街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「北上運河」(北北上運河)

 1877年(明治10年)3月「野蒜築港」が閣議決定され、突堤工事他に使用する大量の稲井石の運搬が必要になった。稲井石は、従来よりあった北上川舟運で、旧北上川河口の石巻河口港までの運搬は可能であった。

 しかし、河口港の水深が浅くなったこと、天候に左右されること、河口付近が藩政時代から遭難事故が多く犠牲者を出していたことから、野蒜築港第一期関連工事として、現在の「旧北上川」から、鳴瀬川河口(野蒜内港)まで、内陸を通る運河を開削することになった。

 その運河は、1878年(明治11年)に、開削を着工し、潮の干満の影響を受けないで船舶の通航を可能とする石井閘門が1880年(明治13年)6月(新聞掲載の「起業実況記事」による)に完成。そして1881年(明治14年)1月に通船式を行い、同年10月に12.8kmの「北上運河」として完成するのである



@ 旧北上川                         〜石巻市蛇田付近〜

 旧北上川である。川幅がひろく、ゆったりした眺めである。地図で見ると、蛇田(Hebita)あたりから、稲井(Inai)付近まで、大きく湾曲しているのが判る。以前の河川銘板は「旧北上川」と漢字で書かれていたが、最近は、かな表記となった。
 北上川は、古代より河川改修や河道付け替えの工事が行われてきたところである。北上川については、司馬さんも、「海に入る北上川」の章で書いているので、私は、北上運河に絞って進めていくこととしたい。



A 「稲井石」石切場                   〜石巻市北上川沿い〜

 野蒜築港に使われたのが、このあたりで産出される「稲井石(Inai-ishi)」である。井内石とも書くが、麓には、現在でも、石材屋さんが多く、稲井石は切り出されて、石碑や墓石に使われている。宮城県内のほとんどの石碑は、稲井石であるが、仙台藩と関係があった東北以外のところでも、石碑に稲井石が使われていることがある。
 野蒜築港突堤の提頂に部に使われた200才から350才(1才は1立法尺)の巨石は、江戸時代からの「石釣船」といわれた船の中央の底がなく、海中に石を沈めて石の浮力分だけ軽くして運ぶ船が使われていたと考えられるのである。  



B 旧北上川右岸−北北上運河合流点                     〜石巻市蛇田〜

 「稲井石」を、藩政時代から内陸水運の盛んであった北上川から鳴瀬川河口の野蒜まで船で運ぶのに、水深の浅い石巻河口港や、天候に大きく左右される外洋を通らず、安全に航行できる内陸水路の必要性があった。それが北上運河開削の目的であった。
 そのため、明治政府は、蛇田村高屋敷(現在の石巻市蛇田(Hebita))に「土木局出張所」を開設し、1878年(明治11)6月に旧北上川との合流点の石井閘門と北上運河の開削が着工されたのである。
 (北上運河は、石井閘門から定川河口までの北(Kita)北上運河(約6Km)、定川(Jokawa)河口から鳴瀬川河口までの南(Minami)北上運河(約7.9Km)の運河の総称である)



C 石井閘門 川表ゲート(旧北上川側)             〜石巻市蛇田 石井閘門〜

 1878年(明治11年)旧北上川側の船舶通過用水位調整施設として着工、1880年(明治13年)に完成したのが、この「石井閘門(Ishii-Komon)」である。
 石井閘門は、日本最古のレンガ造りの西洋式閘門で、可動ゲートを持つ閘門としても日本最古のものである。マイターゲート式(観音開き式)の扉構造は、元々は、木製(ケヤキ製)であったが、1966年(昭和41年)に現在の鋼製に更新されたものであるが、扉以外は、当時のままである。近代土木遺産として、2002年(平成14年)重要文化財に指定されている。
 門柱部は、レンガ造りで、使用されている赤煉瓦は、現地調達ではなく、仙台から運ばれたレンガである。川表門柱の高さ6.30m、川裏門柱の高さは、4.70mで、川裏(北上運河側)の方が低い、また閘室は、石造りである。稲井石は、扉との接合部の加工が難しいため、岩手県花泉産の石材を用いている。平均的高さは4.65m、幅は、7.15mである。



D 石井閘門 閘室 川表ゲート(北上側)を見る     〜石巻市蛇田 石井閘門〜

 閘室に、はいった船は、旧北上川と北上運河側の水位が平均になるまで、ここに入っている。閘門が船のエレベーターと例えられるのは、閘室内で水位の変化をさせることによって、船が上がったり、さがったりするからである。



E 石井閘門 閘門操作部「絞車」                        〜石巻市蛇田〜

 当時の陸羽日々新聞の榊時敏記者が「野蒜実況」の中でこう記している『閘門は牡鹿郡高屋敷村の東南に当りて、北上川と運河との流通を遮断する者にして、野蒜港に通ずる船舶を自由自在に往復することを得せしむるに在りて、北上川と運河との張水溢流を防御するに左も緊要の者なりと思わる。而してこれを開閉するには閘門の両側に設置せる絞車(Makiguruma)を以て一人の力能くこれを自在ならしむれば、北上運河の水平均してして船舶相通ず、その間五分時に過ぎざるべし』と書いている。
 「一人の力でも絞車を使って、北上川と北上運河の水位を合わせるのに5分位のものである」と書いているわけである。
 現在の石井閘門も、川表・川裏ゲートとも、モーターや油圧による遠隔操作ではなく、今でも絞車による手動式である。ケートの両側に1基づつ、川表・川裏ゲートで4基の絞車がある。



F 石井閘門 川裏ゲート                              〜石巻市蛇田〜

 カヌーが岸辺に上がっている。閘門ゲートの周りには桜が植えてあり、春先の撮影も良いかもしれない。右側には土手の地形を利用した運河交流館が出来ている。 



G 石巻線「運河橋梁」から石巻閘門を望む                 〜石巻市蛇田〜

 石井閘門から、北上運河は、やや北へ曲がった後は、まっすぐ、定川の河口にすすんでいく。
 開削後は、小型ながら川蒸気も航行していたが、明治17年の野蒜築港廃港と、明治23年の東北線開業に伴い、北上運河の舟運の用途はなくなってきたのである。
 舟運のない北上運河に架かる石巻線の鉄橋も、このように低いものが造られているのである。かつては、この鉄橋を渡るC11型蒸気機関車の撮影ポイントであったが、現在は、気動車が運行している。



H 北上運河のポプラ                                〜石巻市蛇田〜

 石井閘門から、定川方向に向かって、少し行くと、この北上運河のポプラの前に出る。雨の石井閘門から霧の中に見えていたのが、このポプラの木であった。
 石巻出身である浅井元義先生の描いた『北上川スケッチ紀行』に『ポプラのある川辺』という作品がある。桃生町高須賀付近の北上川とポプラが描かれていて私の好きな絵の一枚である。札幌の北大構内のポプラ並木が有名であるが、川面に映るポプラも良く似合う。 
 私の住んでいる地区からも、かつて七北田川土手下にあるポプラの木が見えていた。当時は、大きい木だなぁとは思ったものの、大志を抱くところまでは至らなかった。そんなポプラを見て苦笑したのもこの場所である。 



I 北上運河の松並木             〜石巻市水押〜

 市街地を抜けると、運河沿いに松並木が現れる。ところどころ切り倒されている。樹齢は、北上川開削と同じ約120年である。
 なぜ切り倒されたのか。道路拡張や、日当たりが悪いからではない。松食い虫被害で、枯れたためである。松島での松食い虫被害も出ているが、北上運河沿いの松並木も危機に瀕しているといえるのである。
 運河の水の色が赤茶けた色をしている。護岸工事の影響かどうかはわからないが、赤い運河と言った方がいいかもしれない。かつて北上運河は、流れが止まっていて水質が悪かったが、石井閘門の復元完成や、石井閘門脇に直接、旧北上川から北北上運河へ浄化導水樋管を設置して、水の流れる北上運河となって、十数年前から、徐々に水質が向上しているのである。



J 幼松                                      〜石巻市門脇付近〜

 太い松が切られていても、また小さな松が育っていく。かつての松並木が戻るのに、また1世紀くらいの年月を要するのであろう。
 そもそも、この松並木、人工的に植えられたものでないことは、野蒜築港の項で書いた。自然の偉大さに改めて感動である。



K 釜閘門                                    〜石巻市門脇〜

 北北上運河も西へ進むと、いよいよ定川の河口に近づいていく。
北北上運河と定川(Jogawa)の船舶航行用の水位調整施設が釜閘門(Kamakomon)である。この釜閘門は、道路からも見えて、探しやすいが、定川を挟んだ南北上運河の大曲閘門は、定川に架かる橋と北上運河に架かる橋がある。どちらもほぼ同じ高さなので、自分が通ってきた橋が、どちらなのか方向オンチの私にとっては、苦労するのである。




L 釜閘門                         〜石巻市門脇〜

 この閘門も、マイターゲート式で、油圧によってケートが開閉される。マイターゲート式は、最近の水門には少なくなってきているが、上部構造が省略されるので、背の高い船でも通過できるという利点を持っている。
 閘門の操作をするため、ここには管理人さんがいる。昼休み時間だったので食事をされていた。
 釜閘門へは、上の道路から、車が入るような道もないことから、土手の下に一旦車を置いて、庭先から声をかけて、閘門を撮らせていただいた。
 「いい写真をとってください」と元気づけられた。この閘門は、いつ頃造られたのだろうか?全て石造りである。先の宮城県北部地震の爪跡だろうか、石組がずれているところがあった。



M 釜閘門から定川を望む                〜石巻市門脇〜

 北北上運河も、釜閘門をでて、定川の合流点まで数10mを残すだけである。
 この辺が、旧大街道といわれた地名であり、旧蛇田村新橋付近まで、昔から牡鹿原(Oshikabara)といわれた一大湿地帯であったということである。
 北上川の開削が進むにつれて排水が良くなり乾燥した土地になってくると、1879年(明治12年)10月、当時の松平県令が「士族授産事業認可申請」を内務卿に提出して、明治13年1月に認可を受けた。
 43名の士族が入植し移住し、290haの官有地の貸し下げを受け、石巻の豪商・戸塚定輔が40haを政府に献納して大規模な開発となり、米・麦などの穀類だけでなく、サトウキビ栽培による製糖事業も起こされたが、気候に適さず中止されたと伝えられている。梨は、その後の特産になったと『石巻市史』に掲載されているのである。 



N 北北上運河 定川合流点                            〜石巻市門脇〜

 定川との合流点、北北上運河の終点であるが、「起点から何キロ」という標識が見あたらないので、終点かどうかははっきりとは言えない。あるいは釜閘門が終点かもしれない。いずれにせよ定川に出たので、終点といってもいいと思うのである。
 対岸に、南北上運河の入口が見えている。目を凝らしてみると、閘門らしい設備が見えている。
 次は、いよいよ、南北上運河である。


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