街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「北上運河」(南北上運河)

 南北上運河は、定川から大曲閘門(Oomagarikomon)に入り、野蒜築港の内港として機能するはずだった鳴瀬川河口へほぼ直線的に流れているが、途中、現在の矢本町大曲付近で、緩いS字を描いて鳴瀬川河口まで抜けるのである。



@ 定川から南北上運河を望む                〜桃生郡矢本町〜

 定川の岸辺から、南北上運河を撮してみた。前述の『野蒜実況(明治14年1月13日)』によるとこのあたりを紹介している記述がある。
 『定川と云える一流あり、北より流れて海に注ぐものなり。運河は之を横断して深川に連続し、終に野蒜の繋船場に達し居れり。定川は牡鹿と桃生との郡界にして水の常に斜流するが故に、架橋の杭も亦た従って斜めならざるを得ざるの勢いあるか、橋杭悉く斜めなり。その長さ72間、幅5間なりと雖も、基礎組立の堅牢なる実に驚くに堪えたり。・・・・北方の原野を望むに後来良田となるべき野地数万坪あり、矢野勧業課長の言に依れば、大半民有地なりと、依って詳細の調査は未だ之を知る能わざれども、官有地のみにても2、3万坪はあるべしと云う』
 「水が常に斜流するものだから、架橋の杭も、斜めにならずにはいられない程の勢いがあるのだろう・・・北方の原野は、将来は良田になるにちがいない野地が数万坪あって、大半が民有地で、官有地だけでも2、3万坪になるだろう」と記者は書いているのである。 



A 南北上運河から定川を望む                〜矢本町大曲〜

 私は「大曲閘門」(Omagarikomon)を背にして、定川と南北上運河の合流点を見ている。たったこれだけの距離なのであるが、この大曲閘門にたどり着くまでが大変であった。
 運河からは見えていても道路からは遠い。そんな場所である。
左側は、自転車専用道路であるが定川を上流で渡り、定川の川沿いにしばらく走って、運河沿いに入ってくるのである。入り口はかなり遠いのである。
 右側は、車道であるが、閘門の先から、私有地のため柵が岸辺まで張ってある。閘門が見えるところまでは近づけるが、ゲートにはたどり着けないのである。
 結局、県道脇に車を止めて、徒歩で鳴瀬川方面に戻って、自転車専用道に途中から入り、運河沿いに定川方面に歩いて、閘門にたどり着くのであるが、県道から閘門は、土手とブッシュで全く見えないのである。



B 絞車(makiguruma) 川裏ゲート          〜矢本町・大曲閘門〜

 大曲閘門である。荒れていて夏草が生い茂っている。ゲート上の歩み板に片足を載せると・・・腐っていた。慌てて足を引っ込めた。
 この閘門の川表・川裏ゲートは、全て開いていた。石巻の石井閘門と同じく手動式の『絞車』(そのまま『まきぐるま』と呼んでいいものかどうかであるが、当時はそう呼ばれていたようなので、そのまま呼ぶことにする)が4基ある。もう何年も動かした形跡がない。いたる所で錆びと腐食で無惨な姿をを晒しているのである。
 なぜ整備されていないのだろうか?船舶航行用の水位を調整する必要性が無くなったと考えれば、閘門扉が朽ち果てようと何も手をいれないのも納得である。
 ここも釜閘門と同じ石造りである。大きさも釜閘門と同じくらいである。石井閘門は、閘室が狭かったが、こちらは、川幅とほぼ広さである。門柱も石井閘門と比較してかなり低い。



C 通水ゲート操作部                〜矢本町・大曲閘門〜

 ゲート上の歩み板に通水ゲート操作部が突き出ている。閘室への注・排水のためのに、各ゲートに1個づつ、設置されている。
 逆回転防止用のラッチが付いているハンドル挿入部がよくわかる。ここにハンドルを挿入して、まわすと、上に付いているラッチ板が上下する。それにより、ゲートについている小さな扉が上下にスライドして閘室に注・排水される仕組みである。



D 大曲閘門 川裏ゲート                〜矢本町・大曲閘門〜

 大曲閘門も、こうしてみると、荒れているようには見えない。
逆に、運河の中に沈んでいる沈船が目に付く。グラスファイバー製である。 閘門の扉が腐り、やがて運河の中に没しても、この沈船は、このまま腐らないで残るのである。
 いつまでも腐らないのが、グラスファイバーのメリットであり、デメリットである。



E 南北上運河 鳴瀬川方面を望む              〜矢本町大曲上浜橋付近〜

 大曲閘門から、鳴瀬川河口方面へ南北上運河は、ほぼ直線的に向かうのであるが、現在の矢本町大曲上浜橋の先あたりで、やや右へ湾曲する。測量のズレを修正したということである。

 藩政時代でも、まっすぐな貞山堀を測量した技術があったが、長い期間を要している。明治期に入り、西洋の測量技術も使われるようになり、なぜ、このようなことが起きたのか?松の木がジャマで見えなかったのか?否、この松の樹齢も約120年である。開削後に生えてきたものである。

 人家の屋根で見えなかったのか?これも否である。ここら辺は、湿地帯が多く、人家はあっても測量には影響が少ないと思われる。

 なぜ、修正したか?測量技術の比較ウンヌンよりも、測量に時間をかける余裕がなかったと推測されるのである。



F 曲がる南北上運河(定川方向を望む)          〜矢本町大曲付近〜

 湾曲の状態を見るために、上浜橋を、更に進んで、振り返って撮ってみた。
 左右入れ替わって、見づらいかもしれないが、ゆるやかなS字を描いていることがわかる。こちら側から見ると、約40度位の角度で左へ、少しまっすぐ進み、また、約150度右へ曲がり、直線へという流れになっている(角度はおおよそである)。

 現代では、測量ミスといわれるかもしれないが、開削当時は、途中に、埋もれていた墓があることがわかり、墓を壊さずに運河の進路を曲げたという逸話もあるようである。



G 南北上運河(定川方向を望む)           〜矢本海浜緑地公園脇〜

 進行方向とは逆に振り返りながらの撮影である。
右側から、公園が続いている。薪を使っての調理は出来ないが、ガスなどを使用すれば、バーベキューなどの調理可能な設備も整っている。
 矢本町が運営している広大な矢本海浜緑地公園が、画像の右側から後方へ続いているのである。
 運河の中に葦が生えている。オオヨシキリのサエズリも聞こえてくる。水生植物は、運河の水質を改善してくれるのである。静かな流れである。
 画像の左側は、航空自衛隊第4航空団の松島基地が広がっている。3000m滑走路に改修されて、一時期、千歳空港のような軍民共用空港になるのではないかと云われた時期があったが、あいかわらず、今も軍用空港である。ファイターパイロットの最終養成基地であり、高等練習機T−2が運用されていたが、老朽化によりF−2/Bという復座の、F-16ベースの航空機が配備されている。またT−4中等練習機の戦技研究班ブルーインパルスのホームベースでもある。



H 南北上運河(定川方向を望む)               〜鳴瀬町牛網付近〜

 うっそうとした松並木が続いている。画面右側が、自転車専用道路が矢本海浜緑地までつづいている。
 左側の土手を走る道路は、現在護岸工事中ため、いたるところで通行止めになって、立ち入り禁止である。
 先へ進むため、町道を通って運河に出て、撮影しては、また町道へ戻るというくり返しであった。改修工事が終われば、南北上運河沿いの直線道路となるはずであるが、工期は長いようだ。
 やはり自転車で運河沿いを進んだ方がよさそうである。



I 南北上運河(鳴瀬川方面を望む)             〜鳴瀬町平岡地区〜

  護岸と道路の両方の工事をしているようである。工事が終わるまでは、車での撮影は控えた方がいいと、つくづくおもったのである。



J 野蒜築港、下の橋橋台                  〜鳴瀬町佐野地区〜

 野蒜築港で紹介した、アーチ型レンガが敷いてあった「下の橋」の対岸である。
 右側が、開削水路「新鳴瀬川」である。新鳴瀬川は、かつては、南北上運河を左側へ横切って海へ注いでいたのである。更に、新鳴瀬川と南北上運河の合流点付近に、閘門もあったのである。
 このへんの発掘調査は、行われていないが、北上運河の浚渫あるいは、何かの工事があれば、遺構が出現する可能性が大である。
 この「下の橋」が野蒜築港跡の橋台の中でもっとも状態が良いのである。しばらく橋台と時間を過ごしたのである。



K 「下の橋」橋台                      〜鳴瀬町佐野地区〜

 干潮だったので、川側へ降りてみた。広角レンズを使ったのでバースが効き過ぎているが、イギリス積みのレンガの様子と、斜めに積んである飾りレンガの様子がよくわかる。
 この「下の橋」に来るためには、浜市の町内を通って町を迂回しなければならない。途中から、道路状態も悪くなり未舗装部分を走らなければならない。 車の下回りを、何度もこすった。ドロ跳ねもすさまじいのであるが、この保存状態の良い橋台の前に立つと、非常に気持ちが良いのも事実である。



L 「下の橋」市街地跡を望む             〜鳴瀬町佐野地区〜

  「上の橋」では、橋台の上の金具がかなり露出していたが、この橋台のように上面にツライチとなっているのが本当の姿のようである。すなわち、「上の橋」の橋台は、レンガが数段無くなっていることがわかるのである。
 以前行った対岸の橋台のまわりの夏草が伸びているのが遠目にもわかる。アーチ型のレンガ遺構も、今頃は草に隠れてしまっているのだろう。
 秋になり草が枯れ、土に還り、また春になって草が萌え秋に枯れる、それを繰り返していくのだろう。何十年後かには、土の中へ埋もれてしまうのだろうか。
 松の根も、橋台へ入り込もうとしている。産業文化遺産ということで、なんとか保存が出来ないものか考えさせられてしまうのである。



M 南北上運河  野蒜内港 繋船場跡              〜鳴瀬町浜市樋場〜

 野蒜築港関連工事で、一番早く完成した北上運河も、ここで野蒜築港内港跡(鳴瀬川河口)に出た。
 石井閘門から鳴瀬川までの北上運河の浚渫量は、44400立方坪、約266400立米である。繋船場が63900立方坪、約383400立米。総浚渫土量は、明治15年の記録で110500立方坪(1坪6立米)、663000立米であった。運河の浚渫された土砂は、堤防にされ、やがて松が生えてみごとな松並木となっている。この繋船場の土砂は、湿地帯であったデルタ地帯に埋め立てられ、現在は市街地跡になっている。
 浚渫工法も、江戸時代以前から伝わる従来の鋤簾引(Jyorenbiki)では、8尺までしか浚渫できなかったために、オランダから「蒸気浚泥器」を輸入し、さらにまねて国産品を作った。そうした明治の人達の苦労の跡をたどり、私は、野蒜築港跡へ戻ってきたのである。



N 南北上運河 定川方向を望む     〜鳴瀬町浜市樋場〜

 ロマンチックな響きに秘められた北上川のイメージは、洪水との闘いの歴史であった。そして、近年流れを取り戻しつつある北上運河もまた技術と技の挑戦であった。
 私が、当初、貞山堀に魅せられて始めた「広い意味での貞山運河」は、この後の、野蒜築港関連の東名運河、そして、東北の港湾工事の再開である塩竃港関連工事に於ける改修と、更に現代に於ける北上川の改修、塩竃港区仙台港まで含めれば、藩政時代に伊達政宗が考え、そして明治の大久保卿が考えた東北経済の壮大な水運ネットワークの構築のとどまらず、延々と続いてきた人間の水との共生であり、水との闘いの記録でもあるのではないかと思うのである。



O 南北上運河、海へ出る           〜鳴瀬町浜市樋場〜

 「広い意味での貞山運河」の取材のため、現在の走行距離は、1400キロを越えた。その中でも、「野蒜築港」とこの「北上運河」は、特に回数を重ねた。
 はじめて訪れてた時に、枯れ草だった大地は、今は、夏草に覆われている。後2ヶ月もすれば、宮城県内の学校は、夏休みに入る。お盆になれば、「赤い下駄かってけろ」という人はいないと思うが、郷土に帰省する若い人達もいるだろうと思う。郷土を振り返ってもらえば幸いである。



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