2006年2月から写真を撮り始めた「原町本通り界隈」も、3ヶ月間、調べていくうちに、「原町御米蔵」へ辿り着くことに近づいてきました。
前回「その1」では、現在の原町3丁目から2丁目までの、現在も残っている古い建築物を中心に、まとめてきましたが、いよいよ、原町3丁目から藩政時代に立てられ、明治初期にも、一部名残があった「御米蔵」まで、本章の確信部分に迫ってみるこことします。 |
(19.Apr.2006) |
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<図-1 原町御蔵と原町本通り
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図名:仙台東北部 [南西] を使用しました
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@ 南側境界のT字路 宮城野区 原町2丁目
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写真の左側(南側)にある、庄司写真館のT字路が、原町2丁目と1丁目の境界道路となる。1丁目が近づいてくると、中規模ビルやマンションの姿が目立ってくる。
通りの右側(北側)に建っているのが、御下宿「遠藤屋」であるが、北側の境界は、先に見える信号機のある交差点である。
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A 和泉石材店 宮城野区 原町2丁目
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和泉石材店である。作業場の戸は、閉まったままの時が多いが、たまに戸が開いている日がある。店先に積まれた石が静かに時の過ぎるのを待っているような感じであった。
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B 櫛形の町割 宮城野区 原町2丁目
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原町も二十人町や鉄砲町と同じ櫛形の町割がされている。異なるのは、二十人町や鉄砲町が侍町として割り出されたが、原町は、町人町として発展したことである。
通りに面して店舗があり、奥に住居という細長い店舗兼住宅が多いのも、藩政時代からのこうした町割のためである。
隣の建物がなくなって駐車場になると、細長いスペースができる。どうしても歯抜けのように見えてしまう。
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C 陽雲寺参道 宮城野区 原町2丁目
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伊達政宗の仙台開府以前、鎌倉時代からの地頭であった国分氏と関わりのある寺である。創建は、(天正5年)といわれている。
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D サイクルメイト・シラサワ原町店 宮城野区 原町1丁目
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自転車店である。原町本通りは、一見すると、ポツポツと歯抜けのように見えるが、更地になっているところはない。広くなっているところは、駐車場に変わっている。
廃業する店舗もあるが、また別の店舗が入るということで商店街が生きているのである。
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E 宮城郡役所跡へ 宮城野区 原町1丁目
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シラサワ自転車店の脇の駐車場の脇から細い小路が北向きに続いている。奥に駐車場があるようだ。
よく見ると、駐車場の真ん中に立派な松の木が見える。 |
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F 御代官所・宮城郡役所跡 ゆかりの松 宮城野区 原町1丁目
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駐車場の真ん中の立派な松。周囲は住宅地になり、ビルが視界をさえぎっているが、昭和の初め頃までは、北は、眼下に清水沼が見え、遠く玉田横野を走る蒸気機関車が見え、南は、宮城野の原野、西は、榴ヶ岡の釈迦堂まで見えたということである。
藩政時代から、この場所は「宮城郡国分南目御代官所」が置かれ、明治になって「第2大区事務取扱所」となった。1902年(明治35年)に郡制と共に建物は新築され、1926年(大正15年)の郡制廃止まで郡役所として使用された。昭和になって、建物は、仙台市に移管され、戦後は、授産所となったが、現在は、明治末期の宮城郡役所の玄関前を撮した写真に写っている樹齢300年と言われる、この松の木と現地説明板があるのみである。 |
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G 善入院観音堂 参道 宮城野区 原町1丁目
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細く長い参道の奥に、銀杏の大木と千手観音像を本尊とした「原町の千手観音」と呼ばれている市登録文化財・善入院観音堂が建っている。
元々は、「清光院」が別当であったが昭和8年に善入院に合併されたということであるが、「清光院」がどこにあったのか、私は掴めていない。 |
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H 善入院観音堂 宮城野区 原町1丁目
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仙台にも「三十三観音札所巡り」と云うものがあるが、その第十番札所が、この観音堂である。
また、「守り本尊」または、「卦体神」(Ketai-kami)と称して、その人の生れ年の十二支をとって「子」年であれば、善入院観音堂の千手観音、「酉」年であれば、三瀧山不動尊(青葉区・中央通り)の不動明王というような信仰の風習が、江戸時代中期には確立したといわれている。 |
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I 善入院観音堂 鶏頭木鼻 宮城野区 原町1丁目
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善入院観音堂は、江戸中期の建築と言われており、本瓦葺、宝形造の三間四方で、一間の向拝が付いている。その木鼻部分には獅子頭及び鶏頭の装飾がある。 |
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J もうすぐ終点 宮城野区 原町1丁目
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このへんまで来ると、原町本道りの西側入り口が見えてくる。そして、通りに面したビルが増えてくる。左側の小さな建物が、旧・五十嵐内科の建物だったような記憶がある。
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K 旧・関村呉服店 宮城野区 原町1丁目
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建物は、痛みがきているが、腐食の進んだアルミのプレートには、「MEMBER OF SENDAI CHAMBER OF COMMERCE AND
INDUSTRY 仙臺商工會議所會員」と書いてあった。
通りの北側の斜め前方には、明治から続く、東海林米穀店の建物が見える。原町本通りの西側入り口の顔ともいうべき二軒の老舗が、店を閉めている景観は、残念な気もする。 |
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L 東海林米穀店 宮城野区 原町1丁目
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明治30年代の建物で、2階部分には、従業員が寝泊まりしていたということである。雨戸の開いているうちに是非、とっておきたかったが、残念でならない。上の三枚の写真は、2006年の2月に撮した写真であるが、2006年4月には、下の写真のように消え去っていたのである。 |
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M 原町本通りから見た・西側入り口 宮城野区・原町1丁目
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現在の、原町本通りへの一方通行の入り口である。前方に見えている太い道路が、国道45号線で、大きなビルが第4合同庁舎である。ここから、約160°右方向、国道を渡れば、藩政時代の御城下、鉄砲町へ入る。
右側の東海林米穀店が見えているが、2006年3月までは、このように「通りの顔」であった。
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図−2 「仙台城下絵図」(天明6年〜寛政元年) 仙台市博物館 蔵
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原町米蔵を調べ始めてから、数ヶ月たってしまったが、天明6年〜寛政元年に描かれた「仙台城下絵図」の復刻版を入手した。
この絵図の緑色に着色されているところは、天明の飢饉で、餓死者のために町に住む人がいなくなり荒れ地となったことを表している。
やや右下を見ると。変形六角形の道に囲まれ、更に、四角に囲まれた「釈迦堂」が描かれている。 |
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図−3
天明6年〜寛政元年
「仙台城下絵図」拡大部 |
図−4
国土地理院刊行
1/25000現行地形図拡大部 |
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天明6年〜寛政元年「仙台城下絵図」拡大部と:現行、国土地理院刊行1/25000地形図拡大部の2枚を合成してみたら、原町米蔵の位置が掴めるのではないかと合わせたのが下の図である。 |
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図−5 |
縮尺の違いは、あっても、二十人町、鉄砲町の通り、そして釈迦堂の位置を基準として合わせると、原町本通りが、若干ズレてくるが、原町本通りも藩政時代からほぼ変わっていないことから、ほぼ現在の道と一致しているとしても良いと判断した。
原町本通りは、城下外れの宿場町であったことから「城下絵図」には、描かれてこなかった。また、現在の桜の名所として知られる榴ヶ岡公園も釈迦堂の一部であったことも読みとれる。 |
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N 国道45号線から見た原町本通り西側入り口 宮城野区・原町1丁目
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藩政時代の米を積んだ牛車は、ここから「原町御米蔵」に入っていく。「原町御米蔵」はどこにあったのか特定してみたい。
原町本通りをまっすぐに進む延長線上の交点と鉄砲町からの延長線上の交点を見つけ、更に、藩政時代にあった釈迦堂の位置、清水沼への道、それらの交点から、おおよその「御米蔵」の位置は掴めるのではないだろうか。 |
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O 国道45号線 東から見た鉄砲町 宮城野区・鉄砲町1番地
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45号線を渡って、宮城県第4合同庁舎入り口を背にして、左を向くと、鉄砲町の通りが直線に見える場所が、このへんである。そして、御城下となるのである。
45号線が、旧道をわかりづらいものにしているが、鉄砲町をまっすぐにすすめば、元寺小路に進む。そして、現在では、二十人町の通りは、見えないが、以前は斜め左に二十人町の通りが見えたのである。二十人町をまっすぐにすすめば、名掛丁へ出て、仙台城大手門に続く直線になるのである。
どうやら、45号線の上り車線は、旧街道の一部を利用していることがわかる。
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P 清水沼への道 宮城野区・鉄砲町1番地
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そして、宮城県第4合同庁舎入り口を背にして、真っ正面が、1968年に(昭和43年)埋め立てられた清水沼(Shimizu-numa)へ続く、下り坂の道である。
この通りから、左側(西側)は、「寛文絵図」では、「牛小屋」、「元禄絵図」では、「牛使」の字が読みとれる。旧「小田原牛小屋丁」で、由来は「原町御米蔵」から「苦竹御蔵」へ米を運ぶ牛たちが飼われていたことからついた町名である。交差点を、渡ってみる。
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Q 工藤鍛冶店 宮城野区・小田原2丁目
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かつての清水沼へ行く交差点西側に、屋根上の看板が、のぞしている。そこが農機具をなどを扱う「野鍛冶」の工藤鍛冶店である。店に降りていくのは、フェンスとガードレールの間の小さな階段を降りていく。
原町本通り東側から、ゆるやかな坂がつづいて、つつじが岡で最高点に達する。天明の飢饉で、苦竹御蔵から御舟曳堀の延長計画が出され、断念されたのは、この高低差があったからである。
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Q 原町本通りの延長線 宮城野区・鉄砲町1番地
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45号線をまた渡って、今度は、右(東)を向いてみる原町本通りが直線に見える。この場所が、2本の通りの交点になる。
広角レンズなので、距離感が掴みにくいが、肉眼でみると、さほど離れていない。車で走れば、数秒の距離である。
私が建っている、この場所が「原町御米蔵」の建っていた場所になる。
150m×69mの長方形の「原町御米蔵」敷地もこの第4合同庁舎の敷地に入ってしまうのである。
ただし、「蒲生御蔵」場のように、周辺部の地割りは残っていないために、庁舎の東側寄りなのか西側寄りなのか、あるいは、中央かの判断は、私の絵図から読みとる方法は、残念ながら、はっきりと特定することは、できなかった。ただ、言えるのは、第四合同庁舎の場所が「原町御米蔵」が、あったということだけである。 |
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<図-6 「原町御米蔵の図」 郷土誌「仙台藩を支えた米の道」より引用
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「御修覆帳」によれば、位置は東側82間(約150m)、南側38間(約69m)の生垣に囲まれ、北は原ノ町街道側(現在の45号線側)の表門を挟んで桟瓦塀と土塀より成る広大な長方形をしていた。
表門内東脇に御蔵守の居家、離れて2間半(4.5m)に5間(9m)の御蔵(当蔵)、東北隅に2間半と6間の御蔵(廻之蔵)この2つの御蔵は、後で建ててられた物らしく付箋しあり安永5年6月とある。
更に東側生垣に沿って3間に5間の御塩蔵、後に2間半と6間に変わった間を置いて御米蔵3間に20間、内部仕切1ツ、3間に30間、内部仕切2ツの2棟があり、いずれも惣板敷き。屋根は小萱葺き。
表門内西脇に会所、お役人の詰所、縁側の前方に竹垣を巡らしている。
西側生垣に沿って御米蔵3間に25間、内部仕切2ツ、3間に30間、内部仕切2ツの2棟。南側の1棟は3間に24間、内部仕切1ツで何れも惣板敷。屋根は小萱葺き。中央に俵仕切蔵3間に30間、小萱葺きの3棟である。
南西隅に御米蔵守の居家があり、2間半、梁長5間四方。井戸2カ所、便所1カ所である。
扶持人は、偶数月に、仙台藩から支給される米を受け取りに、来ていたのである。
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R 原町御米蔵跡 宮城野区 鉄砲町1番地
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苦竹御蔵から、牛車を使って陸上輸送がされた年貢米や塩は、現在の宮城県第4合同庁舎の建っている「原町御米蔵」に運ばれのである。
宮城県公文書館で調べていただいた史料に、 「大蔵省御指図、明治5年6〜12月 庶務係」の中に「原ノ町御蔵場配置図」が公開されていることがわかった(図−4がそれをもとに書かれたことがわかる)
それでも、表門等の正確な位置は、つかめなかったが、保存してある「宮城県史」の中に御舟入堀に関する記述があり、何か掴めるかもしれません。というアドバイスをいただいた。
機会をみつけて、更に調べてみようと思う。
原町御米蔵は、仙台城下絵図により、主たる年貢米の輸送の全体の流れを掴むことができた。
貞山堀に入る前の海路は、どうだったのか。仙台藩の外港であった浦戸水道の寒風沢周辺も未調査である。広げていけば江戸の仙台藩邸までの海路・陸路も調べるのもおもしろいと思いつつ、原町御米蔵までの終章といたします。
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