街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「野蒜築港(その1)」

 塩釜市牛生地区から、海へ出た貞山堀は、海路を通り塩釜湾から松島湾の東名浜(Tonahama)へ出る。そこから、鳴瀬川の河口にまで東名運河が続いている。
 東名運河は、明治16年3月に着工し、明治17年2月に完成した。3.3Kmの短い運河である。
 なぜ、東名運河を開削しなければならなかったのか?そして、北上川河口の石井閘門や北上運河は、なぜ必要だったのか?答えは「野蒜築港」にあった。
                                             (13.May.2004)



@ 鳴瀬川河口から 野蒜築港内港 市街地跡を望む      桃生郡鳴瀬町


 明治9年から明治10年にかけて、内務卿大久保利通は、富国強兵、殖産興業の振興として、新たな港湾を東北地方の拠点とすべく、外国人技師(内務省雇長工師)ファン・ドールン(C.J.van Doorn)に港湾適地の調査をさせた。
 
 明治10年2月、ファン・ドールンは、石巻、女川(萩の浜)、松島湾(石浜と寒風沢は、仙台藩の東廻り航路の外港)、野蒜を調査し、野蒜が港湾に適地であることを内務省へ報告した。

 
 同年3月21日、内務省直轄の国家事業として「野蒜築港」が閣議決定
された。当時の予算で67万8000円(現在の金額で約1兆円位)である。
 明治12年7月、鳴瀬川の河口を内港とする工事が着工、明治15年10月に竣工した。
 
 ここが内港であり、浚渫して、内航船の船溜りとした。現在は砂が溜まって浅瀬となっている。正面の松林に囲まれているのが、当時、河口の湿地帯であった部分で、この河口の浚渫された土砂や新鳴瀬川の開削時の土砂で埋め立てられた市街地跡である。



 ※「野蒜築港120年シンポジウム報告集」より「築港跡の測量調査と遺構の位置」
 (株)大江設計 大江勝雄氏提供」・・『当時の図面を現在に重ね合わせるのに大変参考となるので・・・』とシンポジウムに「話題提供」をされました。口絵4ページ目の貴重な図面である。

A 新鳴瀬川 鳴瀬川分流点 市街地入口  〜鳴瀬町浜市樋場地区



 野蒜築港「市街地」への入口である。正面の川が、内港に鳴瀬川からの土砂が堆積するのを防ぐため、明治12年11月に開削着工された水路「新鳴瀬川」である。

 
「新鳴瀬川」は、このように現在は、堰き止められて、市街地跡へ続く道路が横切っている。築港当時は、鳴瀬川本流とつながっていた。この「新鳴瀬川」の先に、北上運河が横切るように開削されているのである。更に新鳴瀬川は、そのまま海へ流れていくように地図には記してあるが、合流点を見つけることはできなかった。私は、鳴瀬川を背にして立っている。

 右側に広がって見える土地が、「鳴瀬川」、「新鳴瀬川」、「北上運河」に囲まれた三角形の湿地だったが埋め立てられて造成された約34.6haの「市街地」跡である。(現在の鳴瀬町浜市樋場(HamaichiDoba)地区である)

 薄曇りの空に航空自衛隊松島基地のブルーインパルスによるスモークが横切った。
 右側の更地は、近年まで民家が建ち並んでいたが、防衛庁の施策による集団移転で今は更地になったところである。

 赤レンガで出来た橋台が「新鳴瀬川」を挟んで残っている。三角形の「市街地跡」には、上・中・下の3橋の橋台が残っている。それぞれ3つの橋台で1組となっている。3橋とも、同じ寸法、同じ構造である。



B 野蒜築港跡  市街地入口「上の橋」橋台   鳴瀬町浜市樋場対岸



 橋台の上部には、装飾として縦にレンガが組んである。
 レンガの側面の長い方を「長手」、短い方を「小口」、上面は「平手」と呼んでいる。

 この橋台のレンガの積み方は、長手−長手−長手−長手と積んでいって、上の段で、小口−小口−小口−小口と積んである。この積み方が「イギリス式」と呼ばれ、構造的に強度を保てるため、土木工事に多く使われたとのことである。

 フランス式は、長手−小口−長手−小口と積んで、上の段は、小口−長手−小口−長手と積んでいく方法であり、デザイン的に綺麗に見え、建築物に多く使われたとのことである。

 日本の近代のレンガの積み方は、このイギリス式とフランス式に分類されるということである。覚えていて損はない。

 使われている目地であるが、セメントモルタルが一般的であるが、国産化が明治8年とされている。その前には、漆喰、石灰、貝灰を使用したとされ、野蒜では魚の白子を混ぜたという記録もある。

 このレンガ自体も、野蒜の現地で焼かれたものか、他で作られて運ばれてきたのかミステリーである。鳴瀬・吉田川合流点にレンガ工場があった土地の人の話があるが、現在は、水没しているためにサンプルがない。サンプルがあれば調査分析する話も出ている。どこかの家の庭の隅にでも転がっていないかと気になる。



C 野蒜築港跡  「中の橋」橋台               鳴瀬町浜市樋場対岸


 当時、市街地の真ん中を突っ切る道路に正対している「中の橋」の橋台である。 しかし、対岸の浜市樋場側の橋台は、この場所のみ残っていない。
 この橋台のレンガの積み方もイギリス式である。上部に縦に付いている装飾のために付いている縦のレンガがよくわかる。一番保存が良いのが、「下の橋」の橋台であるそうだ。船に乗せてもらいたい気になってくる。



D 新鳴瀬川 北上運河合流点「下の橋」           〜鳴瀬町樋場(Doba)側


 左からの流れが、鳴瀬川から分流された(現在は、せき止められている)新鳴瀬川である。右側が、北上運河である。
 
北上運河は、鳴瀬川河口から現在の旧北上川を結ぶ区域延長12.8Kmの運河で、明治11年6月に開削着工、明治14年10月に竣工した。

 野蒜築港へ工事用の木材や突堤に使われた大量の稲井石を水運で運ぶのために、明治11年5月に第一期工事関連として開削されたのでる。

 同時に、北上川河口と北上運河の水位の差から、船舶の航行をするために北上川河口に作られたのが石井閘門(Komon)である。
 この新鳴瀬川(幅13m)に、いったいどんな橋がかけてあったんだろうと気になる。





 近年『起業公債並起業景況第三回報告』という図面付の史料が群馬県の古書店にあったものが発見され、その中には、「石井閘門」をはじめ、この「門脇村大街道架橋の図」という資料が含まれていた。発見された日本出版学会会員で仙台市在住の渡邊氏が、復刊発行を社団法人東北建設協会の支援によって実現された。
 
図面の土台石から斜めに支柱が伸びている。寸法入りで描かれているそうである。構造上からも、こういう橋が架かっていたのではないかということである。(野蒜築港120年委員会「野蒜築港120年シンポジウム報告書・平成11年10月発行表紙より抜粋要約)



E 野蒜築港 市街地入口 「上の橋」橋台            鳴瀬町浜市樋場対岸


 たまたま、干潮時に撮った「上の橋」橋台である。橋台下部の石に30cm四方の穴が空いている。この穴に、30cm角の斜めの支柱を受けたと思われる穴である。
 
 この3つの橋台で1組である。寸法計測結果は、真ん中の橋台の幅が90cm、両側の橋台の幅は1m13cmであり、真ん中が細い。高さは2m45cm、長さは6m80cmである。3つの橋台の端から端まで、10m08cmである。



F 野蒜築港 市街地 「下の橋」橋台             鳴瀬町浜市樋場側


 目的がわからない「下の橋」樋場側の陸上部にアーチ型にレンガが敷いてある。これもミステリーである。
 
この場所の橋台が一番保存が良いと言うことは、後で知った。場所は、現在の浜市漁港から、自転車専用道路をしばらく行ったところである。もう少し撮ってみたいと思ったが、5月初旬でこの草である。私は、ヘビが嫌いであり、気になったらどうしようもない。しかも120年の樹齢の松が覆っている
静かすぎて不気味でもある。

 三角形の当時の市街地の廻りを撮影したが、市街地の中も撮してみた。



G 野蒜築港 旧野蒜測候所跡                  〜鳴瀬町浜市樋場地区


 車1台がやっと通れる道路脇の民家の取り囲む竹・杉を中心としたイグネの脇に、野蒜測候所跡の碑がたっている。

 測候所を思わせるような建物の遺構を見つけることはできないが、この碑と、後述の赤煉瓦でできた門柱跡だけが残っているだけである。

 昭和20年に碑を建てた仙台気象台森田台長が、昭和18年頃から、仙台気象台発祥の地である野蒜測候所跡を探しつづけ、この場所を見つけたということである。野蒜測候所顕示式の当時の森田台長の式辞の記録が石巻市に残っている。

 「戦雲天を覆い硝煙地に渦巻きて決戦の凄気宇内に満つ時惟昭和20年6月1日職を気象の事に奉じ身を測候の業に挺する者本日を以って記念の日となす、我等亦此佳日をトし茲に仙台地方気象台並に石巻測候所員一同相率いて事業発祥の地を求め其基を顕示せんとす・・・明治20年測候所亦石巻に移転の止むなきに至る而して遺跡を留めず爾来60有余年香として不明なりしが昭和18年台員嘱託 小山 康三命を受けて之が探索に従ふや苦心探索遂に現在の地宮城県桃生郡小野村濱市市街地なる ○○氏邸内の一隅を正しく其の遺跡なることを確認し茲に我事業発祥の地を明かにするを得たり、よって本記念日をトし地元小野村々長並びに ○○氏の来臨を得て此の地に標注一基を建て野蒜測候所顕示式を拳ぐ台員一同此の地を銘記し先輩創業の困難を偲び以て我事業の伝統を識るべし 右以て式辞となす。
昭和20年6月1日  仙台地方気象台長 森 田  稔」とある。

 当時の森田台長が測候所の跡地を探し出し、この民家が測候所の跡地であると確認した、ここの○○氏の庭先をかりて、碑を建てたということである。



H 野蒜築港 旧野蒜測候所跡                  〜鳴瀬町浜市樋場地区


 測候所跡の碑から、もう少し民家に近づくと、この四角のレンガ積みの物体がある。当時の測候所の門柱の一部ではないかと言われている。



I 旧野蒜測候所門柱跡 赤煉瓦刻印         〜鳴瀬町浜市樋場地区



 野蒜築港関係で、ほぼ同一年代に建設された石井閘門、橋台で、唯一、「刻印」がある赤レンガが使われているのが、この野蒜測候所の門柱跡といわれている場所にある。

 □の中に「中」の文字が読みとれる。右のレンガにも、同じ刻印が不完全ながらも、読みとれる。どこで作られたレンガなのだろうか。



J 野蒜築港 市街地中心点              鳴瀬町浜市樋場地区


 内務一等属黒沢敬徳碑(紀功之碑)と同じ場所にある工事用の石製のローラーの2つのうちの一つである。以前は、地べたに直に置いてあったようだが、現在は、コンクリートの土台の上に置いてある。
 1つのローラーは、近年の工事で出土したという。まだ地中に埋もれているかもしれない。
 真ん中に空いている四角の穴を挟んで「土木」と掘られている。
 
 黒沢敬徳は、当時の内務省土木局、野蒜出張所長であり、野蒜築港工事に直接携わった人である。築港当時の土木技術では無理がある突堤工事に一生を捧げた人でその功績をたたえて、明治17年2月黒沢敬徳が没した後に、ここに碑が建てられたということである。
 
付近にある宮城県・環境庁の案内板には、「この一帯は「市街地」といわれ、野蒜築港事業の一環として都市計画街路が縦横に区画された、銀行、商店、米取引所などが軒を連ね、往き交う人馬で空前の賑わいを呈した。ここが市街地の中心にあった公園の跡である。現在は野蒜築港に身命を捧げた「黒澤敬徳の碑」と工事に使用したローラーに往時をしのび、激浪の中に幻のごとく消え去った築港の夢と先人の苦闘を語りかけてくれるだけである」。と記されている。



K 野蒜築港 市街地跡             〜鳴瀬町浜市樋場地区


 三角形の市街地跡である。廃港後の大正元年の陸軍省で作成された地図では、市街地は荒れ地と針葉樹林だけとなっている。当時の市街地の道と地図を重ねてみると一致する。

 つわものどもが夢の跡・・である。しかし、当時から、この市街地に、住んでいる人達もいるし、鳴瀬川の対岸の新町に住んでいる人や、市街地跡の廻りに住んでおられる人も大勢いるのである。悪水吐暗渠(現在の下水道幹線)が最近になって発掘されたのも、当時、子供であった住民が、子供の頃に穴に入って遊んだとか、お年寄りから聞かされていたという記憶があったからなのである。



L  川平田船           鳴瀬町浜市樋場 現:浜市漁港


 貞山堀から、ここまで来て、やっとこの船に出会うことが出来た。市街地跡の北上川運河沿い、現在の浜市漁港に陸揚げされているものである。
 私が、子供の頃には、七北田川の渡し船も、貞山堀を航行するほとんどの小型船も、そして朽ち果てて川辺に沈んでいる船も、この平田船であった。この船が河川運搬の主流であった。

  歴史の中での生活の記録は、日常の中にとけ込んでいる、月日を重ねたときに、あやふやな記憶になってくるのである。当然、日常的な物は、日常的に、目に付いているから、特に記録も保存もする必要がないと思ってしまうのである。しかし、必要な時には、あやふやな記憶しかないのでは、記録とは言えないのである。

 故に、日常の記録や保存が必要であると考えている。こんなもの、どこにでもある。珍しくくも何んともない。汚いだけだ・・等で終わってはならないと思うのである。



M 鳴瀬川河口   内港西突堤           鳴瀬町野蒜


 野蒜築港が廃港となる原因にもなった外洋に突き出ている現在の西突堤(竣工当時は、148間約269.1m)である。
 この突堤に使われている岩石が稲井石(Inai-ishi)と言われ、北上運河を通って石巻の北側の稲井から運ばれてきたものと同じ岩石なのである。

 土地の人からの話によると、昭和35年5月24日チリ地震津波の時に、海が干上がり、突堤が続いているのが判ったと話している。また、砂浜だと思っていたら、黒い塊が海底にあり沈んだ船だと思ったら岩礁だらけの海だったという話もある。この先にも突堤の跡が続いているようである。

 しかし、この突堤が当時のものなのかと言えば、そうではない。
なぜなら、昭和22年のカスリン台風、昭和23年のアイオン台風によって、突堤基部から流出する被害を受け、昭和25年の熱帯性低気圧によって、ほとんど流出し、河口は完全に閉塞、鳴瀬川の水は、東名・北上運河へ流れ問題を引き起こし、宮城県では、河口突堤の再建計画を立て、昭和28年4月から「捨石式突堤工事」を開始、昭和29年3月初旬に完成したものである。
 また突堤工事は、完成したものの、堆積し砂丘状になった砂を人海戦術で取り除いたという記録もある。


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