街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

苦竹界隈 「苦竹御蔵」から「原町御米蔵」へ

 「御舟曳堀 鶴巻界隈」をまとめた時に、「原町御蔵」に触れたが、j場所を絞り込めていなかった。さらには、1931年(昭和6年)国土地理院刊行の地図にも、面影すらないことで、気になりつつも、貞山堀から仙台城下までの米の道を終わらせてしまった。

 それでも、気になるものは気になる。何気なく、昭和11年の仙台市街地図をみていると、躑躅ヶ岡(榴ヶ岡)公園の側に「釈迦堂」があった。「原町御蔵」に、お堂が隣接していたということは、郷土誌に記載があった。お堂の場所がわかれば、場所の特定もできそうだが、現在は、そのお堂もない。

 現在、仙台市内で「釈迦堂」と呼ばれる持仏堂があるのは、新寺小路にある「孝勝寺」であり、榴ヶ岡でも場所が離れすぎているのである。だが一応調べてみると、「1973年(昭和48年)の宮城県立図書館建設で移築された」とある。「原町御蔵」の隣にあった釈迦堂は、移築され現存していたのだった。

 釈迦堂の位置が、榴ヶ岡の県立図書館(1997年(平成9年・8月閉館、2001年(平成13年)現・宮城県公文書館として開館)ならば、御蔵場がとりついている道は、古地図と現在の地図を比較し、現在の原町本通りと鉄砲町の通りを結んだところ、更に、釈迦堂の元の位置から、原町御蔵の位置がつかめるはずである。そうなれば、地図との睨めっこである。結論は、現在の仙台第4合同庁舎の場所にあったことになる。

 私の中で、苦竹御蔵から、原町御蔵の道が、つながったのである。(30.Jan.2006)

<図-1 御舟曳堀・舟溜り跡(東苦竹と記載)〜苦竹〜原町(南目)〜榴ヶ岡
(1931年(昭和6年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(仙台東北部)を使用しました。


<図-2 :現在の国道45号線(黄色)
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図名:仙台東北部 [南西] を使用しました

 御舟曳堀から、人力の曳き舟で運ばれた年貢米は、苦竹御蔵場に運ばれ、陸路を牛車で、原町御蔵(Haranomachi-okura)へ運んだことは、『在原ノ町舟送遠郡之租米於蒲生浜又舟送之于苦竹倉而以牛車運送収於此』と「封内風土記」に記載されている。
 苦竹御蔵から原町御蔵への道は、現在の国道45号線、そして坂下(Sakashita)から原町本通り(Haranomachi-hondori)へ入り、現在は、45号線が横切っているが鉄砲町(Teppomachi)との交点まである。


@ JR苦竹駅上りホームから苦竹御蔵場跡方面を望む       宮城野区 苦竹

 現在のJR仙石線、苦竹駅、国道45号線の高架橋の上にホームが設置されている。
 国道の右側が、現在の、陸上自衛隊・東北方面隊の敷地であり、春の桜・秋の紅葉となかなかの景観である。

 藩政時代には、すでに苦竹周辺は、辺り一面の水田であったことが絵図から読みとれる。伊達政宗の晩年から二代藩主・忠宗の時代の1673年(寛文13年)に、県北からの仙台藩の米の道が確立するが、鶴巻御蔵から御舟曳堀を通り、苦竹御蔵までは、舟運によって運ばれたのである。

 その苦竹御蔵場のあった場所が、写真中央、白いビルのあたりである。


A 苦竹御蔵場(舟溜り)跡                            宮城野区 苦竹
 苦竹御蔵場跡は、このように商業地となっている。昭和の初め頃には、鈎型の舟溜り跡が、あったが、現在は、埋め立てられて石垣を見つけられなくなっている。
 ただ、救われるのは、このレストラン「さんもん」の駐車場の壁面に、苦竹御蔵場と舟溜りの想像図が描かれていることで、周辺に苦竹御蔵場があったことが、多少なりとも紹介されていることである。 


B 御舟曳き堀からつづく堀跡          苦竹 陸上自衛隊構内 東端部
 御曳舟堀から七郷堀へ続いていた自衛隊構内の東端にある堀跡である。自衛隊敷地は、以前は、トタン塀で囲まれていたが、現在は、フェンスで囲まれているため、歩道側からでも堀跡は見える。
 

 さて、ここから牛車の牛(仙台の方言で「ベコ」)になったつもりで、米ならぬカメラを携えて、仙台城下へ歩いていくことにしよう。


C 苦竹御蔵場から国道45号線を西進          宮城野区 苦竹

 現在の国道45号線である。国道を跨ぐように、現在のJR仙石線の高架橋が見えるが、1966年(昭和41年)1月以前は、踏切が国道を横切っていた。

 仙石線の沿革は、1916年(大正5年)山本豊次らによって、江合発電所の残電力消費のため、仙台−石巻間の電車路線が計画されたことからはじまる。
 1920年(大正9年)細倉鉱山の高田商会から仙台−松島間の賛同快諾を得ることによって1922年(大正11年)、仙石線の前身である愛称で「宮電」と呼ばれていた「宮城電気鉄道(株)」が誕生した。

 レールは、米国から輸入、関東大震災の当日横浜港に入港したが陸揚げできずに神戸港に迂回し陸揚げとなった。その後も震災後の為替相場の暴落により、困窮した。 


D JR仙石線 苦竹駅付近                       宮城野区 苦竹

 下り線側が、更地になろうとしているが、このあたりには、小さな店が軒を並べていた。国道の拡幅工事が始まってこのような姿になってしまった。

 1925年(大正14年)6月5日、仙台−西塩釜間・単線直流電化(1500V)で開業した。その後も、高田商会の倒産により、仙台−西塩釜間の路線を担保に、日本生命が融資を行い。仙台−石巻50.5キロ全線単線電化が開通したのは1928年(昭和3)年の11月22日のことであった。

 宮電の経営は、石巻−金華山航路、野蒜に海水プール、松島遊園地、塩竃−松島航路など、鉄道路線とレジャー直結型の手法をとり順調に経営を続けていた。
 1944年(昭和19年)5月1日、沿線に、軍事施設(躑躅ケ岡に、歩兵第2
連隊、騎兵第2連隊、苦竹に、造兵廠、多賀城に海軍工廠、矢本に海軍航空隊)があることから、アジア太平洋戦争激化に伴い、国策として買収され「国鉄」仙石線となった。


E JR仙石線 苦竹高架橋下                       宮城野区 苦竹

 高架橋の下が旧・路盤跡である。バラストがそのまま残っている。現在使われている砕石のように、とんがった石ではなく、玉砂利の大きなものという感じがする。さび色の石が高架橋の下に続いていた。

写真
 
F 苦竹駅から原町方面を望む                          苦竹駅 

  苦竹駅周辺も様変わりしている。下り車線の二車線化工事が行われているが、この先の、坂下交差点から中原入り口付近までは、すでに二車線化となっている。


G 太平洋センタービル                               宮城野区 苦竹

  昭和40年頃、苦竹(Nigatake)で、ひときわ輝いていたのが、この太平洋センターと呼ばれた、このビルなのかもしれない。
 いまでこそ、マンションが立ち並んでいるが、木造2階建て一部モルタルのファザード付きの店が並んでいる中で、がっちりとしたコンクリートのピルはかなり目立っていた。

 3階建くらいの中規模ビルの1階部分に店舗が入って、上階が、アバートになったビルが流行りだった。そういうビルの名前は、○○センターという名前がついていた。この太平洋センタービルの3階部分も、アパートになっていた。


H 陸上自衛隊 倉庫                                宮城野区 苦竹

 苦竹は、1941年(昭和16年)、陸前原ノ町駅東側から苦竹までの国道45号線の南側の水田、東西2.5km 南北1kmが、いったんたり500円で買収され埋め立てられ軍需工場になった。 「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」である。
 造兵廠は、技師、養成工、徴用工、女子挺身隊、学徒動員による生徒・学生たちが11時間交替制で、主に、12ミリと20ミリの航空機関砲弾を作っていた。

 そのため、現在の、苦竹駅より、東にあった「新田駅」を廃止して、苦竹駅が新設された。


I 音楽隊舎                               宮城野区 苦竹
 敗戦後、造兵廠は、「苦竹キャンプ」としてアメリカ占領軍に使用されたが、1950年の警察予備隊創設にあたり、苦竹キャンプ内にも警察予備隊が同居するようになった。

 その後、1959年(昭和34年)11月、「苦竹キャンプ」は、日本に返還され、翌1960年1月、陸上自衛隊東北方面総監部がおかれ現在に至っている。

 敷地内には、米軍キャンプ当時の建物が残っている。音楽隊舎として、使われている当時の教会や倉庫として使われている建物も残っているが、教会以外は、老朽化が激しく、立て替えられてきている。


J 苦竹小路                                     宮城野区 苦竹

  太平洋センタービルの隣に、国道と川沿いの道の間に2本の小路がある。現在は、国道45号線・下り線拡幅工事のため、小路の約半分が更地になっている。

 拡張工事の始まる以前は、小路の入り口に、大きなアーチが掲げてあり、「American Bar」と横文字で書かれたネオンが怪しく輝いていた店もあった。
 飲屋街に、やたらと英文が目に付くのも、苦竹の特徴であったかもしれない。


K 苦竹小路の裏を流れる梅田川                           宮城野区 苦竹


  護岸がコンクリート化されていないところで、昔の自然が残っている。市街地を流れる川としては、水量が少ない。しかし、本当にきれいになったものである。


L 中原入り口交差点                               宮城野区 苦竹


  下り車線の拡幅工事が完了した中原入り口の交差点である。左側には大型のパチンコ店が2軒並んでいるが、以前は、ニチレイの冷凍倉庫があり、この交差点から大型保冷車が出入りしていた。

 この小さな交差点を、右に進むと、中原地区を抜けると、利府街道に出ることができる。この交差点も交通量の多いところである。


M 二車線から一車線へ                               宮城野区 苦竹

  このシーンを撮るために、道路にはみ出して撮っているのではない。
二車線化になった当初は、この辺りにH型鋼のブロックが置かれていて、急な角度で一車線に合流するようになった。当然、渋滞が起きるが、ある時、交通死亡事故が発生した。そのため、現在では、ゆるやかなカーブを描いて合流するように道路表示と、ブロックの置き方にも工夫された。
 ノロノロで渋滞していると側方の車線を走って、並んでいる車の前に割り込もうとする。ノロノロ車線のドライバーは、前に割り込もうとする車を入れまいと車間を詰める。前方には、ブロックが迫ってくる。入ってしまえ。入れるものか。ちょっとだけ割り込んでも、交差点で左折するのだから、いろんな思惑が、死亡事故を生んでしまったといえるのではないか。
 そんなブロックの後に立って撮してみたカットである。


N 苦竹と「ホルモン」                             宮城野区 苦竹


  「ホルモン」屋、「とんちゃん」屋など呼ばれる、あの香ばしく、うまくて酒が進むホルモン焼き店の総称である。
 苦竹でホルモン屋を営んでいるところは多い。ハングルで、「お父さん」という言葉が、そのままの店名になった店がある。
 この向かいの道路に入って、細い小路を曲がって進んで線路脇に近づくと、普通の家のような店がそこにある。豚足もうまかった。塩をちょいとつけて食べたものだ。今も旨い「とんちゃん」を出しているのだろうか?
 
 なぜ苦竹に旨いとんちゃん屋があるのか。それは造兵廠に深く関わっている。徴用工として、造兵廠にいた朝鮮の人々である。近年、「強制連行はなかった。自らの意志で彼らは日本に来たのだ」という説を唱える人たちがいる。
 その件については、ここでは触れないが、朝鮮から造兵廠に来て、敗戦後、そのまま残った朝鮮の人々がいるということは事実として書いておく。
 そうした朝鮮出身の人々は、残ったバラックに住み、「部落」をつくった。その部落が、仙台市内では小田原と苦竹にあったということである。
 「あんた、トンソクだけ食べるのはダメよ。お酒も飲まないとださないよ」とちょっと怒ったようなアブジの顔を思い出す。今もご存命なのだろうか。


O 成田米穀店                                  宮城野区 苦竹

 原町界隈の米穀店は、藩政時代から、現在まで続いている老舗もあるが、近郊農家と結びついて精米販売を行ってきた店、戦前戦後の食料難の時代に食料供給してきた米穀商など様々な米穀商がいた。

 成田米穀店も、建物は新しいビルになっているが、明治中期の創業以来、近隣農家相手の精米所を営んできた米商人である。創業時、精米機を動かす「水車設置許可願」を県知事宛に出して許可を受けた時の史料が今も残っている。

 食料配給の時代には、「あそこは、白米を食べているのではないか」と警察に毎日食事時に訪ねられたという、そういう暗い時代を乗り切ってきた米穀商も多いということである。


P 坂下付近を流れる梅田川                         宮城野区 坂下


 東北貨物線のガードの先が、坂下(Sakashita)交差点になる。

右側に、梅田川が流れている。流量が少なく、市街地を流れていることから、1960年代は、「ドブ川」になってしまったが、1965年頃から流域地域住民の浄化運動によって1970年頃には、水質の改善がされ、魚の住める川になってきた。浄化運動は、現在も続けられて、悪臭も感じなくなってきた。


Q 坂下交差点                                宮城野区 坂下
 東進すれば、仙台市街へ通じ、西進すれば、苦竹、塩竃方面、北進すれば、鶴ヶ谷方面、利府街道へ通じ、南進すれば宮城野方面へ通じる。重要交差点である。

写真

RR 原町入り口                                  宮城野区 五輪

 坂下交差点から、いよいよ、原町(Haranomachi)に入る。中央の太い道が国道45号線、住居表示は、五輪(Gorin)j○丁目となり、右の細い道が、原町本通りである(但し 一方通行で、坂下から車は、入れない)私にとっては、どちらの道も懐かしく思うところである。原町小学校、宮城野中学校、仙台工業と、宮城野周辺が私の母校であったが、それから30年以上も実は、この通りを歩いていない。同級生達の家もあったが、記憶の中だけである。果たして、今も住んでいるのだろうか。そんなことも考えながら藩政時からある道を歩いてみることにする。

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