESTO /D76



〜 ガイドネコ         松島町 瑞巌寺 〜

12.Jun.2005
 瑞巌寺の山門をくぐると、ネコさんが、歩いてきて立ち止まった。このネコさんが、ガイドをしてくれるの?そうなら楽しいかも。不思議の国のアリスの瑞巌寺版などと、ネコに声をかけていると。←ネコに話しかけるのもいないか?
 左側に、ガイドをしてくれる観光協会の人たちが、こちらを見て、ガイドをしますよ〜と声をかけてくれた。時間があれば、一度は聞いてみても良いかと思うが、時間がないので、と断ると・・・このネコさんもどこかへ歩いて行ってしまった。やっぱりガイドをするネコだったのだろうか?

Eos-1n /EF50mm F2.8 /SUPERIA 400



〜 お殿様の忘れ物?  瑞巌寺 御成門 内方 〜

11.Jun.2005
 昨日いよいよ、梅雨入り。今朝は、雨上がりの朝を迎えた。空が今でも泣き出しそうだ。
 瑞巌寺の3つの門の内の一つ、御成門であります。藩主及び皇族専用ということで、現在も閉じられています。  門の内側に廻ってみた。カサがかけてあった。ホコリがついていて、昨日今日の物ではないようだ。誰かの忘れ物だろうか?

Eos-1n /EF105mm F2.8 /PRESTO /D76





〜 瑞巌寺の石斛     松島町 瑞巌寺 〜

10.Jun.2005
 石斛(Sekkoku)です。瑞巌寺の老杉の20mの高さの所に60〜70cmの球状なって2株、着生しています。
 ちょうど、おとずれた時は、少し早かったようですが、今年は6月7日頃が見頃になったようです。
 日本欄の一種で、デンドロビウムの仲間で、岩や老木に着生する性質があります。かつては、松島湾内の島々の断崖に自生していました。江戸時代には、松島の特産物として知られていました。地元では「イワタケ」とも呼ばれていたそうです。
 昭和の山野草ブームで、松島湾内の島々の断崖から根こそぎ盗掘され(船でいって、ガケをよじ登って盗るんでしょうね)、絶滅の危機に陥っていましたが、松島町とバイオテクノロジーの会社で、種の保存を目的に増殖して、島々にも移植しています。まずは一安心です。
 瑞巌寺境内でも、販売されているので、小さなピンクの花が欲しければ買っていってください。盗掘は犯罪です。 育て方は簡単、半日、日に当たって半日日陰になるような場所に、水苔にくるんで置いておくだけ・・、水やりも不要です。寒さにも平気、雪にも平気で、自然のままです。値段は、600円〜1900円位までが良く売れているようです。大きさによって価格も違います。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 太鼓塀           松島町 瑞巌寺 〜

09.Jun.2005
 三方が奇岩で囲まれているために、正面は、塀であります。その塀に、昨日書いた三つの門が付いています。
 その塀が「太鼓塀」という特殊な構造をしています。はじめて、その塀の名前を聞いたときは、中が中空になっているだけと思っていました。
 表面は漆喰で塗られていますが、中には、空洞があってそこに小石が詰められているそうです。
 伊達政宗の時代の最先端の武器は、鉄砲でした。鉄砲が撃ち込まれて壁に穴が開いても、壁の中の小石が、ずれて穴を塞ぐように出来ているのが「太鼓塀」ということです。
 瑞巌寺は、出城であるといわれるのも、こんな工夫があるからなのです。

Eos-1n /EF50mm F1.4 /PRESTO /D76



〜 小さい塀の鬼瓦      松島町 瑞巌寺 〜

08.Jun.2005
 三方が奇岩で囲まれた平地に瑞巌寺が建っている。総門をくぐって、杉木立の中を斜めに伸びる参道を抜けると、漆喰の壁が見えてきます。
 左端に藩主及び皇族専用「御成門」がありますが、拝観者は「中門」を入って「方丈」前の中庭に出ます。
 「中門」に入らないで右へ曲がって、小さな門をくぐると、大きな煙出し屋根が載っている「庫裏」が見えます。「庫裏」の手前が、本来の瑞巌寺の玄関、「登竜門」があります。この「登竜門」は、回廊の先端部にあり、楼門の様になっています。 
 写真は、その登竜門付近の小さな塀でありますが、普通、鬼瓦って、見上げて見ることが多いのですが、ここは、正対することができます。瑞巌寺には、いろんな鬼瓦がありますが、手に取れるような小さな鬼さんですね。
 軒瓦の文様は、全て九曜紋です。伊達家は、「竹に雀」が有名ですが、九曜紋も使っていました。
 名刹、瑞巌寺ですが、仙台藩の出城の性格もいろいろあって、現存する桃山建築の代表的存在なのです。

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 円通院「三慧殿」厨子        松島町 〜

07.Jun.2005
 昨日UPした厨子の「ハート模様」、「ダイヤ模様」、「スペード模様」、「クローバー模様」、「クロスつなぎ」の位置であります。これでも見づらくてごめんなさい。
 いかがでしょうか?光宗が不審死)したのが、1645年ですから、鎖国中であり、1614年には、全国にキリシタン禁教令がだされています。仙台藩も、支倉常長の帰国直前にキリシタン禁令がだされて弾圧がはじまっています。
 1624年2月、現在の西公園、広瀬川の河川敷でキリシタンを水責めにして殉死させています。支倉常長が仙台に帰ってきた4年後のことでした。
 そうした時代背景の中での、子を悼む二代藩主伊達忠宗が光宗のために建立した御霊屋が「三慧殿」なのです

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 円通院「三慧殿」内 宮殿型厨子   松島町 〜

06.Jun.2005
 アンダーですが、この方が、厨子の模様がわかりやすいかなぁ〜でアンダーに撮しました。(周りの壁は、全て金箔ばりです。入口はガラス張りで堂内には入れない)
 松島というと、伊達政宗の造った「瑞巌寺」が有名で、かなりの観光客が昨日も訪れていました。
 ちょっと離れた円通院は、訪れる人は、ずっと少なくなります。円通院「三慧殿」は、伊達家二代藩主、忠宗の子である「光宗」の御霊屋で、光宗は、19歳で江戸城内で亡くなりますが、病死説と毒殺説が伝えられています。
 息子の死を悼んだ忠宗は、品川の江戸屋敷から納涼の亭を移設し、本堂として「大悲亭」と名付け、庭園も小堀遠州に造らせたと言われています。
 当時鎖国をしていた幕府に対して、この厨子は、伊達家の霊廟と申し立て、この厨子の扉は開けられなかったと言われています。
 それもそのはず、この厨子には、遣欧使節・支倉常長が持ち帰った西洋文化が描かれているからなんです。
 「洋バラの油絵」があり、「ハート模様」、「ダイヤ模様」、「スペード模様」、「クローバー模様」、「クロスつなぎ」が手書きで描かれています。さぁどこでしょう?←見づらくてごめんなさい。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 養魚場            宮城野区 蒲生 〜

04.Jun.2005
 小さなポンプ小屋。写真で見ると人が入れそうに見えるが、実際は、人が入れる大きさではないのです。。
 そろそろ、「街道・・・」の蒲生界隈のまとめに入りたいのですが、場所が特定できないでいる箇所もあり、昭和初期の旧版地図の準備中、場所が特定できたら、いよいよUPします。
 今日と明日は、義弟が来るので、ちょっとおやすみ。奥松島方面に泊まりでいきますが、野蒜築港は撮り終えたし、東名運河も撮ったし、松島界隈は、観光地だし、軽装備で撮ってみたいと思っています。   

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 何の跡だろう?         蒲生御蔵場跡 〜

03.Jun.2005
 かつての蒲生御蔵場跡であります。ご覧の通り、住宅が建ち並んでいる。
 その中で、こんな不自然な石がゴロゴロとコンクリートに混じって、転がっている。
 道の縁石ならば、両側になければ不自然である。直線的に石が埋まって並んでいる。
 礎石ではないだろうか?右側の民家を建てるために掘り返されたような石もあるようだ。真四角の石は、塚石ではないだろうか?
 昔の絵図でみるとこの辺に蔵がたっていたようである。掘っ建て式の蔵の基礎石と考えられるのではないだろうか? 

Eos-1n /EF35mm F2.0 /PRESTO /D76



〜 旧七ヶ浜街道        宮城野区 蒲生 〜

02.Jun.2005
 日没が遅いので、ついつい帰りが遅くなる。いつもは、だいたい15時ころには、家に戻ってくるのだが、まだ明るいと思っていると17時を過ぎてしまう。
 旧七ヶ浜街道を撮ってみた。仙台新港が開削されたために、蒲生から海沿いに七ヶ浜へ続くこの街道も、途切れてしまって、錆びたゲートがついている。
 ゲートの先には、松の木で見えないが、埠頭への道路が横断している。その道路の緑地帯が前方の松林になっている。
 この旧七ヶ浜街道、車1台が通れるくらいで、車の行き違いに苦労する細い昔の浜街道である。
 しかし、不便さはないようだ。埋め立てられた御舟入堀の外周道路状になっていて、袋小路にはなっていないからである。

Eos-1n /EF85mm F1.8 /PRESTO /D76



〜 お釜社 狛犬      塩竃市 もとまち 〜

01.Jun.2005
 昨日の、お釜神社の狛犬さんと、対になっている狛犬さんです。
 こちらが、口を開けている阿像の方なのかとも思います。普通は、阿吽ですけど、まれに阿だけのもあるそうですが、口の感じが違うので、こちらが阿像で昨日分が吽像なのかもしれません。
 阿像は、社に向かって右側で、吽像は、左側というのが一般的だそうです。だとすると、この狛犬さんが阿像だとすると、逆配置の珍しい狛犬さんになるわけですね。
 狛犬さんは、奥が深いです。

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