街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻

「野蒜築港(その2)」

 野蒜築港」について、私なりに調べた内容をまとめてみたが、今回で、野蒜築港が、なぜ破壊し、なぜ廃港になったかに触れて野蒜築港編を終了し、東名運河へ、進めていくこことしたい。野蒜築港は、まだまだ全容が解明されておらず、これからの謎解きも非常に楽しみな内容をもっている。歴史・社会・生活・土木・気象と様々な分野での謎解き、機会があれば、また追記などしてみたいと思う。



① 野蒜築港内港  西突堤         桃生郡鳴瀬町  鳴瀬川河口

 西突堤の先端である。 ここに来る途中、数人の釣り人に会った。クロダイかシーバスを狙っているんだろうと思う。
 もう少し、先に進めるような感じもあるが、突堤の周りは外洋である。これ以上進むのはやめることにしたのである。



② 西突堤から東突堤を見る                      ~鳴瀬川河口

  西突堤を少し回り込んで東突堤を撮ってみた。竣工当時は、西突堤と東突堤の間隔は、約91mである。まだ東突堤の先端ではないが、波が突堤を洗っている。風は、5m/sくらいだろうか。それでも突堤は波の影響を受けているのである。

 当時の野蒜測候所の記録にも残っているが、野蒜というところは、常に風が吹いているところである。

 河口から上流に行くと、JR仙石線の鳴瀬橋梁がある。近年、新橋梁ができる前は、春は3.4.5月、秋は9.10.11月と区間運休を伴うダイヤの乱れが頻繁であった。新橋梁ができてからは、運休が発生するという乱れは少なくなった。とはいえ、吹いている風は、0から5m/sくらいは、常に吹いており20m/sを越える日も多々ある。
 
 また、海岸地区では、風だけではなく波浪も考えなくてはならない。波浪の、ほとんどは、風によって発生・発達した波である。波は「風が強いほど、長く吹き続けるほど、吹く距離が長いほど高くなる」という性質がある。
 更に波の発生・発達は500Kmを考慮にいれなければならないと言われている。500Kmというば、東京で測候される風である。



③  野蒜築港内港  西突堤から見た東突堤先端部           鳴瀬川河口

 明治17年9月15日の台風により、突堤の1/3が破壊され、野蒜築港が廃港になる要因となった東突堤の現在の姿である。
 竣工当時はこの東突堤が何メートルあったのか・・・東突堤173間、西突堤は、148間、両突堤の間隔は、300尺、干潮面以下では、265尺。航路の水深は、18尺~14尺である。工費は、88742円である。石の大きさは、最大で200~300才・・「才」?「1才」は「1立法尺」である。
 尺貫法というとピンとこないが、当時は、尺貫法が使われていたのである。
 しかし、尺貫法だと区切りがよい。メートル法に換算すると、173間だから約314.5m、148間だから、約269.1m、300尺だから約91mとなるのである。この東突堤も西突堤と同じく、昭和28年に修復された突堤である。



④ 野蒜築港内港  西突堤                          鳴瀬川河口

 野蒜測候所の記録によれば、突堤が破壊された明治17年9月15日の台風の記録が残されている。それによれば、確かに台風で波浪もあったが「一瞬にして崩壊する」ような風や、波では、なかったのである。
 そのことは、野蒜という気候風土の中で、つねに突堤に波が押し寄せダメージを受け続けて、疲労が重なり、明治17年の台風により崩壊したとする方が理にかなっていると思われるのである。



⑤ 西突堤 先端部                             ~鳴瀬川河口

 加えて、ファン・ドールンという技師は、河川改修では、実績を持っているが、港湾築港技術は持ち合わせていなかったのではないかということが言えるのである。

 彼が、この突堤工事に使った工法は、「粗朶沈床工」(Sodachinsyoko)と言って、河川工事では、現在も環境にやさしい工法として見直され使われている。

 しかし、ドールンは、この工法を外洋に面した突堤部に使ったのである。
 柴枝などの粗朶(Soda)を厚さ3尺、最大沈床長55尺、広狭は海面に出すに従って変化させ結束させたものを、最大幅は120尺、最小幅33尺の「沈床」として据えて、その上に石を投下して沈圧させたが、怒濤で「沈床」が流出するために、撒逸防止に杭を打って、それを3~5層重ねたが、海面下7尺以上では沈床が保てないことわかった。
 
 明治14年から、零点以下7尺で沈床はやめ、縦4尺の間隔に、平均21尺の杭を3~5列に打ち梁木を乗せて、杭・梁木共に銅板で覆って腐食を防ぎ、杭をネジ釘で付着し、縦に尺角の桁を設置し枠とし、提頂は、15~30才の石で半月形に築造、その左右は水底から提頂まで、3割勾配に捨て石を投ずるというもので、石の大きさは、最大200~300才のであった。海面下7尺以下は、粗朶沈床工、海面上は別工法にしたのである。
 
 明治15年10月、こうして、水深4~5mの野蒜内港が、鳴瀬川河口に誕生したのである。築港決定後の明治11年5月14日内務卿大久保利通が暗殺されたが、国家事業としての野蒜築港は、伊藤博文、山県有朋内務卿に引き継がれていったのである。
 ドールンの計画にはなかったが、椿湾への土砂の堆積が激しく宮城県が明治15年から東名運河を開削に着手するのもこの頃である。



⑥ 野蒜築港市街地を北上運河より望む               鳴瀬町浜市樋場対岸

 河川では、現代でも行われている素晴らしい粗朶沈床工も、打ち寄せる外海の波浪には勝てなかった。野蒜築港内港の東西突堤は明治17年9月15日~18日の台風の影響でついに破壊される。
 
 宮戸島の潜ケ浦を外港として、大型船舶を停泊させて、艀で内港を結び、将来的には防波堤を築いて、内外港の一体化を進める第二期工事へ進むこともなく、内港は、大量の土砂で浅くなり船舶の航行が出来なくなってしまうのである。

 当然にも、野蒜港の工事再開を望むが、当時の浚渫技術、国家財政から、明治18年廃港と決定されるのである。その後、明治43年の塩釜港築港まで、東北は、忘れられ国家財政は、北海道へとつぎ込まれるのである。
 
 北上運河で野蒜に結び、松島、貞山堀を通り阿武隈川を結ぶ、鳴瀬川によって背後の地区を繋いで東北の大部分を後背地にするという大きなスケールプランは、内港が竣工した明治15年から2年間(廃港決定までだと3年間)の夢と消えたのである。



⑦ 野蒜築港 市街地跡                        鳴瀬町浜市樋場

 野蒜築港現地ガイド板に刻まれた、港を中心とした都市計画の栄華は、降って湧いたような賑わいから、急速に寂れていった。

 寒村であった野蒜が賑わいを見せたのも一時期であったといえる。特に、この市街地の対岸の野蒜新町の土地の人の話は当時の様子を伝えているのではないかと思う。
 
 野蒜築港で金儲けをした人の話は聞いたことがない。純朴な寒村に飲み屋ができて、藩政時代からある「不老義会」という町の契約講は、それまで精進料理で解散していたが、帰りは、女郎屋へと行ってしまうので、「禁酒」になったとか。女郎屋(遊郭)が7軒あったとか、そういう話が残されている。

 また「野蒜新町たかぼうきいらぬよ」の唄は、「野蒜新町、若い衆が揃ったじゃないか、月は松原の影、松原を抱いたじゃないか、野蒜新町たかばうきいらぬよ、若い女の裾で掃く。盆が来たのに、赤い下駄かってけろよ」と奥さん達が男の所行に角をはやして「お盆になったから赤い下駄を買ってくれ」と皮肉を込めた唄が残っているのである。



⑧ 野蒜築港 市街地跡                           鳴瀬町浜市樋場

 野蒜築港、市街地跡に建つ民家の裏手になる。人が住んでいる建物はこの建物の前に別棟で建っている。
  道路の周りが更地になっている。この更地の部分にも家が建っていたはずである。ここが集団移転地区になっていると気づいたのは、2回くらい通った後のことである。
 私が、始めて、この市街地跡を訪れたときのことは、日記に書いた。今日まで、いろいろ調べて、この地面の下にも、当時の下水道の遺構や工事に使われたローラーなど当時の遺物・遺構が埋まっているかもしれないと思うようになったのは最近のことである。
 この市街地跡、国家事業として始まった野蒜築港が廃港に決まった後、当時、官有地は、払い下げになるのが普通であったが、北海道での官有物払い下げ事件(一連の汚職事件)があり官有地の払い下げが問題視されたことから、貸し下げになったと推測されている。貸し下げになったことは、「野蒜築港市街地拝借払下願書(明治13年)」の存在でわかる。当然、多くの資本投資を望めるはずがない。それ故、急速にさびれていったのではないかとも思われる。
 現在この地に住んでいる方は、そうした120年という時の流れの中で生活を営んでいたのかもしれない。こいのぼりが五月の風に舞っていた。



⑨ 北上運河から 市街地を望む                      鳴瀬町浜市樋場対岸

 市街地に夕暮れが迫っている。静かな時間が流れていくのを感じる。「下の橋」の橋台が松の間から見える。120年の時を、じっと見つめてきた橋台、戦火をくぐり抜け、幾度となく天変地変を見てきた。最近では、宮城県北部地震があった。
 人生100年生きていける人は、さほどいない。しかし、1世紀の間に、いくつの戦争を人間は起こしてきたのだろうか。たった自分が生きている100年間、戦争をしないで生きていけないのだろうか。そんなことも、考えさせられる場所である。 
※この野蒜築港をまとめるにあたり、野蒜築港120年フォーラム報告集を参考にさせていただきました。Web上ではありますが、成果に対し敬意を表すると共に御礼を申し上げます。ありがとうございました。


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