街道をゆく 〜嵯峨散歩 仙台・石巻

「原町御米蔵」原町本通り界隈 その1

  鉄砲町側の国道45号線から、一方通行となっている「市道・原町本通り線」がある。俗に言う「原町本通り」である。「原町」(Hara-no-machi)は、藩政時代は、城下外れの宿場町として栄え、現在まで続いている街並みが残っている。
 
 苦竹御蔵から原町御米蔵へ年貢米を運ぶときには、牛車のために、今とは逆の一方通行の道であった。牛が角をあわせないための策であったといわれている。
 
 私が、小学生であった1965年(昭和40年)頃は、道の両側には、様々な職種の商家が立ち並び、街並みの背後には、畑や田んぼが、少しではあるが、まだ残っていた。畑に行くための細い作場道もあった。

 しかし、今では、住宅地が延々と続いている。真ん中に小さな「中島」があった清水沼は、1963年(昭和43年)に埋め立てられて現在は公園となって、清水沼跡の石碑と地名が残っているだけである。

 それでも、藩政時代からつづいている原町は、今でも面影を残しながらも人々の生活の中で息づいているのである。
                                              (19.Apr.2006)

<図-1 昭和3年の原町本通り
(1931年(昭和6年)国土地理院刊行)>
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図(仙台東北部)を使用しました。

 下の現在の地図と見比べてもらうと、原町本通りの町割りが、ほとんど変わっていないことがわかる。
 変わったのは、緑色の
鉄砲町と空色の二十人町が合流して原町本通りに取り付くところだけであり、国道45号線が出来たことによって様変わりしたのである。
 現在の国道45号線になった道は、「原町本通り」よりも細く、本通りの裏道だったことがわかる。苦竹御蔵から米を積んだ牛車は、原町本通りを通り、原町御蔵に入り、空荷の牛車は、御蔵場から裏道を通り、苦竹御米蔵へ戻っていくということを繰り返したのである。そして、仕事の終えた牛は、また「御米蔵」向かいの牛小屋丁に入るのであった。
<図-2 原町御蔵と原町本通り
※この地図は国土地理院刊行(所蔵)の1/25000地形図名:仙台東北部 [南西] を使用しました



@ 原町本通り 東側入り口                             宮城野区 原町3丁目

 現在の原町本通りの東側入り口。左が国道45号線で、写真の右へ斜めに入っていく道が、原町本通りへの道である。
 現在は、ここも含めて「原町本通り」と呼ばれているが、狭義の「原町本通り」は、「東街道」と交差する「旧・宿場通り」と呼ばれているところからである。


A 「西 御城下へ 」                  宮城野区 原町3丁目
 小さな交差点であるが、藩政時代の要路で、塩竃街道の起点になったところである。

 正面の道が、北行きであり、岩切を通って多賀城へと続いていくみちであり、左が西向き、ここからが旧・宿場通りと呼ばれた、本来の「原町本通り」でもある。右が、多賀城・七ヶ浜方面で45号線につながる。後方が、宮城野原へつづいていく。
 
 松尾芭蕉が、「奥のほそ道」で多賀城へ向かったのも、この街道である
芭蕉は、正面、北行きのルートをとって岩切、多賀城へ向かったのである。こんな細い道でも、藩政時代には、重要な街道であった。

B 「原町苦竹の道知るべ石」                  宮城野区 原町3丁目
 この道知るべ石は、江戸時代・1853年(嘉永6年)に建てられた安山岩の円頂方柱で「西 御城下 二十六丁」「南 長町 宮城野以てふ道 嘉永六年七月日」「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」「東 八幡八満ん 七者満 二里十六丁 四里廿四丁」と彫られている。

 「塩可満」は、現在の塩竃、「松嶋」は現在の松島、「八幡八満ん」は、現在の多賀城市八幡、「七者満 」は、現在の七ヶ浜のことをさしている。 

 この道知るべ石が建った頃には、東にいけば、苦竹御蔵を通り、蒲生を経て、浜街道を通り、多賀城の八幡(Yawata)を経て七ヶ浜へのルートが出来ていたことになる。塩竃・松島へは、岩切を通り、現在の利府街道のルートで塩竃・松島へ続いたのである。


C 蛇行しながら走る車                           宮城野区 原町3丁目

  総延長1380mの「市道・原町本通り線」の街並みは、「原町本通り」と呼ばれ親しまれている。1945年(昭和20年)の仙台空襲でも全焼をまぬがれた街である。そのため、明治・大正・昭和初期の建物も多く町屋の風情を今に残している。

 米穀店、呉服店、ガラス店、表具店、風呂桶店、石材店、鍛工店(鍛冶屋)、自転車店、衣料品店、酒店、板金店、醸造店、寿司店、菓子店、文具店、精肉店、鮮魚店、「一銭みせ」と呼ばれた小さな店、銭湯、書店、医院、いろいろな職種の店が並んでいた。

 特に米穀店は、藩政後期から続く店もあり、戦前は、10数軒が約1キロの通りにならんでいた。近隣の農家と結びついて、精米、販売等をおこなっていたためで、「御米蔵」があったこととは無関係である。


D 高橋セトモノ店、1軒おいて小畑米穀店                 宮城野区 原町3丁目

  私が、この道を歩いていた1962年(昭和37年)から1973年(昭和48年)までは、ごく普通の道だった。しかし、モータリゼーションの発達により、45号線の交通量が増えてくると「信号機の少ない」原町本通りは、国道の裏道として交通量も増えてきた。

 歩行者の安心して歩ける街、人に優しい道路づくりをめざしコミニティ道路と位置づけて、歩道は、カラーブロック化した。車道は、植え込み花壇を交互に車道へはみ出させて、車道に段差をつくって、車は、スピードが出せないようなった。
 私も、以前に、車で通ったが、蛇行させ、段差ではガッタンゴットン、二度と走るまいと思ったものである。

 そんな車道になったのは、1986年(昭和61年)からで、原町小学校周辺は1992年(昭和67年)、最終的には1991年(平成3年)までの3期の工事で完成した。

  しかし、車の通りにくい道は、地域住民以外の買い物客の流れを変えてしまった。静かな商店街になってしまったのだ。現在は、段差を取り去り平坦な道に戻したが、以前の活気はなくなった。  


E 原町カッコウ公園                       宮城野区 原町3丁目
 旧・東北工芸指導所長であった安倍郁二氏(当時は、原町在住)が制作したカッコウ時計は、仙台の戦災復興事業が完了する1961年(昭和36年)に、それまで仙台駅前、青葉通りの2列になったグリーンベルト上にあった「歓迎 仙台市」と書かれた塔の上に、仙台市の紋章の代わりに取り付けられていた。

 1977年(昭和52年)まで、30分ごとにカッコウ・カッコウと鳴いて、観光客や多くの市民に親しまれ、市鳥がカッコウに指定されたのも、このカッコウ時計がきっかけであった。

 その後、青葉通りのグリーンベルト撤去・道路拡幅に伴い、原町商工会議所の役員が保管し、1998年(平成10年)この場所に移設され、21年ぶりにカッコウ時計がよみがえった。
 ここに移設されてからは、平日の8時・12時・17時、土日の10時・12時・15時に、カッコウの鳴き声が時をつげている。


F カッコウ時計                        宮城野区 原町3丁目
 商工省・工藝指導所は、輸出による外貨獲得、東北の近代工業の発展が遅れ政治課題になっていたことから1928年(昭和3年)に榴ヶ岡の旧・陸軍幼年学校跡地につくられ、「玉虫塗」をつくり出したところでもある。ドイツから、ブルーノ・タウトを顧問に招き(1933年11月〜1934年3月までの4ヵ月間)「良質生産」、「見る工芸から使う工芸へ」という造形理念を工芸指導所に定着させたのである。


G 鳥山米穀店                            宮城野区 原町3丁目

 創業は、1936年(天保7年)で、現在も米穀商として営業を続けている。建物は、明治7年に建てられた店舗兼住宅であり、外壁がサイディングで覆われているが、内側は土壁である。
 店内には、昔からの商売用具(藩札・大福帳・矢立・そろばん・そして各種の枡)などが保管されている。
 
原町には、米の配給制がなくなる1951年(昭和26年)まで、4軒の配給所があったが、鳥山米穀店もそのひとつであった。
 当時、配給所になるのに400戸以上の顧客がなければ、許可されなかったが、鳥山米穀店は、700戸の顧客があったということである。


H 武田醸造(株)                           宮城野区 原町3丁目

 荷印「亀甲武」、銘柄「キッコータケ」という仙台味噌を造っている所であるが、通りを歩いていても、もろみの匂いも、感じなかった。というのも、この小さな建物は、発送伝票の処理をするような建物で、奥が駐車場で、その奥に工場があるようです。後日、またこの前をとおったら、懐かしい味噌の香りがしてきました。

 平成12年度の「本場仙台味噌鑑評会」では、第7位を受賞した銘柄である。第一位は、仙台味噌、最大手の「ジョウセン」だった。

 「仙台みそ」の歴史は古く、関西の白みそに対して、赤みそである。安土・桃山時代から全国的に知られ、16世紀後半、豊臣秀吉の、朝鮮出兵の際に、兵糧である地元の味噌を携えていったが、長い滞陣の間に、他藩の味噌は変質したが、伊達政宗が持参していた味噌は唯一変質しなかったため、「仙台みそは質が良い」と評判となり全国にひろまったといわれている。

 みそは、戦国時代、各藩の武将たちの、戦闘能力を左右する戦陣食として、米の次に重大な関心を寄せられていた食品で、仙台藩「味噌仲間掟留帳」によれば、味噌屋仲間の掟として原料・配合・価格等、厳しく定め、城内に「御塩噌蔵」(Oensogura)と呼ばれるみそ工場を建設し、味噌屋仲間の指導を行って、四季を通じて変質しない良質の仙台みそをつくっていったのが、一般庶民へと広まっていったといわれている。



I かつての映画館への道                        宮城野区 原町3丁目

 左側のビルがかつての、「東日の出劇場」のあった場所であるが、このビルがそのままなのか、増築されているのか立て替えられているのか記憶は定かでない。
 かつては、邦画の上映館であったが、私が中学生の頃には、成人指定ではないものの、ちよっとH系の邦画が上映されていて、映画館の前を通ると、変なオヤジが寄ってきて、今、見てきただろう。とか声をかけられるのが嫌だった。特に、3本立てに1本、その手の映画が入っていると、その変なオヤジが後からついてきて、しつこく聞かれるのが大変だった。
 今、考えれば、補導員だったのかもしれない。それ以来、邦画は見なくなった。街中の洋画専門館、しかも、封切館ではないところに通ったものであった。

 この小さな交差点の左へ行く小路が、3丁目と2丁目を分ける境界道路である。

J 安附表具店                             宮城野区 原町2丁目
 昭和初期に建てられた木造二階建て店舗兼住宅である。現在でも掛け軸等の表装を営んでいるが、ふすまや障子の張り替えもしてくれる。


K 小野喜米店                             宮城野区 原町2丁目

 クリーニング取扱店を兼ねている小野喜米店である。お隣の電柱が建っているところが小路になって、国道45号線に出ることができる。


L 遠い日の道                             宮城野区 原町2丁目

 この細い小路が私の小学校時代の通学路であった。左側の木造家屋の下見板は、今も当時のままだった。
 
     
    左から「花氷」    「花氷」の「ひょうたん型」   冬の名物「こがね焼き」 

M 永島まんじゅう店                             宮城野区 原町2丁目

 20歳の幸田露伴は、『突貫紀行』の中で、『はらの町にて、宮城野さえくえぬ身のはらのへるのを何と仙台』と書いている。あの文豪・幸田露伴も、おもしろいことを書いていた。

 そういえば、学校帰りに小遣いで、駄菓子屋に入って食べることを「買い食い」といい、買い食いはダメ!といわれていたが、夏場は、ここの店の、ひょうたんの型に割り箸を入れて、かき氷をつめてレモンやイチゴシロップをかけた「花氷」を買ってたべたものだった。冬は、黄金焼き(Kogare-Yaki)だった。

写真
 
N 原町小学校                            宮城野区 原町2丁目


  開校130周年を迎えた私の母校でもあるが、私が学んだ校舎は、校庭の真ん中に大きな柿の木があるコの字の木造校舎だったが、火災により、1965年(昭和40年)に建て替えられた校舎であった。

 その校舎も、老朽化のため2003年(平成15年)4月から建て替え工事が始まり、工事期間中の2年間は、旧・JR陸前原ノ町電車区構内跡地に建てられた仮設校舎で授業が行われて、2005年(平成17年)3月に完成、4月から新校舎で授業が行われている。

 樹齢120年を越す校木「柿の木」は、残念ながら1997年(平成9年)6月の台風で倒れたが、その柿の木で作られたオブジェも新校舎に展示される予定だとのことである。


O 原町小学校西手の平田神社               宮城野区 原町2丁目

  大きなケヤキの木が学校の周辺にあったが、伐られて、アパートの駐車場になったり、明るい日差しが差し込んでいる。
 現在では、ケヤキも平田神社の裏に残っているだけである。この坂道も、リアカーを曳きながら野菜を売り歩く行商のおばちゃん達の難所であったが、今では、リアカーの姿もも見られなくなっている。
 神社の祭りの日には、屋台がでて結構にぎやかだった。寄り道をせずに帰るように学校から言われたものだった。いまでこそ、神社の沿革を読んだりするが、当時は、学校帰りの遊び場のひとつだった。


P 熊谷米穀店                         宮城野区 原町2丁目
  たまたまなのか、土日が定休日なのか、私が通るときには、いつもカーテンが閉じている熊谷米穀店である。入り口のガラスが綺麗なので、カーテンの開いたお店もみてみたいと思った。

Q 八嶋薪炭店                            宮城野区 原町2丁目

  明治初期の建物で太い梁が目を引く。元々は、農家で戦前は、飴屋を営んでいた。戦後は、現在も燃料店を営んでいる。
 現在は、灯油が主力であるが、昔ながらの「薪炭」を店名に残しているお店である。

 お隣は、銭湯「錦湯」で煙突とファザードが、昭和の懐かしい雰囲気を醸し出している。


R 銭湯「錦湯」                                   宮城野区 原町2丁目

  矢嶋薪炭店の隣が、1929年(昭和4年)創業という老舗の銭湯「錦湯」である。六十年代、仙台市内の銭湯は70軒ほどあったが、現在、営業している銭湯は、九軒ほどしか残っていない。青葉区では、「かしわ湯」、「花の湯」、「駒ノ湯」、宮城野区は、ここ「錦湯」と「喜代の湯」、「滝の湯」、若林区は、「寿の湯」、「白山湯」、太白区は、「鶴の湯」である。

 銭湯といえば、なくてはならないのが「銭湯画」、ここの男湯には、三陸海岸の絵(歌津付近)がある。女湯には、山あいを流れる清流と川、数人の子どもが木の橋の上を走っている絵(広瀬川)が掲げられている。

 これを書いた『浴場背景画家』が市内連坊小路に住む橘正二氏である。銭湯画は、ベニヤ板に木綿布を張り付けた上に、油絵の具と絵画用ペイント絵の具を混ぜて使うと10年は、持つといわれる。氏の手書きの銭湯画が残るのは、現在は、「錦湯」だけとなっている。(市内新坂町「盛り湯」にもあったが廃業、松島の旅館に引き取られてロビーに飾られることになった)仙台市内にあった70軒ほどあった銭湯画の半分は、氏が描いたということである。


S 御下宿遠藤屋                               宮城野区 原町2丁目

 明治初期の木造一部二階建ての建物で、明治の頃より、奈良や富山の薬売りの人々や、榴ヶ岡にあった歩兵第四連隊の軍人達が泊まった宿であった。 その後、学生達の下宿として近年まで営んでいたが、現在は、看板がでているだけのようである。

<< 苦竹界隈に戻る  目次に戻る

TOPへ戻る
   原町本通り界隈その2へ >>