街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

4.宮城野と世々の心より 〜「つつじが岡」界隈 その2〜

  宮城野の西側の小高い段丘上にあり、桜の名所として親しまれている「つつじが岡」公園は、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、母の徳を後生に伝えんが為に、釈迦堂を建立し、「士民遊楽の地」として釈迦堂の周りに枝垂れ桜・彼岸桜を千株植えたのが、はじまりだった。

 その公園から、また南に坂道を下ってみることにした。そこには、宮城野にまつわる民の苦しみが繁栄の裏側に埋もれていたのである。
 
 この章では、つつじが岡公園を下って、移築された釈迦堂、そして、かつての宮城野の西側を歩いてみることした。
                                                    (03.May.2006)


図−1 『仙台城下絵図』 (天明6〜寛政元年)           仙台市博物館 蔵

  鉄砲町・二十人町・つつじが岡周辺である。絵図の上、右(東)の方から、御米蔵、釈迦堂、そして鉄砲町、平行して、南側には、二十人町が見える。「御足軽」と記載されている。

 釈迦堂の南側には、南西には、躑躅岡天満宮、東側には、並木、そして御材木蔵が見える。その東側には、畑地となり宮城野の原野である。

 天満宮の南には、二十人町から南に下がって天満宮のある躑躅岡の外周に沿って、カーブした東十番丁の道りが水路とともに描かれている。
 四ッ谷堰の支流・孫兵衛堀である。その南側には、広大な寺域を持つ、二代藩主・忠宗夫人を葬る孝勝寺、その南側に新寺小路iに沿って両側に寺院が並んでいる。その東側は「宮城野」であり、原野が広がっている。

 赤字で屋敷名が記入されている箇所(東七・八・九番丁)は、人の住まない明屋敷であり、宝暦の飢饉につぐ天明の飢饉による衰退である。この衰退の様子は『東遊雑記』に『草ぶきの小屋多くてはなはだわびしき市中なり道筋小石多数ありて河原のごとし6・7年以前、寅卯(天明2.3年)凶年に逢いて下民多数餓死せしかば、それより困窮人多く出てきて今は昔の形はなしといえり』と書いている。



図−2 現在のつつじが岡周辺                                  
 現在のつつじが岡周辺である。孫兵衛堀は、昭和になって埋め立てられ道路となっているが、埋め立て以前は、地上を流れ、また自然に地下浅くへ浸透して、名掛丁や東七・八・九番丁では、多くの井戸となって人々の生活を支えていった。今も井戸が残っているのも、孫兵衛堀があったからである。

 現在、歩兵四連隊跡は、「榴ヶ岡公園」、幼年学校跡地は、NTT、宮城野中学校、榴ヶ岡市民センターになっており、フルスタ宮城西側にあった「騎兵第二連隊」跡は、新寺通りの角と東街道が横切り、東華中学校、民間企業の敷地等に変わっている。



@ つつじが岡 遠望                               青葉区 花京院

 つつじが岡は、古来から歌枕の地であった。古今和歌六帖には、「みちのくのつつじが岡のくまつづら辛しと妹(いも)をけふぞ知りぬる」とあり、松嶋眺望集には、源俊頼が「とりつなげ玉田横野のはなれ駒つつじが岡におあせみ花咲く」と詠んでいる。

 江戸時代の「曽良随行日記」によれば、「おくのほそ道」で、芭蕉と曽良は、1689年(元禄2年)5月7日(新暦6月23日)、躑躅岡天満宮に参詣している。その時のことを『快晴。加衛門 道ニテ権現宮を拝、玉田横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂古ヘ国分尼寺(実際は、国分寺)之跡也。』と記している。


 写真中央のビルが密集した先に、小山か丘か、林のようにもみえるのが、つつじが岡である。その先に広がるのが宮城野であるが、現在は、「あせび咲く」つつじが岡も「萩の花咲き乱れる」宮城野の姿はない。



A 躑躅岡天満宮 「なで牛」                   躑躅岡天満宮 境内


 つつじが岡の中心的存在が、1695年(元禄8年)四代藩主・伊達綱村の釈迦堂と共に植えた千株の桜による「四民遊楽の地」とした現在の「つつじが岡公園」である。

 そして、もう一つは、釈迦堂より27年前の1667年(寛文7年)に綱村が、現在の宮町にある東照宮に隣接して祀られていた小田原天神社を遷宮した「躑躅岡天満宮」である。(当時の建物で現在も残っているのは、前章で紹介した唐門だけである)

 「躑躅岡天満宮」は、学問の神様と言われている「菅原道真」を祀る神社であり、唐門の前には、丑年生まれの道真にあやかって「撫で牛」がある。

 また境内には、江戸時代の俳人・松尾芭蕉、仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風ゆかりの句碑をはじめ、多くの文人墨客の句碑・歌碑、筆塚があり、「俳諧碑林」とも呼ばれている。



B 「芭蕉碑」                      躑躅岡天満宮 境内

 句碑の中で、1743年(寛保3年)の江戸時代に建てられた「芭蕉句碑」が境内に建っている。伊勢の俳人雲裡房が、芭蕉の五十回忌に当たり、芭蕉と芭蕉の弟子で雲裡房の師であった各務支考(蓮ニ翁)を追慕して1743年に建立したものである。
 
 雲裡房は、仙台の俳人に招かれて来仙し、門人を養成していた。この碑が、仙台にある芭蕉の句碑のなかでは最も年代が古いものである。碑文には、「あかあかと日はつれなくも秋の風 芭蕉翁  十三夜の月見やそらにかへり花 蓮二翁」と彫られているが、野ざらしのため読み切れなくなっている。



C 大淀三千風追善碑                      躑躅岡天満宮 境内

 そして、碑の中でもっとも古いのが、1723年(享保8年)「萬句俳諧奉納記」とある大淀三千風追善碑である。

 大淀三千風を調べていくと、芭蕉とも深く関わりがある。三千風選集である「松島眺望集」がそれで、芭蕉を案内した「加衛門」こそ、三千風の高弟・「加之」であり「松島眺望集」の奥書に「湖山飛散人大矢數寓言堂 大淀之三千風統焉 執筆 加之」と記されている。

 芭蕉を「おくのほそ道」へかり出したと言える人物が、
大淀三千風なのである。曽良の随行日記に「三千風尋ルニ不知」とあり、芭蕉は三千風との対面を期して仙台を訪れたとのではないだろうか。



D :変わる「天神山」                        宮城野区 榴岡5丁目

 「俳諧碑林」と呼ばれる天満宮のある「天神山」も、ここ数年で、削られてたり、盛り土がされて景観は変わってしまっている。天満宮の西側に出て、南側を撮ってみた。右奥に2002年(平成14年)に建立された孝勝寺の五重塔が見える。この駐車場の下が天神下である。

 天満宮の隣には、幼稚園、そして斜面には、メルパルク仙台が建っていた。南側の斜面には、桜の古木もあり、春になれば、桜色に染まった。
その南側の斜面が、この駐車場なのである。



:E 「天神下」も変わった                        宮城野区 榴岡5丁目

 天満宮の参道を降りて、西側を見ると、駐車場のよう壁が、垂直に立っている。かつては「天神下」と呼ばれていた地域である。正面に太い道が出来ているが、仙石線がこの道の左脇下を走っていた時とは、全くことなる景観になっている。

 正面の道路上には、回向寺であった「願行寺」があった。道は、門前を北向きにカーブして寺の敷地に沿って西へカーブする道と北へ分かれて、二十人町へ抜ける細い道があった。仙石線も、願行寺の南側をカーブして仙台駅に向かっていった。

 二十人町からの道を拡幅して、直線で、宮城野大通りに抜ける道が前方の太い道路になった。これも都市計画の一環であり、願行寺、慈恩寺、久近寺は移転した。



F  仙石線 旧・榴ヶ岡駅ホーム脇              宮城野区 榴ヶ岡1丁目

 天満宮の下の道を、東に進み、地下化になる前の仙石線、榴ヶ岡駅の下り線ホームのあった場所が右側のガードレール下の場所である。そこから遮断機のついた踏切を渡って反対側の道へでた。線路は、この細い線路脇の道にそって、前方のビルの左側を通って、次の宮城野原駅へと続いていった。



G 井戸                                   宮城野区 榴ヶ岡1丁目

 踏切脇の民家の井戸である。引っ越されたのか、人の気配がしない。洗濯ロープが風に揺れていた。 こうした井戸があるのも孫兵衛堀のおかげであった。



H 南から見たつつじが岡公園                    宮城野区 榴岡5丁目

 現在の、楽天のホームグランドである「フルスタ宮城」へ行く宮城野大通りである。左へ行けば仙台駅東口、右がフルスタ宮城へ行く道である。

 私の立っている後の道は、天神下から移転した金勝寺の門前を通り、新寺小路に突き当たる「新倉通り」である。

 2000年3月11日から、JR仙石線が、宮城野大通りの地下部を走っているが、地下化以前は、手前のコンビニのビルが路盤のあったところである。
 今では、いたるところでビルが路盤跡に建っており、仙石線の旧ルートもわからなくなってきている。



I 久近寺                                  宮城野区 榴岡5丁目

 宮城野大通りを西方向、仙台駅東口にむけて歩いていくと、天神下から移転した久近寺が建っている。



J 俗名 おそよ、市吉、おふく 追福菩提             久近寺
 俗名 おそよ、市吉、おふく 追福菩提という石碑が門前に建っている。

 名掛丁から東七・八・九・十番丁と、かつては、孫兵衛堀が流れており、橋がかかっていた場所もあった。その中で二十人町から東八番丁に向かう所に架かっていたのが「思案橋」で、その橋にまつわる心中話が残っている。

 1774年(安永3年)9月23日、大町の呉服商「粕屋」の娘「おそよ」とその手代「市吉」の話で、身分の違いから、当時は一緒になることは許されなかった。そのため心中を図ったが、「おそよ」は刀で自害したので、武家の娘でもなしえないことと、その健気さは大変もてはやされ、若い二人に同情する声が巷にあふれた。粕屋の主人夫婦も悲しみに暮れたが、気を取り直し二人の遺骨を天神下の桜の下に添わせて葬り、地蔵と観音を刻んだ石を立て霊を慰めたという話である。現在、墓は、葛岡墓地の久近寺の墓地に眠っている

 心中は、「相対死」と呼ばれ、葬式・埋葬も禁止で、一人が死にきれなかった場合は死罪、二人とも死にきれなかった場合は、三日間さらされてから、非人の手下となることにされたという。

 「おふく」についてはまだ未調査である。



K 東八番丁通り北方向を望む                     宮城野区 榴岡5丁目

 東八番丁は、南は、荒町、北は、二十人町までの南北の直線道路で、藩政初期には、柴田郡大河原村の足軽衆がおかれた町で、城下絵図にあった飢饉の為に朱書きの明屋敷になっている場所である。

 東八番丁には、1905年(明治38年)になって、片倉製糸工場(敷地は2万平方メートル)ができ、1956年(昭和31年)で閉鎖した。また特殊飲食店、いわゆる赤線があった場所でもあり、20軒ほどの店が営業していたが、1957年(昭和32年)の売春防止法により赤線廃止となった。

 当時の東八番丁の通りは、狭かったが、1960年(昭和35年)に新寺小路の区画整理事業、1970年(昭和45年)の東北新幹線の具現化に伴い大規模な区画整理がおこなわれ仙石線の踏切手前まで拡幅されていたが、2000年の仙石線地下化と現在行われている再開発により、二十人町、鉄砲町を突き抜けて45号線まで、この幅の道路となっている。

 二十人町に入るところに「思案橋」があったところであるが、今では、面影すら全くない。 



L 仙台サンプラザ裏道                       宮城野区・榴岡5丁目

 宮城野大通りを、サンプラザまで戻って、南へ進むと、今でこそ、明るい道であるが、宮城野大通りが出来る前は、荒れ果てた墓地が続き、写真左側の仙台サンプラザがある場所には、「榴ヶ岡病院」という法定伝染病病院があった。病院の周りは、杉木立でうっそうとした感じで日中でも薄暗い道が続いていた。

 仙台市史によれば、孝勝寺裏の伊達家の土地(1800坪)に病院を建設し患者を収容したのが始まりだった。最初は「仙台避病院」と称していたが、「市立伝染病院」と改め、さらに「市立榴岡病院」と改称して1980年(昭和55年)に廃止されるまで、伝染病患者の収容施設として長い間重要な役割を果たしてきた。
 
 現在でも、当時の様子を留めている鬱蒼とした林が見えるが、サンプラザでイベントのない日は、このように静かで、住んでいる人々には申し訳ないが、やはり寂しい道である。



M 伊達家廟所 三沢初子(「政岡の墓」)の墓            宮城野区・榴岡5丁目

 町中にあって、木立が鬱蒼と茂っているところが、伊達家の廟所である。
入り口には、鍵がかけられているが、西側は、公園になっているので、低い生け垣越しに拝観することは出来るが、公園も寂しい感じがするところである。

 また、三沢初子の隣には、姫路城主・池田輝政の娘で、二代将軍徳川秀忠の養女となり、後に二代藩主・伊達忠宗の正室となった徳川氏振姫(1659年(万治2年)53歳没)。そして、小田原城主・稲葉正則の娘で、後に四代藩主・綱村の正室となる稲葉氏仙姫(1706年(宝永3年48歳没))が眠っている。(稲葉氏仙姫の墓は、1955年(昭和30年)に小田原の万寿寺から移されたものである)



N 三沢初子御霊屋跡                      宮城野区 榴岡5丁目

 「政岡の墓」といわれているが、ここに眠っているのは、歌舞伎「伽羅先代萩」の「政岡」のモデルになったとされる、三沢初子であり、「政岡」は実在の人ではないが、「烈婦 政岡の墓」という石碑まであるので、混同する人も多いのかもしれない。

 三沢初子は、尼子氏の重臣・三沢清長の娘で、後に仙台藩三代藩主・綱宗の側室となり、寛文事件(伊達騒動)の時に、12年にわたり幼君「亀千代」(後の四代藩主・綱村)を守って辛労した人である。1686年(貞享3年)48歳で没した。
 御霊屋があったが、廃仏毀釈で1873年(明治3年)に解体され、現在は石積み基壇上に新たに墓石が建っている。



O くさむら塚                    榴ヶ岡5丁目 金勝寺境内

 宮城野大通りの地下部は、現在の仙石線が走っていると書いたが、仙石線の地下化工事中に、大量の人骨がでたというのが新聞に小さく載っていた。   
 ルート計画時から、1836年(丙申(天保7年))の飢饉で亡くなった人を大きな穴に葬った「塚」を掘り進むことは予想されていたが、工事で数カ所の塚を通ったものである。

 その塚が、この「くさむら塚」なのである。1836年(天保7年)の飢饉では、金勝寺の2つの塚と徳泉寺の2つの塚と会わせて2700人を葬ったと記録にある。その人骨が地下化工事で出てきたのである。単純に計算すれば、ひとつの塚に675人の亡くなった人々が眠っていたことになる。そして、その塚の上に、一つの石碑が建てられたのである。

 金勝寺の二つの塚は、離れた所にあったものが、ひとつにまとめられて、今は、移転されした寺の山門を入った境内の左側の場所で供養されている。

 願行寺にも3つの「くさむら塚」は、あったが、仙台駅東口一帯の都市計画に基づいて、寺院、墓地共に移転しているため、寺院はわかっていても「くさむら塚を探すのが困難になっている。



 孝勝寺 山門                     宮城野区・榴岡4丁目

日蓮宗東北本山、孝勝寺の薬医門である。仙台藩で定めた寺格(序列)は、一門格で最高位であった。

 現在の本堂は、RC製で、1960年(昭和35年)の放火により山門以外全焼後の再建である。左側の五重塔は、2003年(平成15年)に新たに建立されたものである。

 現在の寺域も広いが、藩政時代は「東の瑞巌寺、西の考勝寺」と言われる程、更に広かったと言われており。伊達政宗が出陣する際に必ず戦勝祈願のために立ち寄ったことや、二代藩主忠宗の正室・徳川振姫が法華経を信心していたことからこの寺で菩提を弔っている。
 そして三代藩主綱宗の側室・三澤初子、四代藩主綱村の正室・稲葉仙姫の菩提寺でもある。

 このように伊達家の庇護を受けてきた寺で、サンプラザ仙台の脇の伊達家廟所や孝勝寺と隣あわせの「妙音院」「法輪院」「蓮香院」は、藩政時代から続く子院であり、現在は独立した寺となっているが、かつては孝勝寺の寺域であったことがわかる。


四代藩主・伊達綱村が躑躅岡に建立した持仏堂「釈迦堂」が境内に移築されている




P 釈迦堂                  宮城野区・榴岡4丁目 孝勝寺 境内

 釈迦堂は、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、生母・三沢初子の冥福を祈るため、持仏堂として1695年(元禄8年)に、躑躅岡に建てたもので、1973年(昭和48年)の宮城県立図書館建設に伴い、孝勝寺に移されたものである。

 柱は、黒漆塗り、特に向拝柱は、漆が剥げかかっており、下地の麻布が破れて木肌が見える。創建当時は、素木造だというから1695年(元禄8年)の木肌を見ることができたということになる。

 形式は、三間四方で、一間の向拝が付いている。屋根は宝形造り、本瓦葺形銅板葺で、正面、中央間に折桟唐戸、その両脇に花頭窓が付く。
 堂内の内陣(ないじん)の奥に厨子を備え、釈迦像を安置している。




Q 「釈迦堂の鐘」                     宮城野区・榴岡4丁目 孝勝寺 境内

 釈迦堂に隣接してあった鐘楼の梵鐘は、戦時中に供出されたが、溶かされずに、そのまま戻って、現在の孝勝寺の鐘楼につるされ、大晦日には除夜の鐘として鳴り響いている。
 
 四代藩主・伊達綱村は、幼少の頃は、寛文事件の真っ只中にあって、寛文6年には、毒殺されかけた。政務を司るようになってからは、いぐね(屋敷林)の奨励、貞山堀の開削、塩釜港の振興、自ら儒学を学び多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、「仙台藩中興の名君」と讃えられた。

 しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなりこれを解決しようと1683年(天和3年)に藩札の発行を行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。このため1703年(元禄16年)伊達一門から隠居を余儀なくされた。長男は早世していたため、家督は養嗣子で二代藩主・伊達忠宗の八男・伊達宗房の長男である伊達吉村が継いだ。

 つつじが岡周辺は、藩政時代の仙台藩の栄華と飢饉による民の苦しみ、が混在している場所である。まさに裏と表の歴史の凝縮地帯ではないだろうか。


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