街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「貞山堀(御舟入堀)その2」

 仙台市蒲生地区で、「とぎれつつも」姿を変える御舟入堀の仙台新港側からの塩釜湾(千賀の浦)牛生地区付近までを「その2」として、ここで紹介したい。

 いよいよ、狭い意味の貞山堀も今回で最後となるが、貞山堀から石巻への、運河群の紹介は、石巻の旧北上川河口・北上運河まで行っていきたい。



@ 砂押川 仙台新港 合流点                  多賀城市大代地区


 御舟入堀は、昭和43年からの仙台新港の築港により、姿を変えた。蒲生地区からの排水路も途中まで、たどってみたが、どうやら仙台新港へ直接出ていくような感じではないようだ。

  しかし、仙台新港のバースの対岸には、砂押川の河口がある。砂押川から、貞山堀に続いているはずである。しかし、石油基地のため、立ち入りは禁止されている。
 
  大代地区から、回り込んで近寄れるだけ近寄ってみた。送油パイプがの先が、砂押川と新港の合流点である。うみねこの鳴き声と波の音が聞こえてくる。



A 砂押川河口 砂押貞山運河 合流点              多賀城市大代


  左側へ行くと、新港の北航路に出る。正面が、「砂押川(区域延長14491m)」である。右側が、「砂押貞山運河(区域延長800m)」である。
 
 砂押川は、正面、小さく水門が写っているが、そこから右側へ入っていくのが元々の流れである。そのため、「旧砂押川(区域延長2300m)」と区別して呼ばれている。 右側の流れが、貞山堀なのかといえば、ここも仙台新港築港のために付け替え工事が行われたもので「砂押貞山運河(Sunaoshi-teizan-unga)」と区別して呼ばれているところである。河川管理上でも、このように呼ばれているのである。
 
 実は、ガイドブックにもこのへんは、書かれていない。地図にも、書いていない。しかし、近年に掘られたような感じでもない。調べるのに一番苦労したところである。



B砂押貞山運河            宮城県中南部中南部下水道事務所付近


ここは、川か貞山堀かと、どちらなのか疑問が続いたが、それならば、この中州にある宮城県中南部下水道事務所へ聞いてみたら何かわかるかもしれないと、藁をも掴む気持ちでメールをしてみた。次長のNさんが丁寧に説明をしてメールをくださった。おまけに、資料もあるので住所を知らせて欲しいとあり、後日お送りいただいた。今まで、ただの建物としか思っていなかったのが汚泥焼却装置だとか、人口が増え下水処理の大変さにも関心をもてるようになった。改めてこのWeb上で感謝したい。
 この事業所の東側を流れるのが「砂押貞山運河」であることがわかったのである。



C 砂押貞山運河 旧砂押川合流点              多賀城市大代地区


 貞山堀を背にして、中州先端の護岸の石組が綺麗な所である。
 
 この近くに多賀城市大代地区公民館がある。ここのみなさんにもお世話になった。始めて、この場所に立ったときに「貞山堀はどちらですか」と聞いたところでもある。事務所の壁に貼ってあった詳細な多賀城地区の案内図を、はがして、よかったら使ってくださいといただいたところである。
 
 さて、この左側を流れる「砂押貞山運河(800m)」、一番短い「貞山運河群」なのである。
 
 左側は、中州にある宮城県中南部下水道事務所の前を通って、砂押川河口に続いている。右側も、やはり砂押浄化事業所の後ろを通って、砂押川水門の近くに出る。両方とも砂押川河口に出る。さて、困った。開削の時期は異なっても両方が貞山堀なのか?
 
 当然、「街道をゆく」には、一切触れられていない。しかし、貞山堀は、砂押川河口から仙台新港へ続いているのである。
 
 宮城県土木部河川課へもお聞きすることにした。県中南部下水道事務所については、さきほど触れたが、河川課でも、丁寧に図を書いて教えていただいた。ありがたいことである。



D貞山堀                              七ヶ浜町遠山地区


 大代地区の貞山堀から、塩釜方向に進むと、七ヶ浜町遠山地区にでる。
 
 この辺の水質は、良くないようである。近くを通りかかった小学生が「ここは汚いよ」と教えてくれた。
 
 対岸は、岩盤が見える。開削された当時のままだろうか?と思うが、実は、旧砂押川の河口は塩釜湾だったのである。貞山堀を通って塩釜湾に注いでいたということである。ということは、確かに藩政時代に掘削をして護岸工事も行ったが、旧砂押川(2300m)を利用して貞山堀としたと推測しても良いのではないかと思うのである。
 
 そう考えれば、対岸の岩盤は、まさに、浸食によってできたものであり、砂押川の流れを活用した区間であると言えるのではないだろうか。



E 貞山堀                            多賀城市笠上側護岸


 右側が七ヶ浜町の遠山地区である。

 左の多賀城市笠上地区側の護岸になにやら、カラータイルで絵が描いてある。この絵を見るのには、対岸の七ヶ浜町へ行かなければ見えないのだ。貞山堀からの米の積み出しの様子であるとか、帆を張った高瀬舟が描いてある。千石船も描いてある。反対に右側の護岸は、岩盤を削ったままのように見える。
 
 貞山堀の景観では、両側が小高い山の間を流れている地区であり、住宅地の中ということもあって独特の景観である。



F貞山堀                                 塩竃市牛生町


 蛇行している貞山堀の遠山地区を抜けると、海がいよいよ近い、牛生町に入ってくる。プレジャーボートが係留されている。近くに、小さな造船所もある。



G貞山堀海へ出る                         塩竃市牛生地区


 司馬さんは、『米は本来、士農工商を養って藩を成立させている基礎で、身分算定の基準であり、いわば神聖価値が、どこかつきまとっている。それを仙台藩は、江戸初期から商品にした。この点、先進的感覚といってよかった』
 
 更に武功年表を引用し『江戸初期の寛永九年(1632年)「今年より奥州仙台の米穀始めて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州米(仙台米)の由なり」とあり、米の仙台の豪儀さをしのぶことができる。
 
 この米一筋の盛大が、仙台藩の経済観を単純にした。「殖産興業」という多用な商品生産の事業が、江戸後期、西国大名のあいだで流行のように活発になるのだが、そういう時代でも仙台藩は泰然として米売り一本槍であった・・・そうすることが江戸初期までの幸福をふやす道だった。江戸中期から日本の経済社会が変化し、諸藩は産業を思考した。中期以後の仙台藩は、それを怠った「沃土の民」だったのである』と結んでいる。
 
 仙台藩の経済を支えたのが、この貞山堀なのである。貞山堀なくして、仙台藩の米を江戸へ運ぶことは出来なかったのである。阿武隈川河口、名取川河口、七北田川河口、仙台新港、砂押川河口と4つの河川、そして港を横切って、藩政時代から幕末まで掘削された写真右側の「貞山堀」は写真中央に見える塩竃湾(千賀の浦)に出る。 

 この後、左側へ続く明治期に開削された「貞山運河」は、石巻、旧北上川河口まで、続いていく。



H 塩釜湾(千賀の浦)                            塩竃市貞山通り

 塩釜湾(千賀の浦)である。石油関連基地があるために、オイルフェンスの巻き上げ機械が数基、防潮堤から突き出している。テロ警戒中ということで、黄色のパトライトが各社のゲートに付いている。監視カメラも作動しているようである。

 防潮堤を乗り越えて撮影している。ここまでくると貞山堀の面影はない。塩釜湾(千賀の浦)の景色が広がっている。


<< 御舟入堀Tに戻る  目次に戻る

TOPへ戻る   
   野蒜築港Tへ進む >>