JR仙台駅に降りると、正面玄関のある西口と、旧・宮城球場、フルスタ宮城へ続く東口がある。今でこそ、仙台駅より西側には、ビジネス街が続き、歓楽街の国分町(Kokubun-cho)があり、東北経済の中心地・仙台の顔がある。しかし、それは、伊達政宗が岩出山から仙台に城を移し、町割りを拡張してからである。
それ以前は、反対側の東側が政治・文化の中心であった。現在の国道4号線に、ほぼ沿っている「奥州街道」より古く「東街道」(Azuma-Kaido)と呼ばれた古道が通っていたのも宮城野であった。宮城野を抜け、岩切(Iwakiri)を通り、陸奥国府多賀城へ至る道である。
司馬さんは、宮城野を『陸奥国宮城郡の平野全体をさしたつもりである。狭義の宮城野は、市内に地名や駅名としてのこっている。・・・仙台駅のつぎが榴ヶ岡駅、そのつぎが宮城野原駅である。・・・・江戸期でも水田はなく、草木が生えるにまかせた土地だったらしい。明治後、練兵場になったりした』と書いている。
その宮城野の西側が、「つつじが岡」である。現在は「つつじ」を「榴」と書いて「榴ヶ岡」と書いているが、古地図・古文書をみると「躑躅ケ岡」である。「榴」は、ザクロの意味であるから、「榴ヶ岡」は「ざくろがおか」なのである。いつのころから、漢字の間違いが正しくなってしまったところである。
(20.Apr.2006)
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@ つつじが岡入り口 宮城野区 鉄砲町1番地
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仙台市の「仙台駅東口区画整理事業」によって、大きく変わる鉄砲町・二十人町の東側の入り口が「つつじが岡」である。
町の様子が、変わりはじめたのは、2000年頃からだった。藩政時代は、御城下の入り口として侍町となり、明治以降は職人町として発展し、昭和になって戦災にもめげずに発展してきた。
それが、再開発によって、街並みどころか、城下町特有のクランクにして道幅を狭めた道も消えようとしている。消えゆく街並を記録しようとカメラを持ち出したのは2002年の9月だった。すでに消え去った建物もあったが、まだ生き続ける建物と道は残っていた。そして2006年、消えゆく街と新たな街が混在しはじめている。
真っ正面が鉄砲町の入り口である。住居表示は、鉄砲町となっているが、このあたりも含めて、「つつじが岡」と呼ばれている。まだ45号線を市電・原ノ町線が走っていた1962年(昭和37年)頃の市電停留所(「電停」)名は、『つつじが岡 釈迦堂前』だった。
「鉄砲町」は、東向きの一方通行で、「鉄砲町」通りと、ほぼ平行に走っている「二十人町」通りは、逆に、西向き一方通行となっている。
写真左へ進めば、つつじが岡公園、右に進めば国道45号線である。
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A つつじが岡入り口 宮城野区 鉄砲町
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鉄砲町通りに入る酒屋さんの角を曲がると、三角公園がある。その公園に沿って、道が二つに分かれる。
右側の茶色のかまぼこ型の屋根のあるビルと、小さな飲食店と続いて行く、どこにでもあるような小路、そして、左側の石垣の上に大きな古木のある道がある。
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B 藩政時代からの道 宮城野区 鉄砲町
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茶色のかまぼこ型の屋根のある会社ビルと、小さな飲食店へ続いていく、どこにでもあるような小路。だが、この新しいような道が、藩政時代から続いている道なのである。
昭和40年代頃に、「公園劇場」という映画館があったのもこの通り。邦画から、成人映画専門となって、やがて廃業となっていった。
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C 藩政からつつく道 宮城野区 二十人町
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藩政時代からの坂道を進むと、途中から道がカーブし、病院が見える。
都市計画のために病院が左に移転したのである。本来は直線で二十人町へ続いて行く道だった。
左側のブロックが積んである上に、宮城県公文書館が建っているが、以前は、この通りから、釈迦堂へ行く二手門があったが跡すらわからない状態である。 |
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D 二十人町入り口 宮城野区 二十人町
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坂道を上りきると二十人町入り口となる。この角の病院が、藩政時代の道より、飛び出していることがわかる。
この病院の前の路側帯の白線の延長線が、新しい通りの北端になるようだ。正面に見えている店舗は、やがて道路になってしまうのである。 |
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E つつじが岡からみた二十人町 宮城野区 二十人町
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二十人町へ曲がらずに、そのまま進むと、地面を掘り下げていた。民家が建ち並んでいるあたりが二十人町の通りである。
区画整理事業で、二十人町の通りは、20m幅のどうろとなる。通りだけでなく、両側の民家は、全て道路となり、新しい計画道路は、公文書館前の道路につながっていくのである。二十人町が通りもろとも消えるのである。 |
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F 石垣のある小道 宮城野区 鉄砲町
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三角公園から、左側の道には、石垣があって、大きなサイカチの古木が立っている。こちらの道の方が、いかにも藩政時代からの「由緒ある道」のように感じてしまうが、大正15年以降の地図に掲載されている新しい道である。
後方の、白い建物が、旧・県立図書館、現在の、宮城県公文書館の建物である。そして、この道も宮城県公文書館の前の通りに通じるのである。
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G 残された石段 宮城野区 榴ヶ岡
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石垣のある細長い三角公園だが、道路側からは、杭が回されていて入れないが、旧街道の案内図があるところから三角形の公園内に入っていくことができる。そして、そこに石段が残っている。
石段の先は、生け垣がある。しかし、生け垣の向こう側は、公文書館の壁である。どこにもドアらしいものはついいない。現在では「トマソン」化している石段が、これが釈迦堂の石段なのである。 |
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H 顕彰碑 宮城野区 榴ヶ岡
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トマソン化した石段を右手に、更に先に進むと生け垣に阻まれて出口がない。しかたがないので、公文書館の壁に沿って脇を進むと、石碑が並んでいる。
字数の少ない真ん中の石碑を読んでみることにする。「解剖記念碑」と書いてある。清陵にある東北大学医学部の構内ならば、あっても不思議ではないが、なんでここにあるんだろうと気にはなるが、ここで宮城県初の解剖が行われたという話も聞いてないし、説明板もない。これじゃ、わからない。
碑の後方が、石垣の残っている道になっている。碑は西向きに建っている。 |
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I 宮城県公文書館 宮城野区 榴ヶ岡
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公文書の閲覧でお世話になっている宮城県公文書館の入り口から構内に入ると、左側に石碑が建っている。「躑躅岡釈迦堂碑」である。
この碑が、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、1695年(元禄8年)に自ら碑文を起草し建立したもので、その碑文には「母の慈仁の志」や「子の誠孝の意」といった親子としてのあるべき道が説かれてある。 |
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J 躑躅岡釈迦堂碑 宮城野区・宮城県公文書館構内
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伊達綱村は、幼名を「亀千代」といい僅か、数え2歳のときに、三代藩主綱宗が、江戸吉原で廓遊びに耽溺して国政を顧みず、遂に1660年(万治3年)幕府よりv逼塞を命ぜられたことにより、伊達62万石を襲封し、その後、小説「樅の木は残った」(山本周五郎作)や歌舞伎「伽羅先代萩」の題材となったことで知られる「伊達騒動」(寛文事件:1671年(寛文11年)、に遭遇することになる。
その事件に際し、危難から自分を救ってくれた生母・三沢初子に対して、終生孝養を尽くしたといわれている。
母、初子は、仏道に深く帰依し小さな釈迦像をいつも身に着けていたことなどから、綱村は、母が没した後10年目にあたる1695年(元禄8年)に、形見となった釈迦像を祀った「躑躅岡釈迦堂」を建立し、また、母の徳を後世に伝えようとしてこの石碑を建立したといわれている。
この場所に現在残っているのは、釈迦堂碑だけであるが、隣の説明板になりやら書いてある「昭和48年(1973)に県立図書館建設に伴い、孝勝寺に移築」とある。釈迦堂は、現存するのであった。 |
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K 「四民遊楽」の地 宮城野区つつじが岡公園
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更に、枝垂桜、彼岸桜、松、楓など千株あまりを植樹し、「四民遊楽」の地として釈迦堂の周りに桜の木を植えたのである。現在、桜の名所となっている「つつじが岡公園」は、釈迦堂の桜の一部なのである。
普段は、桜の保護のために、木の回りにロープが張ってあるが、花見期間だけは、ロープが外され、桜の下には、青いビニールシートが敷かれ花見客でごった返しである。
この広場は、二十人町商店街の屋台や、屋台商組合の屋台で賑わっている。宴会をしないで、花を見て、ちょっと食べて帰ろうかという、そんな人たちがこの広場で休んでいる。
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L 旧・歩兵第四連隊跡地 宮城野区つつじが岡公園内
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「つつじが岡」は、桜の名所だけでなく、もう一つは旧・歩兵第四連隊のあった場所でもある。
「榴岡公園整備」に伴い、1977年(昭和52年)に、兵舎6棟が解体され、この1棟のみを東側に移築し、当初の外観構造に復元保存されたものである。
解体した時の新聞記事には、進駐軍が接収したときに、そのまま窓やドアに板を打ち付けた建物もあったようで、飲みかけのコーヒーカップや書類が散らばり、軍刀が抜いたまま床に転がっていたり、敗戦時の混乱そのままの部屋もあったと伝えていた。 |
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M 旧・歩兵第四連隊兵舎 宮城野区つつじが岡公園内
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芝生公園の東側外れの、仙台市歴史民族資料館になっている旧・歩兵第四連隊兵舎である。
現存する宮城県内最古の洋風建築であり、建物は、木造二階建寄棟造、瓦葺で、布基礎は安山岩の切石積、壁は漆喰塗で、建物の角隅にコーナーストーンを装飾し、ガラス入り上げ下げ窓や洋風円柱のポーチなど、知らなければ、しゃれたホテルのようにも見える。
しかし、連隊生活を楽しんだという人の話は聞かない。やはり、旧軍の建物なのである。 |
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N 旧・歩兵第四連隊兵舎・菊紋瓦 宮城野区つつじが岡公園内
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仙台は、「杜の都」「学都仙台」ともいわれるが「軍都仙台」ともいわれてきた。1873年(明治6年)、徴兵制の施行とともに、仙台には、仙台城・二の丸跡に鎮台が置かれ、1888年(明治21年)第二師団と改称された。
つつじが岡には、歩兵第四連隊が設置され、兵舎は、1874年(明治7年)に竣工、1876年(明治9年)に、二大隊となった際に増築された。
この兵舎が明治7年の竣工時のものか、明治9年の増築時のものかは明らかではないが、終戦後は、米軍が進駐し、その後1975年(昭和50年)まで東北管区警察学校として使用された。
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O 現・宮城野中学校正門 宮城野区・五輪1丁目
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旧・歩兵第四連隊の道路を挟んだ東側、NTTから、現在の宮城野中学校、榴ヶ岡センター(写真、右奥の白いビル)が建っているあたりまでが、1896年(明治29年)に開校された旧・仙台陸軍地方幼年学校の跡地である。
1924年(大正13年)軍縮により閉校されるが、1937年(昭和12年)に、この場所ではなく、現在の太白区・三神峰へ、三倍の敷地で復校される。
1924年(大正13年)の閉校により、跡地は、1928年(昭和3年)、現・宮城野中学校の前身である、原町尋常高等小学校と、国立工藝指導所、1932年(昭和7年)に、北一番丁から仙台工業高等学校が移転して(後に東宮城野に移転)跡地は、3校に分割された。
正門右側の木造の建物は、仙台工業高等学校の当時の校舎の一部で、この建物の裏側に、旧・幼年学校跡地の碑がひっそりと建っている。
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P 躑躅が岡天満宮 参道 宮城野区 榴ヶ岡
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藤原泰衡が源頼朝を迎え撃つために設営した陣城が「鞭館」で、江戸時代には、躑躅が岡を「鞭館」と推定地とする説があったが、未だ遺構は発見されていない。
陸奥国分寺縁起に、「陸奥国分寺の七堂伽藍・三百坊は文治5年(1189)8月、源頼朝の藤原氏追討の兵火により悉く焼失してしまった」とあり、鞭館での対峙があったとしているが、縁起は、ずっと後の時代に書かれているために、そのまま信じるには疑問が多いが、陸奥国分寺の遺構からは、奥州藤原氏の勢力がおよんでいたのではないかと思われる掘っ建て柱群列が発掘されている。
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礎石の上に礎盤 (Soban) 粽柱 (Chimaki-hashir) 頭貫木鼻と台輪木鼻 |
Q 躑躅岡天満宮 唐門 宮城野区 榴ヶ岡
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躑躅岡天満宮を、建築として見れば、唐門は、一間一戸の向唐門で、屋根は銅板葺、長い鳥衾(Toribusuma)が特徴的である。桟唐戸があり、柱は円柱で、朱塗されている。榴ヶ岡天満宮は、二代藩主伊達忠宗の時、東照宮造営に際してその地にあった天神社を移したもので、四代藩主綱村が、釈迦堂を造営した元禄8年(1695)の際に、天満宮の本殿・拝殿等を整備した。この唐門だけが当時の姿を留めているとされている。蟇股(Kaerumata=斗型(Masugata)と斗型の中間にあり上の桁の加重を下の桁で受ける)の彫刻の意匠には、江戸中期頃の、礎盤(Soban=高さを調整する工夫のため、柱の下にあるソロバン玉状のもの)や粽柱(Chimaki-hashira=上と下が丸まっている柱)などに禅宗様の特徴がみられる。 (追記※蟇股は、本来は、禅宗様の特徴には当たらない。その意味では折衷様と記すべきであるが、禅宗様の特徴を多く持つために禅宗様と記載した)
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R 額兵隊・見国隊戦死弔魂碑(左)・見国隊・二関源治碑(右) 躑躅が岡天満宮 境内
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戊辰戦争関連碑が二つ並んでいる。仙台藩戊辰の役で新政府軍と戦ったと言えば、「仙台藩からす組」隊長・細谷十太夫直英、「額兵隊」隊長・星恂太郎、「見国隊」隊長・二関源治の3名である。石巻の旧・毛利邸で陣をはっていた榎本脱走艦隊に新政府軍が迫っていることを知らせたのも細谷十太夫直英である。
3名は、石巻から榎本脱走艦隊と合流し、函館戦争に参戦したが、二関源治のみ北海道・大森浜で被弾し、五稜郭で亡くなっている。二関源治碑には、生い立ち、性格、経歴が記されている。
星恂太郎と二関源治碑は、1897年(明治30年)8月に建立され、建立者は遠藤陸郎(虎吉、額兵隊指図役)荒井悟(平之進、額兵隊頭取)細谷直英(十太夫)、仙台藩からす組隊長)針生惣助(のちに侠客として名を馳せたと言われている)と中島高である。
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S 「額兵隊」隊長・星恂太郎碑 躑躅が岡天満宮 境内
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境内は、近年、整備されたが、鳥居をくぐって、額兵隊・見国隊戦死弔魂碑と見国隊・二関源治碑は、右手前に建っているが、星恂太郎碑は、左手奥にある。
星恂太郎は、五稜郭陥落後、獄中にいたが、のち、許されて開拓使に仕え、明治四年、製塩場の建設などにたずさわり、官を辞したあとは、明治九年、仙台で三七歳の若さでで死去する。墓は、東照宮の近く、北六番丁の清浄光院(萬日堂)にあり、現在は無縁になっているが住職さんが弔ってくれている。仙台藩と函館戦争を結ぶ資料であり、ここ躑躅が岡天満宮と同じく訪れる人も多いという。
躑躅岡天満宮には、芭蕉ゆかりの石碑も多い。次回は、宮城県最古の芭蕉碑についてふれてみたい。
(30.APR.2006一部追記)
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